1.それぞれの風

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1.それぞれの風

 午後のテーブルで一人本を読んでいた湊萌は、顔を上げて壁の時計を見た。そして金魚の絵柄の入った栞を挟み、そっとページを閉じた。  昔から本を読み始めると時間を忘れて物語に引き込まれてしまう癖がある。  湊萌は首を左右に倒してから大きく一つ伸びをした。それと同時にふわりとカーテンが膨らみ、真夏の風が部屋の中に吹きこんできた。その風に誘われたように湊萌は立ち上がると、ベランダに面した窓を全開にした。そして思わずまぶしさに目を細めた。外は強い日差しのせいで、まるで白飛びした写真のようだった。そこから蝉の声と夏の匂いが運ばれてくる。  日を追うごとに暑さは厳しさを増しているが、こうして夏の風を全身で感じるのが湊萌は好きだった。熱中症には注意が必要だが、風のある日はつい窓を開けたくなる。  地方の古い市営団地。ここに住んで数年になる。2LDKの小ぢんまりとした部屋で、家賃の安さ以外これといった利点は見当たらない。だが眺めのいい三階の部屋に入れたのは幸運だった。都会の暮らしと比べれば不便だし華もない。けれどここでの暮らしに不満はないし、華やかさへの憧れもない。冬はちょっと寒いけれど夏は過ごしやすい。低い町並みの上に広がる空は大きく、なによりも風が吹く。  そう、わたしに不満なんてあるはずもない。  湊萌はサンダルを履いてベランダに出た。そして大きく息を吸い込んで頭の上を見上げた。青い空に、大きくて真っ白な雲が浮かんでいる。  あの雲、なんだか似ているかも——  遠い記憶がよみがえる。  潮の香り、背中を追い越していく海風、空高く舞い上がる白い帽子。  最近は思い出すことも少なくなった。  そう、あれはもうずっと前のこと。    *** 「鷹平!」  急に背中を叩かれ、冬原鷹平(ふゆはら ようへい)は思わず咳き込んだ。 「あれあれ。どうした、風邪か?」  叩いてきた嶋崎岳人(たけと)が、とぼけた顔で言った。 「なんだよ……」 「四月早々から風邪をひくなんて間抜けな男だねえ。クラスに撒き散らすなよ」  新年度の初日、教室には続々と生徒が集まっている。 「ひいてねえよ」鷹平は呆れた顔で岳人を見た。 「二年生なったと言っても、周りは見飽きた顔ばかりでウンザリだなあ」  岳人は教室を見渡して言った。 「向こうだってそう思ってるよ」  この高校にはクラス替えの制度がない。クラスメート同士の絆を深めると同時に環境が変わることへのストレスを減らし、その後の進路をしっかり考えてもらいたい。それが学校側の理念だった。 「おお、文裕」  岳人が手を上げた。教室に入ってきた富田文裕(ふみひろ)は机にカバンを置くとそのまま二人のところにやって来た。 「おはよう」文裕が二人に言った。 「文裕、あれ見て」そう言って岳人は黒板を指さした。 「なに?」  そう言って黒板を向いた文裕の背中を、岳人は派手に叩いた。文裕は前のめりになりながら激しく咳き込んだ。 「あれあれ。文裕、風邪か?」 「なんなんだよそれは」鷹平が面倒くさそうな顔をした。 「一瞬で相手に風邪をひかせる技。春休みの間に会得した」 「言ってることが分からない」 「編み出したのはうちの兄貴なんだけどな」 「ますます分からない」 「何でもいいけどさ、痛いのはやめてよ」文裕が笑いながら文句を言った。 「だって春だからよ」 「確かに春だけどさ、それ関係あるの?」 「春は始まりの季節。新しい日々のスタート。だろ? まあ新鮮味はないけどな」 「そこは分かるんだけど」文裕は悩みだした。 「ここは一つさ、『今日はあなたたちに転校生を紹介します』なんて展開を期待したいよな、鷹平」  岳人が満面の笑みで言った。 「楽しいか?」鷹平は興味なさそうに言った。 「『席は……そうだな、嶋崎君、あなたの隣がいい。この超カワイイ転校生の面倒をしっかり見てあげてください』」 「隣は俺だし」 「『面倒を見るというのは手取り足取り教え、お互いに深く知り合うということです。これはズバリ男女の関係を意味し——』」 「続きはWebで頼む」 「あ、そういえばさ」文裕が衝撃の残る首筋をさすりながら言った。「この学校もクラス替えを始めるって話だよ」 「マジで? なんで?」岳人が現実に戻ってきた。 「クラスの中での関係とか立場が固定化するのもよくないって話らしい」 「確かに」岳人は激しく頷いた。「俺のことを好きだっていう女子が他のクラスにいるかもしれないしな。可能性の芽を摘んでしまうの良くない」 「なんでも男女の関係にするな」鷹平は机に肘をつき顎を乗せた。 「他のクラスの女子かあ」文裕が虚空を見つめた。「そういう可能性、あるかもね」 「だろ! 可能性あるだろ!」 「例えば、1組の小川さんとか、4組の児玉さんとか」 「おお文裕、どちらも相手にとって不足なし。俺の気持ちを分かってくれるか」 「うん、よく分かるよ」  二人は延々と頷きあった。 「なぜそんなに詳しいんだ……」  とその時、鷹平は再び背中を思い切り叩かれた。  鷹平は思わず背中をのけぞらせた。そして苛立った眼でゆっくりと振り向いた。  後ろに尾上麦穂(おのえ むぎほ)が立っていた。 「おっはよう」  麦穂は手を上げると弾むような声で言った。 「なんだよ……」 「シケた三人組は相変わらずか」 「おい尾上」岳人が言った。「いま俺と文裕は未来の恋について語り合っている。邪魔をするな」 「恋?」麦穂は椅子を引くとドサリと腰をおろした。「可能性ないじゃん」 「なんだと?」 「逆にあると思ってんの?」麦穂はすました顔で教科書を机の中にしまい始めた。 「お前、文裕になんてことを!」 「え? 僕なの?」文裕は鼻の頭に指を乗せた。 「おい文裕、尾上になにか言ってやれ」 「言うことなんて、別にないよ」  文裕の耳がぽおっと赤くなった。 「わ、分かりやすっ……鷹平、お前もなんか言ってやれ。文裕を馬鹿にされて黙ってるつもりか」 「どうでもいいだろ」  鷹平は教室の入口に目をやった。 「どうでもよくない」 「可能性なんて他人が決めるものじゃないだろ」  鷹平は閉まったままのドアから目を離さずに言った。 「でた! 鷹平の名言シリーズ。聞いたか尾上!」 「聞いてない。ていうか、なにそのシリーズ」 「聞いてんじゃねえか」  ゴトゴトと音を立てて教室のドアが開いた。  横では岳人と麦穂が賑やかに討論を続けている。  その声を遠くに聞きながら、鷹平は開くドアを見つめた。  ——そうだろ、鷹平  ああ、そうだな。  ——ちょっと、冬原まで何いってるのよ  いや、俺は別に。  開いたドアの向こうから霧川湊萌(きりかわ みなも)が入ってきた。  肩に掛けたカバンの紐を握り、少しうつ向いて歩いている。足を踏み出すたび、黒く長い髪がしなやかに揺れた。  湊萌は黙って席に座るとカバンを開けた。横を通りかかった女子が「おはよう」と声をかけてそのまま通り過ぎていった。湊萌が顔を上げておはようと返した時、その女子はすでに別のグループの中にいた。  それを見ていた麦穂は席を立つと湊萌のところへ歩いて行った。  その背中を文裕が目で追った。 「おい」文裕の肩に岳人が腕を乗せた。「お前バレバレだぞ」 「え、ホントに?」 「笑っちゃうくらい」 「うぅ、マズい」 「そんなに焦るなって。のんびりやれよ」  岳人は高笑いをしながらまた文裕の背を叩いた。
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