海の小瓶

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リビングのソファに座り、私はおばあちゃんの料理を待っていた。 おばあちゃんは台所で野菜を刻んでいたけど、ピタリと一度止めると呟いた。 「海を渡り、やってきた小瓶を開けてはいけないよ」 それは、いつものおばあちゃんの口癖だった……。 「いつもそれ言うけど、何?」 ああ、と苦笑しながら、「あたしがあたしの証じゃからな」と繋げて言われる。 余計わからない。 おばあちゃんはいつも気づいてくれる。 私が何に不安で、何を求めているかを。 そして、そんな時は、頭を撫でてくれる。 幼い頃はそれでよかったけれど、私はもう20だ。 「しわしわ……」 ご飯の後、座っていたソファでぼーっとしていると、私の隣におばあちゃんが座る。 そっと頭を撫でられると、自然と、そのしわしわな手をくるむように触ってしまう。 「……ふふ、これはね、あたしの生きてる証さ」 「そう、なんだね」 うんうんと頷き、私を抱き寄せると、背中を何度も何度も撫でて、体を預けさせてくれた。 「苦しいのは言ってもいい。じゃが、それは必ず、むくわれるものではない」 「……それは、どういうこと?」 おばあちゃんはやわらかく笑う。 「他人に頼れば楽になる。それと同時に苦しくもなる」 「どうして……?」 目と目が合うと、おばあちゃんは瞳を揺らした。 私はそんなおばあちゃんの瞳を、とても近くで見つめた。 「人が人を信じるということが簡単ではないんじゃ。人が人に応えるということにも、時間がかかることじゃし、優しくしたいと願っても、望んだままが返ることも少ない。裏切られるかもしれないし、逆に望み通りの答えをもらえるかもしれない。じゃが」 ごくりと唾を飲み、おばあちゃんの次の言葉を待つ。 「人は望みを叶えた相手に対し、とても弱くなるんじゃ。そして本来裏切りじゃないことを恨んでしまうから」 「……わからないよ。おばあちゃん」 おばあちゃんはその後、ずっとそわそわしていた。 伝えた後も、もっと大事なことがあるかのように、伝えなきゃいけないことがあるように、考えては口を開き、考えを伝えないまま閉じた。 夜になるとお互いの寝室に入り、ベッドに横たわった私は夢を見た。 「結局、言えなんだ……」 おばあちゃんは夢の中でも優しかったけど、とても悲しそうでもあった。 「おばあちゃん……?」 「強く生きていくんじゃよ」 サヨナラと、おばあちゃんが手を振る。 とても、とても優しい笑顔で。 「え?」 夢から覚めた私の手には、小さな小瓶があった。 それを見た私は、おばあちゃんの口癖を思い出した。 -海を渡り、やってきた小瓶を開けてはいけないよ- 私は小瓶を開けようとしたけど、ギリギリで踏みとどまった。 寝室のドアを開けて、おばあちゃんの部屋のドアを叩こうとした。 「え……?」 おばあちゃんの部屋がなかった。 誰に聞いても、おばあちゃんは存在しなかった。 (どうして……?) 小瓶を握りしめたまま、私は探した。 そして、また思い出していた。 -人が人を信じるということが簡単ではないんじゃ。人が人に応えるということにも、時間がかかることじゃし、優しくしたいと願っても、望んだままが返ることも少ない- 私に優しくしてくれたおばあちゃんは、どこから来たんだろう? どうして、いつも私に優しくしてくれたんだろう。 本当は、おばあちゃんが助けてほしかったんじゃないだろうか? 「……会いたい」 叱られてもいい。 どんなに大変でもいい。 「おばあちゃんに会いたい!」 私は一度、家に帰ると、持てるだけの荷物をもって、海を目指した。 そして、海辺で小瓶の中のメモを開いた。 そこには、涙でにじんだ「……たい」の文字があった。 私は20年かけて、おばあちゃんを探した。 もう生きてないかもしれなかった。 警察は駄目だった。 病院も駄目だった。 そりゃそうだ。 実在しない人を探してくれるはずがない。 夢の中でも探した。 ひとりでは駄目だった。 人を頼った。 一時的に優しくしてくれる人はいた。 でも人生を共に背負ってくれる人はいなかった。 苦しかった。 悲しかった。 助けてほしかった。 探しては結果がないの繰り返しで、40にして髪はすべて白くなった。 (私、なんのために探してるんだろう?) でも、おばあちゃんの言葉を思い出すから。 -他人に頼れば楽になる。それと同時に苦しくもなる- 「そうだね……。そうだね、おばあちゃん」 辛い。 淋しい……。 期待して、裏切られて。 でもその裏切りは、期待したからそう感じるだけで、相手が何もしてくれなかったわけじゃない。 「今ならわかるよ。おばあちゃん……」 両手で顔を覆えば、それがおばあちゃんの手だったらと思う。 (ごめんね。してもらうばっかりで) 「ごめんね。何も出来なかった……!」 口から、小瓶を開けた時、書かれてあった言葉が出てしまった。 「……たい」 涙でにじんだ、あの言葉。 その瞬間、私の体は足先から頭のてっぺんまで、泡になって消えていった。 「死にたくない……!」 せめて、おばあちゃんに会うまでは。 「もう一度、逢いたい!」 目が覚めると、そこは古びた家のベッドの上。 「大丈夫ですか? おばあさん」 傍らの白衣を着た男を見上げた。 髪が真っ白だから、おばあさんに見えるんだと思った。 それだけの苦労をしてきた。 でも……。 「おばあさん、お疲れでしょう。ゆっくり休んでください。それはボクが預かりましょう」 手に持っていた小瓶を持っていかれた。 いつもギュッと握っていたそれは、あまりにもあっけなく奪われた。 「……返してください」 「落としたら怪我をしてしまうから、元気になるまでですよ」 医者の瞳に映る私は、おばあちゃんだった。 その瞬間、悟った。 私は私の頬に、恐る恐る触れてみた。 何度、思い出した言葉だろう? -海を渡り、やってきた小瓶を開けてはいけないよ- 私は泣いていた。 ようやく意味がわかった安堵感もあった。 悔しかったけど、嬉しくもあった。 「私だったんだね。おばあちゃん」 医者は首を傾げて言った。 「大丈夫ですか? おばあさん」 「……ええ、ようやく逢えましたから」 村はずれの医者には小さな娘がいた。 その子を見て、私は切なくなった。 (おばあちゃん。……今度こそ、ちゃんと伝えるから) しわしわのおばあちゃんの手が、今は私にある。 -あたしがあたしの証じゃからな- 愛おしくてたまらなかったし、悲しくて仕方なかった。 後悔なんてしてないよ。 だって、ひとりの人間を一生をかけて探そうとしたんだから。 ベッドの脇に置かれたメモ用紙とボールペンを引き寄せると、そのメモにあたたかな涙がこぼれ落ちた。 (これからも……) 「生きたい」 end
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