赤心は陛下に届かず

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 昭和十一(西暦一九三六)年二月二十六日未明、陸軍青年将校らが約千五百名の兵士を率いて武装蜂起した。政府要人多数を殺害、さらに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠するクーデターが発生したのである。  雪の降り積もる帝都・東京を震撼させた大事件――二・二六事件である。  事件の首謀者たちは昭和維新を唱え、彼らが悪と見なした「君側の奸」を一掃し、天皇を中心とする政治体制の確立を目指していた。  事件発生当初、陸軍首脳らは反乱軍に対し断固たる態度を示さなかった。しかし昭和天皇が自ら近衛師団を率いて反乱軍を鎮圧する意志を示したことから方向転換する。陸軍は反乱軍に投降を命じ、それに背く場合は攻撃を辞さないと最後通告を行った。  それらが天皇の命令であることを知った反乱軍の将校たちは、自決した者を除き投降した。投降した将校らは裁判に掛けられ、多くが死刑または無期禁錮となった。  裁判は迅速に行われた。それは天皇の強い意向によるものであったとされている。厚い信頼を寄せていた重臣らを殺された天皇の怒りは激しかったのである。
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