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序章001.はじまり
――愛が憎しみに変わったのはいつだったろう。
「終わりだ」
「っ」
累々と死骸の連なる戦場で、宿敵、鄭貫明によって、愛刀である双剣――麒麟の片割れを弾き飛ばされた王暁は、地面に片膝をついた。
長く艶やかな黒髪を彩っていた、豪奢な髪飾りが、カランと地面に固い音を立てて落ちる。身に纏っていた真紅の衣は大きく破れ、高く結い上げられていた髪も酷く乱れていた。
血を流しすぎたのだろう。王暁の顔からは、すっかりと血の気が引いていた。
対する、鄭貫明もまた、けっして浅くはない傷を負ってはいた。だが、細く華奢な体躯の王暁と、極めて屈強な肉体を誇る男鄭貫明の差は大きかった。
今にも地面に倒れ込みそうな王暁と違い、鄭貫明は、己が二本の足でしっかりと大地を踏み締めている。二人の姿を比べて見れば、勝敗が既に決しているということは、明らかだった。
長きに渡り、数多の者を殺戮せしめた稀代の罪人であり、鬼の首領――。妖貴妃、それが王暁だ。王暁が率いる、かつて人々を恐怖のふちに震え上がらせた鬼の勢力は、長い年月の中で、徐々に力を削がれて衰えた。栄枯盛衰――鬼は人との戦に負けたのだ。
「……武器を捨てて投降しろ」
「っ。戯言を……っ!」
鄭貫明から見下ろされ、その抑揚の殆ど感じられない声を耳にした王暁は、吠えた。
「俺がここで引くと思うのか……っ。貴様らを全員殺し尽くすまで、俺は……っ……絶対にっ」
燃えたぎるような怨嗟の炎を黄金の瞳に激らせた王暁は、血を吐きながら地面に己が剣を突き立てる。投降など、ありえる筈がない。それなら……敗北を認めるくらいなら、真っ向から玉砕する方が良い。
戦いの場で命を落とすこと自体はけっして恥ではないが、敗北を受け入れて敵に身柄を預けるなどという屈辱、高潔な王暁に耐えられる筈もない。
何より、戦場で散っていった同胞たちに顔向けできないような恥ずべき選択をするつもりはなかった。
しかし、王暁の返答は、鄭貫明にとっては不可思議なものだったようだ。
「……お前は貴重な坤泽だ。生き延びる道は用意されている。望めば恩赦も受けられるだろう。何故、自ら破滅の道へつき進む。復讐なんてやめて、お前は……自分の人生を歩むべきだ。勿論俺も協力する。だから……」
そう言って差し出された鄭貫明の手に、王暁は一瞬、虚をつかれたように目を大きく見開いた。
――この世には雌雄という性別以外に、乾元 、坤泽、中庸という三つの性別が第二の性として存在する。
自らの身体的な性に関係なく、妊孕能を持つ者を妊娠させることが出来る乾元 、性別に関係なく妊孕能を持ち、妊娠することが可能な者を坤泽、それ以外の者が中庸だ。
鄭貫明は中庸で、王暁は坤泽だった。
王暁は、鄭貫明の言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、生き延びる道という言葉で何を示唆されているのか本当に分からないほどに、王暁は暗愚ではない。
乾元 と坤泽の子は、非常に優れた子が生まれると言われている。実際に歴史上名を馳せた帝や将軍は、乾元 と坤泽の子ばかりだ。
その為、より優秀な子が生まれるようにと、坤泽の嫁ぎ先は、通常自由には選ぶことは出来ず、大抵の場合は位の高い乾元と番わせられることが多い。
それすなわち、王暁には坤泽 としてであれば、高位の乾元 の番として、これからも生き残る道があるという意味に他ならなかった。
――そこに恋慕の情があろうとなかろうと、だ。
王暁は、一瞬凄まじい形相を浮かべると、鄭貫明の手を振り払った。
「ふざけるな……っ!」
王暁 は、鄭貫明を貫くように睨め付けながら、低く押し殺した声で「おのれ、鄭貫明!!」と叫び、剣を振り上げる。
――だが、その刃が鄭貫明へと届くことはなかった。
「――っ!」
一条の矢が、王暁の胸を背後から射抜いたからだ。死角から放たれた矢は、何物にも阻まれることはなく、その背に真っすぐに突き刺さっていた。
ここは戦場――。決して一対一の私闘ではない。首級を狙う者の気配に気付けなかったのは、王暁の失態だった。
「暁暁!!」
自身の名を叫ぶ鄭貫明の姿を視界の端に捉えながらも、王暁は、ゆっくりと後ろに倒れ込んだ。
あまりにも情けない死に方だ。
だが。
これも天命だというのならば受け入れるしかない。
それに……。
「貫明……」
王暁は、小さく男の名前を呼んだ。
宿敵。今でこそ、長い時間が二人を隔ててしまったが、かつて王暁と鄭貫明は懇ろな仲だったこともあった。
(……あの頃は、幼なかったな)
鬼に成り果てる前の昔の記憶が、走馬灯のように脳裏に蘇って来る。
――そう、まるで昨日のことのように。
――鄭貫明と初めて出会ったのは、王暁が八つの時のことだった。
鄭貫明が父親に連れられて、王暁 の故郷である九寨溝にやって来た日だ。
「鄭貫明です」
よく通る声を持った、幼子とはとても思えぬ大人びた少年に初対面で丁寧に拱手された王暁は、慌てて父――王奕辰の後ろに隠れた。
「これ、暁」
呆れたように王奕辰に諌められるも、王暁は左右に首を振りながら父の足にしがみつく。
「すまぬな。俊宇。この子はどうも気が弱いのだ」
「いえ。かまいませんよ。可愛らしい子ではないですか」
点蒼派の掌門で、王奕辰の親友の 鄭俊宇は、そう言って王暁に優しく微笑んだ。
王暁は当時、他者と触れ合うことを極端に苦手としていた。
その理由は、王暁に対する周囲からの執拗なからかいだ。
第二の性が判明するまでの幼少期は、男女の区別なく育てられることになっている。乾元であれば、女性であっても門派の頂に立ち、中庸であればその下に仕える。滅多に生まれることはないが、坤泽は乾元と番になり、子孫を繁栄させること。
それが武侠の世の常であり、理だ。
王暁の父が掌門を務める門派である九寨派は、九派に数えられる名門として乾元を多数輩出する一族として知られていた。だが、王暁は周りの子供と比べて、横にも縦にも一回り小さかった。
武術というのは、手足の長さが重要とされる。小柄であるほど、そして身体が軽ければ軽いほど不利なのだ。
思うような成果が得られずに、上手くいかない時などは八つ当たりの標的にされて、軽くとはいえ、修行の内だと身体の大きな子供に殴られて蹴られる。そして。さも当然のように、揶揄われて泣かされる日々は、王暁を内向的な性格にさせた。
正直なところ、王暁としては、草花を摘んだり、編み物をする方が性にあっていた。しかし、武術を習うことは半ば義務だった為、拒否することは許されなかった。
三つ年上の姉である王藍洙 も周りの大人たちも、王暁を可愛がってはくれていた。
だが、皆武術に対しては非常に勤勉で、けっして私情を挟まない人たちだったので、王暁には逃げ場というものがなかった。
辛い幼少期だったといえるだろう。
だが、王暁のそんな辛い日々も、鄭貫明との出会いによって終わりを告げた。
何故なら、
「暁暁に手を出すな」
鄭貫明が、そう言って王暁をことあるごとに庇ってくれるようになったからだ。
当初 、王暁は 鄭貫明の声が大きいところが少し苦手だったし、なぜ優しくしてくれるのかが理解できなかったので、出来る限り鄭貫明から距離を置こうとした。
そもそも子供は気まぐれだ。今は優しくしてくれても、いつ心変わりするとも限らない。だから、いくら父から「彼は成人までの間、うちで暮らすことになる。仲良くしなさい」と念を押されるように言われていたとしても、簡単に心を許す気には到底なれなかった。
だが、王暁がどんなに卑屈な態度を取って遠ざけようとしても、鄭貫明は我慢強く、けっして王暁の側から離れなかった。
逃げる王暁に辛抱強く声をかけて、辿々しく話をしてもけっして怒らない。
それどころか、まるで王暁をどこぞの姫君かのように大切に扱うのだ。
「泣くな」
独りだけ除け者にされて泣いていると、花を差し出してくれる。転んでしまって歩けなくなってしまった時は背におぶってくれたし、嵐が来て怖くて部屋で泣いていると一緒に寝てくれた。
ある時、どうしたら皆からこれ以上嫌われないですむと思う? と王暁が恐る恐る尋ねると、
「違う。皆、暁暁が可愛らしいから構うんだ。嫌ってるわけじゃない」
「……でも、すぐ俺のことを叩いてくるよ」
「子供というのは、そういう捻くれたことをするんだ」
「そうなの?」
「あぁ」
鄭貫明は優しくそう言ってくれた。
戸惑っていたのは、本当に最初だけだった。
鄭貫明から向けられた純粋で分かりやすい好意。それはとても心地好くて甘かった。
鄭貫明は、少し無骨なところはあるが本当に優しい男だった。周りの同じ年頃の子供たちの中では誰よりも大きい身体の持ち主で、腕も立つ。
同い年だが、王暁よりも精神的にも大人で我慢強く努力家。そんな男が、何の見返りも求めずにただ一途に甘やかし、守ってくれるのだ。嫌いになれる筈がない。
気づけば 、いつの間にか王暁は彼のことが大好きになっていた。
「もうこれ以上歩けない!」
「……俺の背に乗れ」
調子に乗った王暁が、ふてくされてそんな風に我儘を言っても、嫌な顔一つせずにしゃがんでくれる。その姿を見た大人からは「甘やかしすぎでは?」と言われていたが、鄭貫明は常に王暁の味方だった。
鄭貫明は、どんな王暁でも受け入れてくれた。
―― 鄭貫明が隣にいるだけで、王暁の世界は大きく変わってしまった。
あんなに嫌だった武術の修行も苦にならなくなり、周りの子供たちとの関係も少しずつだが次第に好転していった。
すべては鄭貫明のおかげと言っても良い。
「暁暁。今日は毽子をやろう」
「……うん!」
差し出された鄭貫明の手を、 王暁はぎゅっと力強く握った。
鄭貫明と幼い頃に過ごした日々は、 王暁にとっては、まさに光り輝くような宝物だった。
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