或る男の語り

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「……なんだって、信用できないって云うのかい。  精神混濁した末の幻覚だったのじゃないかって?  確かに僕も最初はそう思っていたさ。  江戸の頃じゃなし、妖怪の類なんて本当はいやしないんだってね。  ところが話はこれで終わりじゃないんだ。  退院して帰ってきた後、心配かけさせた詫びとして馳走しろと悪友達に迫られてね。  仕方がないからカフェーに行ったんだ。  そこで女給の顔を見た途端、僕は息が止まるかと思った。  彼女はまさしく山小屋で会った雪女そのものだった。  エプロンに身を包み、髪を二つ結びにした愛らしい姿を見て怖気が走ったのは僕ぐらいなものだろう。  新しく入ったというその女給は『さくら』と名乗った。  おかしいだろう、てっきり『雪』とでも名乗るのかと思えば、雪女がさくらだなんて。  悪友達が僕の雪山遭難を面白おかしく話すと、さくらは『まあ、お気の毒』と眉をひそめて見せた。  『けど偶然ですわね。N県は私の故郷なの。もしかしたら私達、会っていたかもしれませんわ』  そう云ってN県でのことを聞いてきたが、意図は明らかだ。  僕が口を滑らせるのを虎視眈々と待っていたわけさ。  勿論そんなうかつな真似はしない。  逆を云えば雪女の話をしない限り僕が彼女に殺されることはないのだ。  約束を守っている限り、彼女はただの可愛らしい女の子でしかない。  そう思えば余裕も出てきた。  僕がいつもより積極的に女給と話すものだから、悪友達が勘違いして気を利かせようとしてきたくらいさ。  その日からカフェーに通ってさくらに話しかけるのが日課になった。  逆に彼女の方から雪女であることを白状させてやれば面白いんじゃないかと思ってね。  ところが敵もさるもの、中々尻尾をつかませちゃくれない。  そうやって通い詰めていくうち春になって、僕は花見に誘ってみた。  仕事の場でない方が油断するかもしれないと思ったんだが、彼女は嬉しそうに頷いたんだ。  雪山の夜からは想像もつかないような無邪気な笑みで、僕はすっかりまいってしまった。  あの時から……いや、気づいてなかっただけで、もっと前から僕はさくらに惹かれていたのかもしれない。  春らしい黄緑の着物の上にショールを羽織った彼女は、女給姿よりもっと可愛らしかった。  初めての逢瀬で見た櫻の花はそれまでに見たどの櫻より美しかったが、満開の櫻を見て驚き、目を輝かせて喜ぶ彼女の方が何より美しかった。  『きれい……櫻ってこんなに素敵な花だったのね。さくらって名前にして本当に良かった』  初めて櫻を見た感激のあまり口走ったその言葉を追求してやろうなんて気はもう僕にはなかった。  ……ああ……あの頃は本当に幸せだったなあ……。  さくらと言葉を交わす度、色んなさくらを見る度、僕はいつまでもさくらの傍にいたいと思うようになったんだ。  この瞬間がこれから先も、いつまでもいつまでも続けばいい。  そう思ったから僕は、彼女に結婚を申し込んだ。  身寄りのない彼女との結婚は反対されたし、所帯を持つなら大好きな鳥類の研究もやめて堅実な職に就かなくちゃいけない。  必死になって方々に頭を下げて回ってすがりついて、僕の自尊心はぼろぼろだ。  それでも、かつてないほど幸せだった。  初めての逢瀬で見た櫻ほど美しい櫻はないと思っていたのに、それから一年後の、僕の妻になったさくらと手を繋いで見に出掛けた櫻の方が遥かに美しかった。  美しく見えたんだ。  さくらと見る世界は何もかもが美しく、生き生きとして見えたんだ。  『来年も、再来年も、毎年この櫻を見に来よう』と云ったらさくらも頷いてくれた。  『約束ですよ』と笑ってくれた。  ……あの日だって、会社へ行く僕に『早く帰ってらしてね』と云ってくれたんだ。  少し顔色が悪かったのに、彼女はむしろ機嫌が良さそうだった。  『まだ確実とは云えないけれど、貴方が帰る頃には嬉しいお知らせができると思いますから』  ……それがあの大地震の日の朝のことだ。  同僚の制止を振り切って帰ってきた我が家は崩れ、燃えていた。  さくらの姿はどこにもなかった。  いなくなったんだよ!  さくらは雪女だぞ!?  瓦礫の中から出てきた焼け焦げた死体がさくらのはずがない!  雪女が焼け死ぬなんて……そんな莫迦なことがあるもんか……!」
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