けんじへ

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    *  おっさんは結局、そのまま入院することになった。  熱中症の治療もあるが、他にも病気が見つかったのだと本人が教えてくれた。 「兄ちゃん、ありがとうな」  ベッドで礼を言うおっさんの笑顔に悲しみを感じる。隣に住んでいながら交流を持たなかったくせして、ほんの少しの触れあいで情が湧いてしまった。  そのせいで、このおっさんが病に侵されているという事実が俺の胸に痛みをもたらしてくる。  病名も病状も俺は知らない。家族でもない人間にそれが明かされることはなかったし、本人も言う気はないようだった。  おっさんに頼まれて持ってきた私物(といっても、病院ではとても着られそうにないランニングなどだ。結局代わりの寝巻を用意した)をカバンから出す。おっさんはあろうことか他人である俺に自室の鍵を預けたのだ。  最初、人の家の鍵なんて預かれるかと突き返したのだが、「大事なもんはこれだけだから、他はどうでも良いんだ」とおっさんは例の貯金箱を抱きしめた。その小さな体を見ているとそれ以上の反論もできなくなって鍵を受け取った。 「……なぁ、兄ちゃんよぉ」  ふとおっさんが静かな声で俺を呼んだ。  夏の熱地獄の日も冬の凍り付くような日も地面に這いつくばって落ちている小銭を拾い集めていたおっさん。自動販売機の下や、駅前のゲーセンなんかでも見かけたことがあった。  日雇いの仕事などもしていたのだろう。長年の労働と無理が、病院という体をいたわるための場に来てはじめて、表面ににじみ出てきたようだった。  街中の学生たちに馬鹿にされて「文句あんのか!」と叫び返していたおっさんのダミ声は、掠れたものに変わっていた。 「他に何か持ってきてほしい物でもあるのか?」  問えばおっさんは首を振る。 「んや、逆だ」 「逆?」  おっさんはこちらに貯金箱をずいと差し出した。 「これ、届けてほしいんだわ」  寝る時も抱きしめて離そうとしない、と看護師が呆れていたおっさんの大事な大事な貯金箱。 「届けるって、……誰に」  おっさんは俺が持ってきた荷物の中から油性ペンを取り出して、ペットボトルの側面に何かを書きはじめた。  書かれた文字は四文字。大きく太い字で『けんじへ』――と、おっさんは書いたのだった。 「けんじ?」  あらためて貯金箱が差し出される。胸に押し付けるように、ぐっと。おっさんの細い腕では貯金箱は重すぎるようで、ぷるぷると震えるのが見ていられずに受け取ってしまった。  おっさんは俺が貯金箱を受け取るのを見て、満足げににかぁっ、と笑ってみせた。 「けんじは俺の大切な家族よぉ」  自慢げな口ぶりに、ほんの少しの寂しさが隙間風のように心に吹いた。 (家族、いたのか――)  しかしその「家族」がここに来るのを見たことがない。入院の連絡を受けてもなかなか来られない遠方に住んでいるのだろうか。 「何年もかけて貯めたんだ。これで何でも買ってやるって決めてんだ」  何年と言うわりには小銭ばかり……と思い、気づく。内側の底に、ポチ袋が張り付けてある。ぱっと見では気づかなかったが、この中にはお札も入っているのだろう。  ペットボトルに書かれた『けんじへ』の文字に愛しさのようなものを覚えた。おっさんの孫だろうか。  不意に新品のランドセルを背負おう子どもの姿が脳裏に浮かんだ。良いなぁ、と眩しく思う。 「わかった。けんじにちゃんと、渡してやるよ」  しっかりと頷くと、おっさんは実に嬉しそうに笑うのだった。 「頼んだぞ。俺ぁたぶん、もうこっから出られないからよ」  貯金箱にとん、とぶつけてきた拳はシミだらけで小さかった。
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