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手紙の行方
少女に連れられ入ったのは、恵麻嬢の部屋だという。家具類もすべて当時のまま残されているそうだ。彼女は屋敷の管理のため数ヶ月に一度この家に訪れていると言った。
「何もお出しできなくて申し訳ないですけれど」
少女に促されティーテーブルの椅子に腰かける。
「いえ、とんでもないです。あの……つかぬことを伺いますが、実は先ほど近所の方にお会いしまして。恵麻さんは、その、若くして亡くなられたと」
「ああ、駆け落ち事件のことをお聞きになったのですね」
梓が迷って避けた話題を少女はいとも簡単に口にした。
「たしかに、曾祖母は駆け落ち事件後、すぐに亡くなったことになっています。表向きは。でも実際は、外聞を気にした曾祖母の父が、曾祖母が死んだことにして、遠縁の親戚のもとに送ったんです。このあたりでは噂が広まりすぎていましたから。曾祖母は天寿を全うしましたから、ご安心ください」
少女は立ち上がり、窓際のチェストに向かうと、何かを取り出し、梓に差し出した。
「これが、大橋実です。それから、曾祖母と、和子さん」
それは、写真だった。大橋実は現代でも通用しそうな端正な顔立ちで、物静かで聡明そうな雰囲気だった。まさか主の愛娘との駆け落ちなんて大胆なことを到底考えそうにない。恵麻嬢の父親からすれば、まさに寝耳に水、飼い犬に手を嚙まれた心境だったことだろう。ではこのどちらかの少女が祖母――と、視線を動かしたところでドキリとする。そこに写るうちの一人は、目の前の少女とそっくりだったから。
「和子さんには申し訳ないことをしたと、曾祖母はずっと言っていました」
「申し訳ないこと?」
「ええ。軟禁状態になった後、和子さんは二人の手紙の配達人になってくれていたんです」
「祖母はそんなこと、気にしていないと思います。本当にご友人の力になりたいと思っていたのだと思いますから……」
現に、こうして渡せなかった手紙を今でも持ち続け、焼いてまで一緒に持っていこうとしているのだ。少女はふっと口元を緩め、目を伏せると「いいえ」と頭を振った。
「謝りたいのは、手紙のやりとりで手を煩わせてしまったことではないんです」
梓はきょとんとして、黙って続きを待った。少女は目を伏せたまま、呟くように続けた。
「駆け落ち事件後、遠縁のもとに行くことが決まるまで一カ月ほど、実さんとの手紙は続きましたが、ある日、気づいてしまったんです。和子さんもまた、実さんに想いを寄せていたことに」
「祖母が?」
少女は顔を上げ、眉を下げて困ったように微笑みながら、頷き、窓に向かう。
「ここは高台ですから、物事がよく見えるのですよ。私はとても後悔しました。親友になんてことをしてしまったんだろうと。和子さんはどんな気持ちで……ずっと親友を傷つけ続けていた私が、何も知らないふりをして実さんと幸せになんてなれないと思いました。だから、和子さんにも知らせないまま、ここを去りました」
梓は何も言葉を発することができなかった。祖母は、表向きの噂話と同じく、恵麻嬢が亡くなったと思い込んでいた。だから、渡せない手紙が手元に残ってしまった。
「ここに残った和子さんと実さんが、幸せになれればいいと思いました。私の喪失という共通の体験を背負って。でも、和子さんは結局実さんとは結ばれなかったのですね」
いつしか彼女が、恵麻嬢を“私”と言っていることに、梓は気づかないふりをした。祖母の意思とは反してしまうけれど――今、この手紙を渡す役目が自分にあるのではないかと感じていた。
「お渡ししたいものがあるんです」
少女が振り向き、黒髪が揺れる。
「手紙です。一通は、大橋実さんから恵麻さん宛。もう一通は、祖母から恵麻さんにあてたものです。祖母は私に、これを一緒に棺に入れて焼いてほしいと頼みました」
少女はしばし梓が手にした手紙を見つめ、それからデスクの引き出しを開けると、ペーパーナイフを取り出し、梓に差し出した。
「開けてくださいませんか? 私、残念ながらこの屋敷にあるもの以外には触れることができないんです」
梓は頷くと、ペーパーナイフを受け取った。
まずは一通め。大橋実からの手紙。入っていたのは三つ折りの便箋と……。
「列車の切符?」
それを見て少女は、「実さんは二度目の駆け落ちを企てていらしたのですね」と微笑んだ。
それからもう一通、祖母からの手紙を開封し、開いて机の上に置く。それを覗き込んだ少女の表情は、みるみるうちに崩れていった。
「届けてくれて、ありがとう」
ついに涙を零した少女は、微笑みながら「どうか和子さんに、私はあなたを恨んでいないと伝えてね」と呟くと、ふわっと消えた。机の上からは、切符が消えていた。
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