落下する男

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奇妙奇天烈、奇々怪界な音は、私に向かって近付いて来る。 しかし、それは、私の人生でもっとも素晴らしかった時期の想い出…幼少期の、まだお父さまとお母さまが健在で、しかも仲睦まじい夫婦であった頃の、家族旅行の懐かしい音で、死を目前にしても尚、当時の色鮮やかな記憶の断片が、心の隙間から蘇りはじめている。 私が小学校にあがる年、夜明けの遅くなった初秋の西鹿児島駅のホームで、私たち家族は、朝市で買った焼き団子と、お母さまがせっせとこしらえた三段重の弁当を抱えて、乗客待ちの汽車に乗り込んだ。 白い車体に青色のラインが入ったディーゼル車は、後に調べてわかったのだが、キハ58系という車両で、エンジン音と床から伝わる振動は、今でも昔に味わった体感として、私の脳裏に刻まれている。 指宿枕崎線は、鹿児島市と指宿市を抜けて枕崎市とを結ぶ路線で、薩摩半島の内房を走る車窓からは、錦江湾に浮かぶ桜島や、薩摩富士と呼ばれる開聞岳を眺めることが出来た。 幼い頃の私といえば、そんな風光明媚な景色よりも、この頃は、まだ仲睦まじかったお父さまやお母さまの懐に甘え、ポリエステル臭の残るお茶を飲みながら、お母さまの炊いたきのこ飯を頬張って、 「ほら、そんなに慌ててお召し上がりにならなくとも、おむすびは逃げたりはしませんよ」 と、お母さまに嗜められ、不器用に笑っているのが仕合わせだと感じていたものだ。 お母さまはいつも品があって、お笑いになる時の、しなやかな手を口元にあてる仕草や、ふふふと息の抜けた笑い声が私は大好きだった。 もし、この永く永く感じる静止現象の先に、黄泉の世界があるのだとしたら、私は再びお母さまと出逢えるのかしら? そんな想いに浸っている私の耳に、けたゝましく轟く汽笛の音が聞こえた。 私が我に返って顔を向けると、キハ58系の車体が目前に迫っていた。
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