別れは告白となって

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「これ以上、近づかないでください!先生!私は本気です!!!」  一服しようと立ち寄った学校の屋上で、こんな形で彼女と出会ってしまったのは運命だろうか、はたまた必然だろうか。    深い憂愁を秘めた極彩色の豪奢なトワイライトが世界を染め上げている。その世界にただ一人佇む少女という構図はあまりに現実から乖離しており、ピクチャレスクと形容するに相応しい。西の空になびく黄金色の死の残映に印象派画家カミーユ・ピサロ作『ルーアンの波止場・夕陽』を重ねた。  烏の濡れた羽のような長髪をなびかせながら、彼女は深淵へと一歩、後退する。顔中の筋肉は思い思いの方向にのび、彼女の端整な顔のパーツは均斉という二文字を失っている。その事実は彼女の並ならぬ覚悟と事の重大さをまざまざと見せつけていた。 私がエドガー・アラン・ポーであったなら、ヴィーナスを宿した彼女が死と対峙しているというこの状況を芸術作品の一つにでも昇華したであろう。あるいは芥川龍之介の『地獄変』の良秀であるならばこの状況を大いに喜んだのかもしれない。 ただ、私は彼らにはなりきれなかった。いや、平々凡々な生活を送る一介の音楽教師である私が彼らと張り合おうとしていることがそもそもおかしな話である。  考え直せ、楠原(くすはら)!と取りあえず定型文を並べてみるが、彼女の目つきは相変わらず獰猛なネコ科動物のようで状況は変わらない。まるで第二次世界大戦後の米国、ソ連の対立のようである。  ただその均衡は、先生は何もわかってないんです!という彼女のナイフを首筋に突きつけたかのような一言で崩れ去った。 「私には!もう生きる意味がないんです!」 「生きる意味?何を馬鹿なことを言っている!!!そんなことでその命を投げだそうというのか!!!」 「うるさいうるさい!先生は乙女心がわかってないです!!!」  いや、乙女心は関係ないだろう、喉元まで出かかった言葉を唾液と共に嚥下する。くだらない茶々で彼女を刺激してしまうのは得策ではない。ここは教師として彼女を正しい道に導く必要がある。 「なあ、君には家族がいるだろう!!!友達がいるだろう!!!」  家族、友達、という響きに、一瞬だけ彼女の瞳が揺れる。この調子だ。 「君がここで命を投げ出したら君の家族が悲しむだろう!友達も、だ!君は取り残された人たちの気持ちを一瞬でも考えたのか!君のエゴでどれだけの他人に迷惑がかかると思っているのだ!!!」 「私は…私は!!!」  強気な語調とは裏腹に彼女の両脚は生まれたてのガゼルのように震動している。ようやく自分が何をしでかそうとしているのか、自覚したのだろう。膨らんだ水風船から水が抜けるように力みが消える。  が、それは破滅のプレリュードであった。  紫電一閃、彼女は全体重をパラペットに委ねる。両手を胸元に添え、聖母マリアのような微笑みで。上半身の重さで外側に傾く。深淵へ、深淵へ、自由落下、自由落下…  ドスッ  彼女が地面に叩きつけられることはなく、間一髪で白馬の王子に抱きかかえられる皇女の如く、私の腕の中に収まったのだった。
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