けんじへ

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 真夏の日光は生物すべてを殺しそうなほどの熱で地上を焼いていた。  俺が座る公園のベンチから見える景色の中には子どもがひとりもいない。こんな熱地獄のような昼日中、子どもを遊ばせるような親はいないから当然だ。  今この小さな公園にいるのは、俺と、自動販売機の下を覗いているおっさん(もはや後期高齢者の域だ)の二人だけ。  こんなに暑いのにわざわざ外に出ているのには理由がある。俺が住んでいるアパートのほうが暑いのだ。  節約のために安いアパートを借りたのが間違いだった。エアコンなしの古びたアパートはすぐに夏の空気に熱される。しかも南向きの部屋だから死ぬほど暑い。  これならまだ風のある外のほうが過ごしやすいと考えて、アパートのすぐ前にあるこの公園にやってきたというわけだ。ぎりぎり木陰に入るベンチでどうにか暑さをやり過ごす。  仕事は夜勤なので時間までここで昼寝でもするかと思った時、違和感を覚えた。  自動販売機の下に小銭がないかと見ているおっさん。この近辺で頻繁に見かけるあのおっさんは、たぶん、俺の部屋の隣人だ。ドアの前で何度かすれ違ったことがある。  そのおっさんが、這いつくばったままぴくりとも動かない。 (まさか――!)  俺は飛び起きて、おっさんのもとに駆けつけた。 「おい! 大丈夫か!」  呼びかけるが返答はない。汗で汚れたランニングシャツを着た体に触れてみれば驚くほど熱い。 「熱中症だ。くそ!」  俺は慌ててスマホを取り出すと、救急車を呼ぼうとした。すると下から「いらん……いらん」とひどく小さな掠れた声がする。 「おっさん! 意識あるのか」  ポケットに入っている小銭で冷たい飲み物を買おうとしたら、それも止められた。 「いらん……」 「いらんとか言ってる場合じゃないだろう。とにかく体を冷やさないと」 「いらんから、家に連れてってくれ……」  話せるということはまだそんなにひどい状態じゃないということだろうか。迷ったがとりあえず、おっさんの言う通りにアパートに連れて行くことにした。部屋で水でも浴びさせて、その間にこっそり救急車を呼ぼう。  そう考えて体を支えるが、もはやおっさんは足取りもおぼつかない状態だ。 (部屋に着いたらすぐに救急車を呼ばないと)  焦りながらそう考えを巡らせる俺に、おっさんは「さっきの小銭なぁ」と話しかけてきた。 「飲み物、いらんから……小銭」  アパートの敷地に入る。住んでいるのが一階で助かった。俺は部屋に入り、バケツに水を汲んだ。それを玄関前に座らせたおっさんに頭からぶっかける。 「鍵ぃ……」とずぶ濡れのおっさんが俺に鍵を手渡してきた。おっさんの部屋の鍵だろう。二杯目の水をかけてから受け取る。 「貯金箱あるから。さっきの金、そこに入れてくれんかぁ」  今の状況が分かっているのかいないのか、そんなことを言ってくる。まあいい。俺はその鍵を受け取ると、おっさんの部屋に入ってすぐに救急車を呼んだ。 「――はい、そうです。出来るだけ体を冷やしているところで――」  説明をしている内に焦りは落ち着いてきた。戻ってまたおっさんを冷やしてやろう。 「あ、貯金箱」  おっさんに言われたことを思い出し、あらためて室内の様子が目に入ってきた。  典型的な老人のゴミ屋敷――とまではいかないが、物が多く雑多な部屋だった。いつも同じような汚れたランニングを着ている、と思っていたがきちんと洗って着まわしていたのだろう。窓のあたりにカーテン代わりのように何着か干してあった。  新聞の類は取っていないのか、紙類のゴミは少ない。意外にもコンビニ弁当やペットボトルのゴミもない。雑多な印象があるのは、単に片付け下手なだけなのかもしれない。  そんな部屋に置かれた小さな座卓。その上に、おっさんの言っていた「貯金箱」はあった。  大きいサイズのペットボトルの口を切り、そこに封代わりにガムテープを貼ってあるだけの代物だったが、小銭がたくさん詰まっている。日々自動販売機の下などを探っていたおっさんの背中を思い出した。 (これに貯めるためだったのか)  それを抱えておっさんの部屋を出て、鍵をしっかりと締める。 「ほら、おっさん。貯金箱」  薄く目を瞑っているおっさんに見せると、にかぁっ、と弱々しくも笑顔を見せてくれた。  タオルをびっしょり濡らして首回りに巻いてやる。足はバケツに突っ込ませておく。素人が思いつく限りのことをして、救急車の到着を待ちわびる。 「さっきの、飲み物の金なぁ」  少し元気が出て来たのか、おっさんがまた同じことをしゃべり始めた。 「ここにくれんか」  ずいっと貯金箱を差し出してくる。面食らったが、それでこの老人の気力が回復するのならば構わない。もともとおっさんに飲み物を買ってやろうとした金だ。  小銭をペットボトルの中に入れてやると、おっさんは嬉しそうにした。 「ありがとなぁ、兄ちゃん」  貯金箱を抱くおっさんを眺めているうちに、救急車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。 「良かった。おっさん、来たぞ」 「何がぁ……」  言いかけた言葉が急に途切れる。見るとまたぐったりとしていた。 「おっさん!?」  俺は急いで道に出て救急車を誘導した。 「すみません! 救急車こっちにお願いします!」  到着した救急隊員に「ご家族の方ですか?」と訊かれた。 「いいえ、ただの隣人で……。でもあの、付き添ってもいいですか?」  仕事まではまだ時間がある。おっさんを心配しながら公園にいるよりも、確実に安心できるところまで見届けたほうがずっと心は楽だ。  処置の邪魔になるからと代わりに持たされた貯金箱は、一円玉などもたくさん混ざっているというのにずしりと重かった。 「金……」  うわごとのように繰り返すおっさんに、「だいじょうぶ、俺が預かってる」と病院に着くまで何度も返事をしてやった。
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