まともにみえることが実はこわいことだ

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 まともにみえることが実はこわいことだ。何故なら、神社仏閣に参っていかにも謙遜な心を持っている様な人物が、神社の敷地で、私がその横の道路を通ろうとするタイミングに合わせてわざわざドアを閉め、人を音で威嚇して傷つけてでも人との接点をなくす(自分の世界を壊されたくないのか理由は不明だが)という様なことはしょっちゅうだからである。  何のために謙遜心を植え付けるために宗教の場所に来ているのか?これはその人物の問題でもあるが、もっと根深い所では社会の問題なのだ。  つまり、間違った宗教(はっきり言わせてもらうが神社仏閣等)が、日本を(日本も結構な大きさの社会なので、それはすなわち世界全体と見てもいいだろう。)狂わせている。ひいては世界を狂わせている。宗教を持つのは必要条件ではない。持たないなら持たないでいい。ただ、宗教を持つ、無神論のどちらを選ぶかという事でいっそ後者なら潔い(この文章ではとりあえずそう言っておこう。この文章ではそれに続くことは書く余裕はないからである。)が、前者のうち、キリスト教以外に関心を持つのは矛盾しているからだ。まともに勉強した人なら、無神論かキリスト教を採るはずである。  くり返し言うがまともにみえることは実はこわいことだ。
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