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「俺は結婚記念日だな。誕生日と迷ったんだが」
「おお、さすがっす。愛妻家ですね。ちなみに俺は彼女の誕生日にしてます!」
「いやだって、パスワードにしとけば忘れないだろ?」
「え?」
憶えやすいからパスワードにしているのではなく、『忘れないため』に、強制的に入力せざるを得ないパスワードとして設定しているだけなのだと快活に告げる男に、未婚の二十四歳は肩を落とした。
「それ、奥さんが可哀想なのでは」
「大丈夫、言ってないから。くちが裂けても言わないから」
「うまく騙すのも、結婚生活の秘訣だぞ」
既婚者からのアドバイスから逃げるように、大橋は未婚仲間に顔を向ける。
「……舟木さんのパスワードは?」
自分に飛んでくるとは思っていなかったか、わずかにくちごもったが、「2479」と呟いた。
「へえ。それなんの番号ですか? 偶数と奇数? どうせなら、2468のほうがわかりやすいのに」
素朴な疑問をくちにした大橋。
やり取りを聞いていた河合と佐藤は、若者の肩を叩く。
「おまえは阿呆だな」
「なんでですか」
「推測されやすい番号は駄目だろ」
「あ、なるほど。わざとずらしてるんですね。さすが舟木さん」
朗らかに笑う大橋に舟木は曖昧に微笑み、そんな彼女を見て、残りのふたりもまた穏やかに笑む。
舟木は表情を一変させ、彼らをジト目で睨んだ。
「……なんですか、なにか言いたいことでも?」
「いやあ、べつになんでもないって」
「うん、なんでもねーよ。あ、そうか。そういうのもアリか」
そこでなにか合点がいったように呟いて、佐藤はおもむろに数字を入力した。
3710 エンター
何度となく絶望を叩きつけたウィンドウは現れず、システムの画面に切り替わった。
入力した佐藤はヒューと下手くそな口笛を吹き、河合と大橋は両手をあげてハイタッチ。舟木も安堵した顔を浮かべている。
「やった! ログインできた! え、なんでわかったんですか佐藤さん、それなんの数字ですか」
「おまえは阿呆だなあ」
「なんでもいいから、さっさと申請通しとけよ」
「はい!」
河合に急かされ、大橋は佐藤と入れ替わってパソコンの操作を開始する。
ログインさえできれば、こっちのもの。承認はワンボタンで完了することは知っている。
コンプライアンスとは、といったかんじだが、緊急事態の前では些末なことだ。言わなければバレない。
いそいそと作業に没頭する大橋をよそに、佐藤と河合は舟木に囁く。
「彼女の名前をパスワードにするとか、意外と可愛いとこあるな、アイツ」
「仁科くんに愛されてるねえ、湊ちゃん」
配属直後からお世話になっている男性ふたりの弁に、舟木湊はそっぽを向いて、研修で不在の恋人に内心で毒づいた。
航平くんのバカ。
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