便りを持って

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酷い暑さの夏もようやく出口に辿り着き、呼吸も楽になった頃だった。 平日ながら一日の休み……ほとんどなにも予定のない沙耶は一人、一日を駅ビルからその周辺の回遊で過ごしてしまった。 ランチを除けばたいした買い物をしていない。 あれこれ店を巡ったのに実際に買ったのはレイモン・サヴィニャックのイラストをあしらったポストカードを数種類だけだった。 愛らしく洒脱なこのフランスのポスター・アートを送り届けたい相手の顔を思い浮かべながら買ったけれど、実際は同じ年代の知人・友人には電話やメール、メッセージサービスが主になり郵便のやり取りをする機会がめっきりと無くなった。 何の用事もないタイミングで送りたい葉書だ、切手を貼って軽く添える一文をとっておきのものにしてみたい。 沙耶はにはそういう交流のできる相手はまだいるのだ。 幾人かの友人とは、交流自体は途絶えていないのだが年賀状のやりとりもおしまいになってしまった。 今でも年賀状のやりとりがあるのは自分よりも年上の人々が多くなってしまった。 意味合いとしては息災の確認が大きくなっている……。 ふと三重野先生の事を思い出した。 毎年、年賀状を送っている一人。 中学校時代の沙耶の担任だった女性教諭だった。 もう既に定年を迎え、隣の町で暮らしている。 数年前にご主人が逝去したという喪中葉書が届いた、毎年の年賀状は欠かしたことがないが、その年だけは送らずにいた。 娘さんは既にご結婚されて別の県に住んでいるので今は一人暮らしのようだ。 以前の年賀状には既製品の年賀はがきに流麗なペン字で短信が添えられていた。 「……昨年に足を悪くして以来自宅に篭りきりですがそれ以外は至って元気に過ごしています……」 その文を思い浮かべていた。 祖母を早くに亡くした沙耶にとって、母親より一回り年上だった先生は祖母のような存在で、教師と教え子の間ながら深く慕っていた。 隣町の居宅まで一緒に卒業した友人らと遊びに押しかけたこともある。 沙耶はそろそろと駅へ戻る途中、洋菓子店の前を通りかかった。 スーパーなどは一ト月前からハロウィーンをあてにした菓子の商戦に熱心だが、その個人経営の洋菓子店は季節のケーキをケースの中に並べていた。 本格的な秋の味は来月あたりかもしれないけれど、果実をふんだんに使ったタルト類などの色彩はそれだけでも鮮やかだった。 「モンブラン」 三重野先生の顔が頭に浮かんだ。 ご主人が亡くなって完全に独居になった頃にお邪魔した時、モンブランを持って訪ねたことがあった。 嬉しそうに沙耶を迎えた先生と、テーブルを挟んで紅茶とモンブランを食べた……そのことが沙耶には絵画のように思い出される。 店内に入り、ケースの中の色とりどりの菓子のうちでも、沙耶の目を一番目を引くものは定番の見栄えの黄色いモンブランだった。 「すみません、これ、モンブランを一つ」 店員に声をかけると、店員は言った。 「こちら生菓子の方は、本日中に食べていただくことになります……お持ち帰りでお住まいまでの時間がかかり過ぎる場合ですと……保冷剤をおつけしていますが、2時間以上だと傷みますので」 沙耶は軽く計算した……帰りの電車で自宅に持ち帰るのは楽勝だ、問題ない……と考え、答えようと思って止まった。 別の路線で三重野先生のお宅の方でも十分間に合う。 沙耶の頭の中に二人で一緒にモンブランを食べた日の情景がゆらめき上がった。 先生にこのモンブランを届けよう、と思いついた。 「大丈夫です……モンブランを、二つにしてください。二個、お願いします」 黄色いモンブランケーキを二つ、あとは期限に余裕のある焼き菓子の一袋を購入した。 駅の改札を抜け、複数乗り入れてる路線から三重野先生宅の町に向かう列車を選んだ。 10分ほど後にやって来た車両に乗り込み、乗客のまばらな中、モンブランを入れた紙の箱を膝の上に置きゆったりとしたシートに座った。 電車の窓から見える眺めは、建物のぎっしりした市街地から、緑の多い郊外へ変わっていった。 幾年ぶりだろう、先生のお宅に向かう以外でこの路線を使ったことはない。 列車が駅につき、数人の客とともに降りて改札を抜けた。 駅前通りから少し離れると生活道路が続き、一軒家の多い区域を歩いた。 以前訪れた時の記憶とほぼ変わらない情景が続いた。 思いつきできたけれど、先生はきっと笑顔で迎えてくれる、と沙耶は信じて疑わなかった。 夕暮れの近づく時間、坂道を上がる、そんな中に沙耶の心に違和感が兆した。 先生宅の見えてくる筈なのに、その場所が空白だった。 先生の家のあった場所は更地になっていた。 今年の年賀状は届いていた、なのに。 届け先を失くしたモンブランの箱を下げたまま、沙耶はその跡地を前に言葉を失っていた。
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