別れは告白となって

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 ショパンの再来、楠原征爾。現代クラシック音楽界で彼の名を知らぬ者はいない。世界最高峰のピアノコンクール、フレデリック・ショパン国際ピアノコンクールの受賞をはじめとし、数々の海外コンクールを総なめにした。ただ、そんな彼は2度目のエリザベート王妃国際音楽コンクール受賞を最後に、この世を去った。夭逝だった。あまりに呆気なく、あまりに激情的であったその人生は、彼を神格化させるのには十分だった。現代クラシック音楽界は今も、芸術の亡霊となった彼が彷徨い続けている。 「塩崎先生って、お父さんなんですか?」  気怠げに注文に来た店員をウーロン茶と“塩ねぎま”で追い払った直後、机を挟んだ向こう側で生ジョッキを傾ける村上の声を、私ははじめて聞いた。  だったら、どうする?という私の問いに、いや、どうもしませんけど、と枝豆をつまむついでに答える。村上の骨張った薬指の燦然とした輝きは、私とは対照的なものだ。  返答を要している間に運ばれてくるウーロン茶と塩ねぎま。いいや、と短く否定したけれど、彼にその声が届いたかどうかはわからない。 「ずっと、疑問に思ってたんですけど、塩崎先生って下戸なんですか?」  彼は私の前に置かれたねぎまを顎で指しながら、だって焼き鳥とお茶って正直、合わないじゃないですか、と付け足す。 「いいや、飲めるさ。嗜む程度には」  嗜む程度、という言葉の違和感をウーロン茶で流し込んだ後、ただ、歯止めが利かなくなるんだ、と消え入りそうな声で続ける。ふうん、大変だったんすね、と適当にあしらう村上を横目に私は串からねぎまを囓りとり、飲み込んだ。
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