別れは告白となって

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「先生、今日も良いですか」  音楽室の出入り口で立ちすくむ彼女はいつものように伏し目がちに遠慮しながらポツポツと口を利く。今日も、という言葉が彼女の口から発せられて、消えることなく身体のどこかに張り付いていることを感じながら、私はああ、と短く答え、彼女を誰もいない音楽室へと招き入れた。  あの日から私と楠原は放課後、こうして音楽室で会うことが日課になりつつある。することといえば、授業の資料づくりや読書をする傍ら、彼女の演奏を聴くことぐらいで、それ以上でもなかった。 「先生、いつも読んでますよね。ドストエフスキー」  亡き母との思い出の曲であるというヨナーソン作『かっこうワルツ』を手始めに弾きながら、背中越しで言う。アンダンテだった拍動がアレグレットとなる。 「好きなんですか」 「-好きじゃない」 「じゃあ、どうして」 「なんでもいいだろう…」  先生、  先生、先生、  先生、先生、先生、  先生、先生、先生、先生、  先生、先生、先生、先生、先生、 「ねえ、先生」  さえずりを模したA音のトリルの中で彼女の言葉は輪郭を帯び、私のもとへと届けられる。表紙がぼろぼろになった『ドストエフスキー全集』から視線を上げると彼女はピアノの前から立ち上がり、私の目の前に立っていた。 「知ってますか、ショパンの『ワルツ第9番』」  ふわりと、身を翻して再び、鍵盤に手をかける。マズルカのリズムでヘアゴムのアクセサリーが規則的に動き出す。 「『ワルツ第9番』は「告別」というタイトルからある通り、愛人マリア・ヴォドジンスカに捧げた「別れ」のワルツとして知られています。でもね、先生、」  彼女が次の言の葉を紡ぐ数秒の間、私は彼女の後ろ姿に釘付けになる。半音階下行のアウフタクトによる弾き出しのような、はっとするような美しさと色気に夢中になる。 「別れという意味の他に、「告白」という意味もこのワルツにはあるんですよ。だから、先生…」 「いい加減してくれ!!!!!」  ジャーン  音楽室を充たすほどの旋律に突如として、フェルマータが示される。一瞬にして辺りの音が全て持ち去れたかのような静寂に襲われる。 「君は…一体、何なんだ?」  先生…と、そばまで駆け寄り、伸ばした手を私は振り払う。彼女は長い睫毛を震わせて、逃げるようにその場から立ち去った。  彼女と放課後の音楽室で会うのはこれが最後だった。
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