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序章002.父と姉とのひととき
三歳年上である姉の王藍洙 の第二の性が乾元であることが分かったのは、王暁が十四歳の時のことだった。
「お父様。わたくしが乾元 だったのだから、うちの跡取りは正式にわたくしということで構わないわよね?」
「……藍洙 。改めていきなり何を言い出すかと思えば」
「あら。いきなりではないでしょう? 前々から話していましたわ」
家族団欒の朝食の席で、突然そんな話を切り出し始めた娘の王藍洙 に、父王奕辰は、一瞬、王暁の表情をまるで窺うかのように見た。
「よろしいですわよね? 言質を取らせて頂いても」
「……いや、その……なぁ」
あぁ。またこの話か。
王暁は、しどろもどろになる父に気づかれないように小さなため息を吐いた。
(……父様ってば。俺は家を継ぐ気はないと何度も言っているのに)
第二の性が乾元なら、男女の区別などさしたる意味をなさないのが一般的だというのに、どうやら父は息子に後を継がせたいという気持ちが強いらしいのだ。
父曰く「お前には武術の才がある」ということらしいが……。正直、今一つ納得がいかない。
確かに鄭貫明のおかげもあり、体格は変わらず小さいものの、王暁の武術の腕は昔と比べて著しく向上した。
才能がある。ちんちくりんで弱虫だと散々馬鹿にしてきたいたような奴らが、王暁に対して、今では昔のことなどすっかり忘れたかのように、そんな風に手のひらを返して持て囃してくるのだから、人生というのはどう転ぶか分からないものだ。
だが、それでも現実に姉との手合わせで勝てたことは一度もない。謙遜ではなく、完全に実力も姉の方が上なのである。
王藍洙 の武術の技量は、他の門弟と比べてもかなりのものだ。間違いなく不足はない。
それに多少は改善したとはいえ、変わらず内向的な性格の王暁よりも、明るく活発な性格の王藍洙 の方が皆を纏めることに向いているのは明らかだ。
そもそも、王暁には次期掌門などいう地位には最初から全く興味がないのだ。
真面目には取り組んではいたが、武術の腕前の向上は、あくまで身を守る為には必要かもしれないなという認識でしかなかった。熱意がないというのが正しいかもしれない。
大体、汗臭いのも痛いのも、王暁は嫌いだった。
もちろん、姉が嫌だというのならば責務を一方的に押し付けるつもりはなかった。だが、王藍洙 が後継に乗り気である以上、王暁からして見れば全く異論はない話だ。
それに。
先日、王暁 は鄭貫明から簪を贈られた。十五歳の成人の儀式の時につけて欲しい。そう言われて渡されたのは、兎があしらわれた可愛らしい簪だった。
簪を贈るという行為は求愛を示している。受け取ったということは「俺も同じ気持ちです」と返事をしたということになる。
つまり、あの瞬間に二人は事実上恋人という関係になったということだ。
だから、今更父がどんなに反対しようとも、女性と婚姻して子を作るなんて王暁には不可能だった。鄭貫明以外の男など、王暁には考えられない。きっと鄭貫明も同じことを想ってくれているに違いない。
父には自分を跡取りにするのは早々に完全に諦めて欲しいというのが王暁の紛れもない本音である。
ちなみに王暁の第二の性はまだ判明していないが、鄭貫明は昨年、中庸であると判明している。
王暁の両親は乾元で、姉も乾元だったので、おそらくは王暁 も乾元、もしくは中庸のいずれかなのは間違いないだろう。
(坤泽、なんてことはさすがにないだろうし……)
大昔は一定数存在していたらしいが、現世において、坤泽は半ば伝説のような存在である。周りも多くは中庸で、少数乾元がいるだけで、坤泽は一人もいないのだから。
中庸であれば良い。そう王暁は思っていた。
何故なら中庸は、限りなく自由な存在だからだ。
(俺も中庸なら、何のしがらみもなく鄭貫明と好きに生きられる……!)
王暁は、簪を渡してくれた時の鄭貫明のことを思い出して、満面の笑みを浮かべた。
鄭貫明の表情は、普段はあまり目立った大きな変化はない。だが、王暁と目が合うと僅かに口角があがるのが、王暁は堪らなく好きだった。
「ふふふ」
二人のこれからのことを考えると、頰が緩んでしまう。
王暁には、鄭貫明 から確かに愛されているという揺るぎない自信があった。
(鄭貫明 、多分修練場にいるよね。朝食持って行ってあげよう)
王暁は、未だに話し込む二人を気にも止めずに、食べかけていた粥を綺麗に平らげた後、肉饅を器ごと手にする。
何せ、このままここにいても不毛な会話を延々と聞くだけだ。
二人の話は、押し切ろうとする姉が優勢な様だし、おそらく諦めて白旗を上げることなるのは父になる筈。だったらこれ以上長居をする必要はない。
むしろ、下手に残れば余計な火の粉が自らに降りかかる可能性さえある。
「俺、貫明 のところに行ってまいりますね」
「こら、待ちなさい。王暁……!」
王奕辰の引き止める声が聞こえたが、ちらりと姉を見れば、ひらひらとこちらに手を振っていた。「まかせて」という口元の動きに、王暁は頷く。
王暁はしれっと父を無視することにした。これは、戦略的撤退である。
「王暁……!」
悲痛な父の声を背に受けながらも、王暁はそのまま脱兎のごとく外に駆けだした。
◆
「全く、あの子は……」
走り去る王暁の華奢な背中を呆然と見送った王奕辰は、少し疲れた様な表情で頭を抱えた。
気性は昔から変わらずに穏やかなままだ。だが、あまりにも能天気すぎる。腕白だというなら分かるが、あれはそういう類のものでないことくらいは王奕辰にも分かった。
紛れもなく息子の筈なのだが、何というかまるで思春期の娘を叱っているようなそんな不思議な気分になるのだ。王奕辰は助けを求めるように、娘の王藍洙を見た。
王藍洙 は、華やかな絶世の美女だった母親によく似た王暁とは違い父親似だ。中の中。まさに平均的な顔立ちと言える。
だが、華やかさこそないものの、非常に賢く、年齢の割には落ち着いた佇まいをした、どこに出しても恥ずかしくない上品な淑女だった。
後を継ぎたいと言ってくれる娘の気持ちは嬉しい。
しかし。
本人が望む望まないに関わらず、武道の才能に関しては王暁が抜きん出ていた。今はまだ王藍洙に勝てない王暁だが、あと二、三年もすれば立ち位置は逆転するだろう。
(娘と息子が逆ならば、と何度思ったことか……)
「お前の落ち着きの半分くらいが、あの子にもあれば良いのだが……」
「あら、あれがあの子の魅力なんですのよ。門弟たちも、結局は皆あの子に夢中ですもの。可愛らしいと評判ですわ」
「皆、あれが良いのか……?」
王奕辰は、娘の話に顔を引き攣らせる。息子に対して失礼だとは分かってはいるが、正直趣味が良いとは言い難い。
「実際にお付き合いするかはともかく、見るだけなら、見目が麗しくて愛くるしい者を見つめていたいというのはおかしい話ではごさいませんわ」
「……お前もか?」
「はい」
王藍洙が、ころころと笑った。
「お父様。いい加減に二人の関係認めてあげてはいかがですか? 二人が両思いであることは分かっていましたでしょう」
「……何故二人を引き合わせてしまったのだ、私は」
「今更ですわね。言っておきますが、説得しようとしても無駄ですわよ。暁の今の頭の中は桃色一色なのですから」
「鄭貫明の方を説得するというのは……」
「暁が泣くような選択、鄭貫明がするとは思えませんわね。それにお父様だって、暁の涙を見たくはないでしょう?」
脳裏に、王暁の泣き顔が浮かび、王奕辰は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。
「あの子の才能が惜しいのは分かりますけどね」
王藍洙は、弟と自身の才能の差が身に染みて分かっているのだろう。少し寂しそうに微笑んだ。
「まぁ、子ならわたくしがたくさん産むから大丈夫ですわよ。安心してくださいな。幸い、あちらもその点は問題ないのですからよろしいのでは? 政略的な意味合いでも、鄭貫明であれば釣り合いも取れますし」
王暁と鄭貫明の強い結び付きは、互いの家にも大きな利益をもたらす筈だ。関係をより強固なものにするという意味では、悪い話ではない。王藍洙はそう言っているのだ。
確かに。王奕辰は渋々ながらも頷いた。
鄭貫明 には歳の離れた妻帯した兄が二人おり、それぞれ既に子もいる。後継でない以上は子供を持つ必要がない。
幸いなことに、王一族も王藍洙が後継になりたいと意思表示をしている上、父方の従兄弟が八人いた。両家共に一族の血が絶えるということは余程のことがない限りは考えにくい。
そもそも、掌門というのは、ある程度の出自と実力さえ伴っていれば文句を言われることはないので、最悪の場合は内弟子の誰かを後継に据えれば問題は解決するのだ。
最悪、王暁 が乾元であっても、大きな問題にはならないだろう。乾元は坤泽と番になり、子孫を繁栄させるという暗黙の了解のようなしきたりはあるにはある。だが、乾元の数に比べて坤泽の数は少ない。というか、ここ百年ほど坤泽は一人も生まれていないのだ。
伝承に近い存在。それが坤泽だった。
王暁が乾元だった場合、運命の番と呼ばれる特別な坤泽が現れる可能性は皆無とは断言できない。万が一ということもある。
だが、現実的な話を考えると、 乾元が坤泽に出会える確率はかなり低く、嫌な言い方をするなら―― 乾元の数は余っていた。
とはいえ、二人ともが中庸なら、番などという関係に振り回されることなくずっと側にいられるので、それが一番最良なのだろうが。
「……それに、お父様には悪いけれど、暁に関しては女性を愛するなんて絶対に無理ですわ。鄭貫明に子供の頃から一途に溺愛されて尽くされて、今更我の強い娘なんて相手にできる訳ありませんし、簪を貰って無邪気に喜んでいるような子を選ぶような奇特な娘、わたくしは知りません。凛々しい美少年ならともかく、眩いばかりの美少女なんて言葉が似合うような相手、わたくしなら御免被りたいですわね」
王暁はまだ十四歳だ。もちろん、将来的にはどう育つかは分からない。成長期がやってきて、美男子に育つ可能性もある。
だが、化粧も一切していないのに、自分よりも遥かに美しい相手に対して劣等感を抱かない。そんな高尚な女性がその辺りにいるとは到底思えなかった。
ただでさえ、武門の娘など大抵は気が強く負けず嫌いな者ばかりなのだ。想像しても、不仲な様しか浮かんでこないのは明白である。
「諦めも肝心ですわよ」
諭すような娘の言葉に、王奕辰は大きく肩を落とした。
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