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氷寄潔良(ひより きよら)は脱衣所で服を脱ぎながら、今日の出来事を思い返していた。
いつも通り、全くもって変わり映えのしない、退屈かつ窮屈な大学での時間。ひとの目線が、ひたすらに怖い――巨大コミュニティ内においての、息詰まるような生命活動。
(ひとをいちいち怖がるクセをどうにかしたい。……けど、そう願うだけで改善できるなら苦労はしないよな。世間の誰もかれも)
ふう、と小さく溜息を吐き、じっとりと肌に貼りついていたシャツを洗濯槽に放る。たったそれだけの動作ですら、なんだか今日は面倒くさかった。
――異様に、肩が重い。
久しぶりに、ひとと話したからだろうか。
ぬるめのシャワーが彼の茶髪をやわらかく濡らしていく。普段はヘアゴムで簡素にまとめ、ポンパドールにしている前髪が、アイマスクのように両の目を覆った。視覚情報が遮断され、多少、負担――のようなもの――が、軽くなる。
休み時間。
騒がしいフリースペースの隅。座面の硬い椅子に腰掛け、昼飯の安い菓子パンをかじっているときに、彼はふらりと現れた。
日ごろ、周りの学生たちから疎まれ、排斥されることが常であった潔良にとって、それは稀有な体験であった。
(話しかけてくる奴なんて、滅多にいないのにな)
自分の目つきに怯えもせず、にこりと微笑んでみせた男――二石楚唄について、潔良は茫漠とした思考を巡らせた。どこかぽうっとする頭に喝を入れるように、住み始めた時から不安定ぎみな水勢が強まった。
(おんなじ前髪長い族としては、まあ……親近感が持てる。むしろ、オレより上だな)
クセのとても強い猫のような黒髪で、その目元を完全に隠してしまっている、彼――楚唄の風貌。
オブラートに包んでも、かなり、……もっさもさだった。すだれが下ろされているように、表情が読み取れない。
でも正直、思い返すだけでちょっと、クスっときた。
ゆるんだ頬を、水滴がぱたぱたと叩く。
(んー。だけれど、何というか……不思議ちゃんっぽいな。大学生男子でそれは、ぶっちゃけ流行らないと思う)
隣に座ってきた彼は、手に持っていたカップラーメンに湯を入れに行くでもなく、ただしばらくじぃっと、潔良のほうを眺めていた。
他の奴らと同じで、すぐにどこかに行くだろう――そう思っていたのに、それはいっこうに訪れなかった。
「…………何?」
違和感を覚え、勇気を振り絞って彼のほうを向いた瞬間、彼はひとり鼻歌でも口ずさむみたいに、次のようなことを言った、のだった。
「『だるまさんがころんだ』。有名な遊びですよねえ。参加したことがないひとなんて、そうそういないんでしょうね。……ねえ。僕たちはいつだって、それの一員なんですよ?」
「なかなか意味分からんこと言うよな、あいつ。ふふ」
つい独り言が出たので、ここが風呂場だ、と思い出した。出しっぱなしになっていたシャワーの流れる音が、浴室の中でいやに、大きく反響している。
栓をひねり、湯をきっちりと止めた。今月だって厳しい。節約を心がけねば。
シャンプーを泡立てる。髪の先から、薬液がたらり、と流れてきて、思わず固く目をつむる。
「だるまさんが転んだ、ね。そんな遊び、小学校のときにやったかなぁ」
嫌な記憶。
(…………)
昔のことを思い出してしまって、内心で、こんな話題を出会い頭に振ってきた彼のことを呪った。
(どこの科の子だろう。あんな奴いたら目立つから、噂にでもなってそうなのに)
ひとの噂が大好きなうちの学生たちに、ほっておかれるはずがないだろうな――そこまで考えたところで、なぜか、――寒気を感じた。
「……?」
なにか、見られているような、――そんな感じがする。
潔良は、ひとの視線には人一倍、敏感だった。
「……なんで?」
ここは浴室だ。窓だって閉めているし、人影なんてない。ひとり暮らしだから、同居人もいない。
(……)
ネットサーフィン中に見つけて暇潰しに読んだオカルト記事が、ふと、潔良の頭をよぎった。
洗髪をしているときに、
「だるまさんがころんだ」と、唱えてはいけない。
遊びに参加しようと思った、「何か」が。
鏡に、映り込むかもしれないから。
(…………まさか)
目を開けるのを、若干ためらった。
そういうのが別段苦手というわけでもないが、めっきり信じていないとも言い難い。
遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
嫌な記憶。
嫌な記憶。
久方ぶりにフラッシュバックしてきたそれが、彼の脳裏から、とても離れてくれそうになかった。
「……人間よりは、マシかもな」
呟き、やけに重たいまぶたを開く。鏡に視線をやる。
自らのしとどに濡れた茶色い前髪、その向こうで、――真っ黒な一対の目が、炯々と輝いていた。
「――あ、」
にこり、と黒い目が細められ、首をひっつかまれる感触。ひいやりとした細い五指が、肌に食い込んだ。全身が総毛立ち、ぶるりと骨のうちからふるえて、――潔良の意識は、そこで途絶えた。
◇
二石楚唄(ふたいし そうた)はにこにこと嬉しそうにわらいながら、布団にもぞもぞとくるまる。
薄暗い部屋。世界が終わる日の夕焼けのような、赤みの強い室内灯を、いちばん小さな光量に設定し、隣へと顔を向ける。
蒼白な顔をして眠る青年の両眼はゆるく閉じられていて、角度によってはすこし半目にも見える。そこには、日ごろ彼の周りから有象無象を退けている、睨むようなどぎついニュアンスはもはやなかった。
黒髪を無造作に掻き上げ、青年の背に腕を回す。
「あぶないあぶない。――壊しちゃうところだった」
野うさぎのようなふわふわとした髪を指先でくしけずる。わずかにぴくりと動いた。手をそのまま、下にすべらせる。そのしろい手がさすった首筋にはくろぐろと、――「何か」に掴まれたような、痣。
「っと。んー……向こうに帰す前にある程度、うすくしておかないとだね」
腕に力を込めて、楚唄はその痩身を抱き寄せる。とくっ、とくっ、と弱々しく打つ鼓動を堪能しているように、彼はしばらく動きを止めていた。苦しげに漏れる小さな呼吸音。青年の顔へと、頬を寄せる。彼の癖毛に顔をうずめる。
うすい煎餅布団の上で、あかく火照った男の裸身を抱きしめる楚唄の姿は、どこか、猥らな雰囲気でもありながら、ぬいぐるみにハグする幼子のような無邪気ささえも、持ち合わせているようだった。黒髪の奥で、鈍い光を放つ、瞳。弓なりに弧を描いた唇の隙間から、熱い息が吐きだされる。
困ったみたく眉尻を下げて、引き締まったふくらはぎに、骨張った指に、ごくわずかに贅肉のついた軟らかい腹部に、死蝋に似た血色のない、指の先を這わせる。彼がやさしく、手探りで触れるそのたびに、うすく開いた青年の瞼の奥で、黒目が不安定に揺れる。
とてもちいさく不明瞭だった呻きが、だんだん、奇妙な甘美さを付帯させ始めた。
目尻からつう、と流れる涙をていねいに親指で拭い取り、楚唄はくすくすっ、と笑う。汗ばんだ洗髪料の香りのする茶髪をやわやわと手でもてあそび、耳元にひそりと零す。
「きよらくん、っていうんだよね。僕、きみが――『すき』だなぁ……」
ふわふわしてるのが、かわいいね。びくびくしてるのも、かわいい。あとね、あと、あと――。
眼を爛々と耀かせ、曖昧な音の羅列を矢継ぎ早に青年の耳朶に打ち付けつつ、彼をかき抱くうでの力を強めていく。闇色の髪が、だんだん、不定形に蠢き始める。――それはやがて、何だか得体の知れない、どろどろとした流動体を形作った。
べちゃっ、べちゃべちゃべちゃっ、とそれが、身動きの取れない青年の全身に降りかかる。血色を失ってきている彼の身体がびくりと跳ね、こまかく震え始めた。
「……あっ。いけないいけない。壊れちゃったら元も子もないよ。戻らないんだよなぁ」
かるく頭を振ると、どろどろとしたそれはすぐに、楚唄へと吸収されていった。背を繰り返しさすり、言う。
「ごめんね、危なかった……危ない、危ないや。……でも、せっかく『誘って』くれたんだしさぁ。もうちょっとだけ、あそぼ? もっともぉっと楽しいことね、いっぱいきみと、したいんだぁ……ね、いいでしょう? きよらくん――」
屈託のない笑顔で問いかける楚唄。ふるり、と身震いをした青年が帰途に就くのは、もうしばらく――後のことに、なりそうだった。
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