天国からの届け物

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 それは、土砂降りの水曜日のことだった。珍しく早く帰路につけた、水曜日のことだ。  ぴかぴかの晴れマークだった予報は外れ、午後から急にやってきた土砂降りは下校時間になっても止むことはなく、急遽部活動は休みになったのだ。  当然、折り畳み傘を常に持参していた私は、土砂降りの中、傘を差して帰路についた。  スニーカーに染みる雨水の感覚を不快に思いながら、私はふと、早く帰れる水曜日は、母の料理が届けられるようになって以来、初めてだなと思った。  私や弟は毎週水曜日に用意されている母の料理をなんの疑惑も抱かず享受しているが、その料理がどのように届けられるのか、またどのようにどこで料理されるかは、全く知らなかった。考えないようにしていたと言ってもいい。  もしかしたら、今日、料理が届けられる瞬間、あるいは料理が用意される状況に立ち会えるかもしれない。もしかしたら、母の姿を、一目でも見れるかもしれない。  それは魅力的に思えた。しかし、同時に恐ろしくもあった。知らない方がいいようにも思えた。  家に近づくにつれて、鼓動が張り詰めるように大きくなって、全身が心臓になったように身体中の震えが止まらなくなった。早く家に着いてほしいと思いながらも、永遠に辿り着くなと願った。  ついに家の扉の前に立ったとき、私の腕は扉に手を伸ばしたまま、ぴたりと止まっていた。逡巡していた。  知らない方がいいのかもしれない。でも、どうしても。  もう一度だけ、母に会いたい。一目でいいから。  極めてゆっくりとドアノブを回した。ひっそりと扉を開けて、さっと家の中に入る。  心臓の音がうるさくて、その音に気がついて母が逃げてしまったらどうしよう、なんてそんなことを思った。  濡れた靴を、音を立てずに脱ぐのは難しかった。濡れそばった靴下が靴にひっついて、なかなかうまく切り離せなかった。こうしている間に、母がいなくなってしまったらどうしようと気が急いた。  やっとの思いで靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下を渡って、リビングまでたどり着いた。この廊下をつま先立ちで渡るなんて、そんなのは初めてだった。門限を破ってしまって、ひっそりと家に帰ってきたときも、ここまではしなかった。あのときも母は、食卓に座り、私を待っていた。  緊張のあまりつい荒くなってしまいそうになる息を、なんとか鎮める。心臓の音はうるさく鳴りすぎて、いっそ諦めがついてきた。  私は玄関の扉を開けるときよりもずっと慎重に、リビングの扉のドアノブに手をかけた。  きぃという音がほんの小さく鳴る。  私は扉をほんの少しだけ開けて、その隙間から台所の様子を盗み見た。  あ、と思った。私は反射的に自分の口を塞いだ。  幸運なことに、私の口から声が漏れ出ることは防げたらしい。私は驚きのあまり、何度も瞬きをした。目の前の光景は、死んだ母が幽霊になって料理をしていることよりも、よっぽど信じがたいものだった。  台所に立っているのは、死んだ母ではなかった。よく知る、中年の男性。目を渋めながら紙の束を見ている。強面で、四角い眼鏡をしていて、最近頭のてっぺんが薄くなってきて、気難しくて、仕事一筋な。 「なんで……」  そこにいたのは、父だった。  もとから渋い顔をさらに渋めて、鍋の中をかき混ぜている。頻繁に手元の紙の束と鍋の中身を見比べて、慣れない手つきは不恰好だ。  必死に、「料理」をしているように見える。  私はそのとき、やっと気がついた。  スピリチュアルなものは全く信じない父。朝の占いさえもくだらないと言っていた父。  そんな父が、「母さんの天国からの届け物」なんて言って、得体の知れない料理をすんなりと口にした、その意味を。  あれは自分が作った料理だから、あんなにも簡単に口にできたのだ。手にもつ紙の束はおそらく、母の料理のレシピを綴った物で、毎週水曜日にやってきた「天国からの届け物」は父によるものだったのだ。  どうしてこんなことしたのか、なんてそんなことはわからない。私はそんなに、父のことを知らない。  でも。それでも。  無気力に塞ぎ込んだ私と弟を元気づけたかったのか、それとも、歪になった家族の形を少しでも作り変えたかったのか、そんなことはわからない。  しかし父は、私と弟、家族のことに、決して無関心でなかったのだ。忙しい仕事を毎週、こんなに早くに切り上げて、慣れない料理に時間を費やすほど、家族に関心があったのだ。そんなことを、今になって初めて知った。  それくらい、私は父のことを知らなかった。知ろうとはしなかった。  私は扉の隙間から覗く光景から、目を離せなくなっていた。そこには、初めて見る父の姿があった。  知りたい、と思った。初めて思った。  私は今まで、母が作り上げてくれた家族の形に、乗っかることしかしてこなかった。母がいてくれれば、私たちはなんとなく、家族として安定していたから。父や弟のことを深く知らなくても、家族でいられたから。  でも、もう、母はいない。この世界のどこにも。ひっそりとご飯だけ作って去っていく、そんな幽霊はどこにもいないのだ。  だったらもう一度、私たちなりの家族の形を、作り上げるしかないのだ。ばらばらになった三人をもう一度、母のいない、新しい家族の形を。  それは辛いことに違いなかった。母がいないなんて、そんなの家族じゃないと思っていた方が楽かもしれなかった。  でも、私たちは家族だ。私と弟と、そして父。三人だけでも、家族なのだ。  私は扉に手をかけた。  父としては、私に「天国からの届け物」の正体を知られることは本意ではないのかもしれない。でも、私たちは、母抜きでも、話をしないといけない。  そして、話し終えたら、父と一緒に夕食を作ろう。それが私たち家族三人の、新しい一歩になるはずだ。  
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