別れは告白となって

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「塩崎先生?2杯目なに、飲みます?一杯目と同じでいいですか?」 「いや、冷酒で。あとフグの白子も」 「冷酒ですか?!」  今日はお酒、飲むんですね、何かあったんですか、と言いたげな村上の視線に、今日はそう言う気分なんだ、とお茶を濁す。そうすか、と適当に相槌を打った後、そういえば、という村上の一言を皮切りに教頭に対する愚痴の話題になる。その間、上の空でいたのは久しぶりの酒で酔いが回ったからであろうか。   塩崎先生、全然いけるじゃないですか、じゃあ、また今度、と手を振る彼に、ああ、と手を振り返して踵を返す。彼と店先で別れた後、私の足は家路につくことはなく、自然とあの場所に向かっていた。  幾望の月が目の前に酷く大きく、青白い光を放って、浮かんでいる。眼下に広がる街は、赤、青、緑、白の光を交互に明滅させており、案外、この学校は立地が良いのだな、と勝手に思った。  生温い夜風が頬を掠める。まどろむような静寂。革靴を徐に脱ぐ。その隣にショパンの『ワルツ第9番』と一本のバラを添える。パラペットに手をかける。それらはマニュアル化されたかのごとく滞りなく進められる 「何してるんですか、先生」 「どうして?ここに楠原、君がいる?」 「先生こそ、どうして夜の学校の屋上にいるんですか?」 「夜景を観に来ただけだ、と言ったら?」 「人生最後の、ですか」  二人に永久凍土のような沈黙が流れる。差し込む月光は皮肉にも神秘的に対照的に二人を浮かび上がらせる。 「もしかしなくとも、あのとき、本当は先生が死ぬつもりだったんですよね」  私は答えない。たとえ、沈黙が肯定であるとしても。 「先生、帰りましょう。皆が、待ってます」 「帰る?私に帰られる場所があるというのか!!!」  彼女が私に一歩近づく。私は一歩、後退する。屋上の縁まで、楽園まであと少し。  乾ききっている私の唇がその真実を語り始めるまでの数秒間、世界はサティの『ジムノペディ』のように、ゆっくりと苦しみをもって、ゆっくりと悲しさをこめて、ゆっくりと厳粛に、まわる。 「私は罪を犯した。許されないことをした。だから、私はここで死なねばならない」  私は彼女の動向を睨むように窺いながら、二歩後退する。足場がぐらりと揺れる。  皮肉なものだった。自殺をしようとする者と、それを食い止めようとする者という構図がこの前とあべこべになっているということが。 「真実を教えてください!先生!!!私はもう、逃げません!!!」  視線が交錯する。彼女の瞳が揺れてみえるのは私の足元がおぼつかないせいだけじゃない。 「私は君のお母さんを犯して、孕ませた。そしてその子は…」  その瞬間、世界から音という音がなくなる。ジョン・ケージの『4分33秒』を鑑賞するときのように。世界の刻が止まる。 「今、私の目の前にいる」
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