別れは告白となって

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 世界が再び、秩序という名の旋律を刻み出す。刹那、先生、危ない!という声で、一瞬身をひく。その瞬間を狙っていたかのように突風が吹く。視界から彼女の姿が消え去る。  悲劇の一幕のようにわざとらしく、月は笑って  ふわり、ふわりと  平衡感覚を失った私の身をさらって  とろりとした空間の中を  反転した世界の中を  くるくると堕ちていく…  左腕に彼女の温もりを感じる。見上げると必死の形相で私の腕を両腕で掴む彼女の姿があった。 「私は刻の止まった世界を生きていました。お母さんのピアノ演奏をイヤホンで聴くときだけ、私はあの頃に帰った気がして。でも、現実は真っ暗闇で私はその世界でひとりぼっちだったんです。でも、あのとき、あの場所で、先生は私を見つけ出してくれた。私の世界に再び、音楽をかき鳴らしてくれたんです!だから!!!」  彼女の強い意志とは裏腹に彼女の腕の力は弱まっていく。彼女の華奢な腕では成人男性をつなぎ止めるのにあと、60秒ほどといったところか。 「楠原!もういい!!!この手を離せ!!!誰も君を恨まない!!!」 「離しません!!!私はまだ、先生に『ワルツ第9番』を届けられてないんです!!!別れのワルツじゃない!!!告白のワルツを!!!まだ、届けられてないんです!!!!!」 「もう、楽にしてくれ!楠原!!!もう、私の世界は暗闇で、生きていくのが辛いんだ!!!」 「だったら!今度は私が音を鳴らしてあげます!!!そしたら、暗闇の中でも私を見つけ出してくれますよね!!!隣にいられますよね!!!だから!!!その右手で私の手を取ってください!!!そしてその手は絶対に離さないでください!!!勝手に手を離したら怒りますから!!!!!」  私は彼女の腕を掴む。彼女が私を持ち上げると同時に彼女に向かって力強く昇っていく。そして、先生!と声が聞こえると、私は強く引き寄せられた。彼女の華奢な腕が作り出した空間にすっぽりと収まったとき、ああ、私は生きているんだ、と実感した。  腕を彼女の背中に回すと彼女のスタッカートのような鼓動と温もりが伝わってくる。先生、先生、と温かい涙で瞳を無闇に濡らす彼女の頬を手で撫でるように拭って、再び腕の力を強くする。    屋上に差し込む月の光はいつまでも、いつまでも私たちを照らし続けた。
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