別れは告白となって

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 彼女は、ゆかりは、今日も窓の外に目を向けていた。  音大時代、第三講義室の窓側席後方4列目は彼女の指定席だった。    これから音楽理論の講義があるというのに、大学ノートを開くこともなく、気怠げに窓の外を眺めている。  白磁のようなしなやかな頬。鎖骨まで伸びるピアノの黒鍵のような艶やかな黒髪。西洋彫刻のような彫りの深い顔に、筆のような長い睫毛。  私は人生ではじめて生けるヴィーナスをこの目で見た。  視線がかち合うと何故か、心音が不協和音を刻み出す。どうしたのかな、と覗き込むその仕草だけで拍動が無限音階の如く上がり続ける。 -あ、塩崎クン、またノート貸してもらえるかな  私は彼女に密かに好意をよせていた。  しかし、この恋が成就することはなかった。 -塩崎クン、報告、遅くなってごめん。実は私、征爾と結婚してるの  音大卒業から6年、私がその事実を知ったときには彼らは新婚ですらなかった。 -少し、会いたい  メッセージアプリにそのような通知が来たのはそれから1年と10ヶ月が過ぎた頃であった。彼女の意図は今でも分からない。それでも、駅前の居酒屋で再会したゆかりは人妻になってもなお、あの頃のままで。絵画の中に展翅されたチョウの標本のようだと思った。 -実は、私たち、子供が…  それからのことはよく覚えていない。とりあえず、ビールを飲んだと思う。それからウイスキーを飲んだと思う。酒を浴びるほど飲んだと思う。溺れるほど飲んだと思う。鯨のように飲んだと思う。世界はシュルレアリスム絵画のようにグニャリとして、脳内にはストラヴィンスキーの『春の祭典』が鳴り響いていて、気がつけば、生臭い情欲の残り香と気怠さに支配された部屋の中で横たわった彼女の姿を見た。 -この子、托卵するのは、どうかな?  彼女は悪魔だった。メッセージアプリの「少し、会いたい」に続く彼女のトークの内容に妊娠という文字も、中絶という文字もないことに、私は戦慄した。  無機質な画面に映された托卵という生々しい言葉を脳内で反芻しながら、私はメッセージアプリを閉じた。
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