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病室を出て、近くにいた看護師にあのおっさんに家族の見舞いはあったか訊いてみる。看護師は困ったように首を振った。
参ったな、と俺ははじめて持った時よりも重さを増したように感じられる貯金箱を見下ろした。
毎日の節約。人に後ろ指を刺されようとも集めた小銭。熱中症になっても飲み物を拒んでこの中に入れてくれと頼んできて――。
「けんじへ」
口に出して呟いてみる。
「ちゃんと届けてやるから、待ってろよ、おっさん」
閉じられた病室の扉にそう声をかけて歩き出した。
とりあえずまずは、おっさんの部屋に行くことにした。家族の電話番号なり住所なり、どこかにメモでもあるかもしれない。
アパートに辿り着き、おっさんの部屋のドアノブに鍵を差し込むと、妙な感覚がした。手応えがない。鍵が開いているようだった。
もしかして大家さんだろうか。禿げあがった頭の大家さんが室内にいることを想像してドアを開ける。
けれどそこにいたのは、俺のまったく知らない男だった。
「……誰ですか、君は」
エアコンのない部屋でぴっちりとスーツを着込んだ男は、俺を見るなりそう言った。冷たく抑揚のない声だった。
「えっと、俺は」
予想していなかった事態に戸惑う。思わず下がった視線の先、スーツの男が靴を履いたままだということに気づいた。
「あの、土足」
「そんなことはどうでもいい。僕は君は誰ですかと訊いてるんです」
歳はおそらく俺よりもいくつか上だ。三十代くらいだろうか。
おっさんがいつも座っていただろう座卓近くの畳を、よく磨かれた靴が踏んでざりりと音を立てる。
視線を上げてみれば睨むようなまなざしにかち合った。思わず気圧されてしまう雰囲気がある。見えない棘を張り巡らせているかのようだった。
「俺は、隣の部屋の者です」
「隣人が何の用です」
その物言いにかちんときて、「友人です」と口にしていた。男の眉がぴくりと動く。
「最近話すようになっただけですけど。おっさんに頼まれたことを片付けに来ました。あなたこそ、どちら様ですか」
俺が問いかけると急に視線をそらし、心底嫌そうに、それでも仕方なくといった風に男は口を開いた。
「……僕はここの住人の息子です。春日井賢二と言います」
玄関に書かれていたおっさんの手書きの表札を思い出す。たしかに春日井と書かれていた。
(いや、それよりも)
「けんじ……? あなたがけんじなんですか?」
俺の発音と反応がよほど間抜けで嫌だったのだろう。「けんじ」は俺に名刺を寄越してきた。そこにはたしかに「春日井賢二」と書かれている。俺にはよくわからない立派そうな肩書まであった。
「こんな苗字、名乗りたくもないがどうしようもない。名前はたしかに賢二ですが、それが何か?」
小さな孫を思い浮かべていた俺は、想像とまるで違う「けんじ」の登場に驚いていた。
が、目の前の男がおっさんの言う「けんじ」ならば話は早い。引っ掛かりを感じはしたが、おっさんに託されていた貯金箱を賢二の前に出した。
「俺の用事はこれです。あなたにこのお金を渡すよう頼まれてきたんです」
役目を果たせる、という気持ちからつい満足げな顔をしてしまった。すると賢二は不快なものを目にした、とでも言うように顔をしかめた。貯金箱を受け取ろうともせず、俺から一歩離れる。
「いりません、そんなもの」
「はぁ!?」
そんなもの――その言葉に怒りが湧いた。これだけ貯めるのにあのおっさんがどれだけ頑張ってきたか。汗で汚れたランニングの背中を思い出した。
「そもそもこんなところにだって来たくなかった。あの男がいた痕跡すら見たくもないのに、どうして僕が来なくちゃいけないんだ」
賢二はぎり、と自分の腕を強く握りしめた。歪みのなかったスーツに皺ができる。
「あの男の友人を名乗るからには、さぞかし仲が良いんだろうね」
冷たい声音だった。
「それじゃあ信じないかもしれないけど、あの男は僕にとっては最悪の父親だったよ」
この暑い中スーツは暑くないのか、と気にしていた俺の前で、賢二は上着を脱いだ。シャツの袖を捲ると、そこには古い傷痕があった。
「見える部分に怪我をさせるようなことは、ああいう最低な奴はしないものだ。だけどこれだけは『間違えて』やってしまったんだろう」
その言葉に愕然とした。おっさんに虐待されていたのだと、この男は語っている。しかもたまたまつけられた傷が今でもしっかりと残っているということは、「見えない部分」に与えられた暴力はどれほどのものだったのか……。
――賢二は俺の大切な家族よぉ。
おっさんの笑顔と声が蘇った。
あらためて考えてみれば、仲の良い家族なら貯金箱は病室に見舞いに来てくれた時にでも渡せば良いのだ。それをしない――出来そうもない、とおっさんはわかっていた。賢二は自分の見舞いに来ない、と。
罪を犯したという自覚があるから。
それでも見かけるたびに小銭を漁っていたおっさんの姿が浮かんできて、俺は賢二に言っていた。
「虐待……を、後悔しているからこの金をあなたにって思ったんじゃないですか。悪いことをした、すまなかった、そういう気持ちがあるから……」
弱くそう反論した俺に、冷たい視線が返された。
「後悔していれば罪は赦されるのか?」
「それは……」
違うと、思う。
だけど自分のことを差し置いてでもお金を貯めていた姿が、どうしても頭から離れない。
――飲み物なんていらんから、この中に。
差し出された貯金箱に小銭を入れると心底嬉しそうにしていた。
――何でも買ってやるって決めてんだ。
寝る時も離すことなく抱えていた貯金箱。
「あの男からどうにか逃げ出して引越しを繰り返して住所を変えて、分籍もしてる。一生関わりたくもないのに、血が繋がっているというだけの理由で連絡が来てしまうんだ。死んだところでその死体を引き取りたいとも思わない。生きているなら尚更近づきたくもないのにそれでも家族なんだから、と周囲の奴らはほざいてくる」
昔のことだろう、向こうも反省している。その親のおかげで今のお前がいるんじゃないか――とまるで諭すようにして。
「赦されないことをした奴が悪いのに、どうして赦せないほうの心が狭いみたいになるんだ。赦されないことを! あいつはしたんだよっ!」
蓋をしてきた感情が爆発したように、賢二は大声を出して爪先で畳を蹴った。口調はとうに冷静さを欠いていた。
「親に骨を折られた奴の気持ちが分かるか? ゲロを吐いても髪をわしづかみにされて床を引きずられる時の感情がどんな風なのかは? 理由もなく殴られて、それでも『お前が悪い』と言われた時の気持ちは? 存在を否定され続けて、自分はいないほうが良かったと刷り込まれ続ける毎日がいったいどんなものだか、想像がつくか?」
畳を何度も蹴る度に、ざりざりと表面が削れて剥がれていく。
「家族は仲が良いものだ? 想い合うべき存在だ? 君もそんな風に考えてるのか。どいつもこいつもよっぽど幸せなご家庭に生まれたんだな。頭がお花畑だ。おめでたくて羨ましい」
「俺は……っ」
向けられた言葉に、頭が真っ白になる。
……俺は施設で育った人間だ、と先を続けられなかった。
あの時浮かんだ、新品のランドセルを背負う子どもは自分自身の姿だった。「家族」からランドセルを贈られて喜ぶという、束の間の夢を見た。子どもの頃の俺に実際に与えられたのは、お下がりだった。
けれどここでそれを明かしても意味がない。「家族」に対して思い描いていたことは、賢二が言う内容と大差ない。
自分にもし家族がいたら、きっと一番の味方になってくれて、きっと誰よりも深く愛してくれたに違いない――そう思っていた。
「今のあいつがどんな人間になってるのかは知らないが、君がほだされて友人になるくらいには良い奴に『見えた』んだろう。だけど、そんなのは昔からだ。よそではいい顔して家の中じゃ暴れる。そういう父親だった」
にかぁっ、というおっさんの笑顔が灰色にくすんでいく。
「虐待されたのなんてほんの数年間のことだろうとでも思うか? その後あいつが過ごした反省と後悔の時間のほうが長いとでも? だけどそんなの、自分の意思で勝手にしていることだ。いつでもやめられる」
おっさんの味方であるべきなのかどうかがわからない。それでもどうにか、口にする。
「で、でも、罪の意識は自分の意思でどうにかできるものじゃ……」
自分は何てことをしたんだ、と壮絶な苦しみを味わったのかもしれない。
「それこそ、自分の行いのせいだ。犯した罪の分だけ苦しめばいい」
手に抱えたままの貯金箱が重い。ペットボトルで作られただけの代物が、中に詰まったお金が、何もかもが、重い。
「今僕は自分の努力でここまで生きて、金を稼いでいる。そんな汚いペットボトルに入った小銭なんか、一円もいらない」
とん、と肩のあたりを押された。貯金箱には触れることもなく、突き返されたのだ。
「あの頃の僕は一生救われないままなのに、あいつだけそんなはした金で謝った気になって楽になろうというのか? 子どもの頃の僕が痛かったのも辛かったのも消えることは決してないのに、今さらそんな小銭なんかで赦されようというのか? 冗談じゃない」
俺は無言で俯いた。
「それでもどうしても渡したいと言うのなら、受け取っても構わない。それをそのままあの男の目の前で落として床にぶちまけてやる。見たくもない面だが、絶望する顔なら拝んでやっても構わない。それくらいの優しさならある」
涙でくしゃくしゃになるおっさんの顔が浮かんで咄嗟に顔を上げた。
「そこまでひどいことをしなくても!」
けれど目の前には、今まさに傷ついている――過去からずっと苦しみ続けている子どもの顏があった。
「……もし本当にあいつが心を入れ替えて善い人間になっていたとしても、……神様のように優しい人間に生まれ変わっていたのだとしても、それでも僕はあいつを憎み続けるし、赦すことはできない」
僕の世界はずっと真っ暗で怖かった――と涙をこぼす。
「でないとあの頃の僕が可哀そうすぎるじゃないか……っ」
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