20 聞こえてる?

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20 聞こえてる?

 昨日あれだけ仕事をサボりたいと思ったのに、もう何年もずっと続けているルーティンは体に染み込んでいて、決まった時間に起きて決まった時間に出勤するのは苦ではなかった。  ただ、胸の中のあの重たい塊だけはまだそこに居座っていて、これがどうやったら消えてくれるのか全く見当がつかない。 「いやでもマジで、本当にそんなに言われてるほどいるんすかね、LGBTって。ここんとこやたら流行ってるみたいっすけど。俺今までこんだけ生きてきて一人も会ったことないっすね」  ADのタツくんの何気ない言葉が細かいトゲのようにわたしを外側からザクザクと刺してくる。 「え……流行りとかじゃないでしょ……生まれ持った特性なんだし」  昨日決まった今日読む予定のコメントを確認していたら、他の原稿を進行順に並べ替えていたタツくんが何気ない雑談風に話しかけてきた。  その話題はダメだっつーのに。 「まぁでも近くにいられたところで困るんでラッキーっちゃラッキーっすけど」  分かっている。本当に悪気はないのだ、この人は。ただ、絶望的にデリカシーがない。攻撃的なほどに。 「困る? ……困るかな?」 「困るっしょ。別に偏見とかないし、俺はLGBTの存在はちゃんと認めてるけど、もし近くにいたら気ぃ使っちゃって仕事になんないっすよ」  認めて……?  こんな会話に参加する必要はないと、頭では理解している。真面目に応答しなければいけない会話ではない。ただの雑談だ。でも、今のわたしは目の前の原稿を読むことに少し混乱をきたしていて、本音と建て前と気配りと忖度とその他諸々のコミュニケーション使い分けスキルが完全に一時停止していた。 「別に、普通にしてれば」 「いや無理っすよ、知っちゃったら気になるし」  自分が関わる番組が1ヶ月もの間特集を組んでいたのに、この程度の認識か。学ぼう、という以前に、知ろうともしないのかな。  まだスタジオに出入りしているスタッフもいるし、ガラスの向こうのサブにも何人もスタッフがいて、当然、タツくんの発言もみんな聞こえているはず。それで、誰も止めに入らないの? みんなで講習受けたのに?  本当にこんな会話をここでしていて大丈夫なの? 「……普通の人だと思うけどな、みんな」 「えー、そうっすかねぇ。普通じゃなくないっすか。こないだ炎上してた、あのほら、結婚して子どもまで授かっといて、やっぱり性別違いました、ってのもマジで謎っすね。そんなことある!?って」  自分の頭の中で、警告音が小さく鳴っていることに少し前から気づいている。 「そこまでしたんなら一生隠し通せって感じ」  止める?  止められる?  わたしが、止めた方がいいの? 「家庭築いた後に急にそんなこと告白されても誰も幸せになれないっすよ」  誰も幸せになれない?  誰かを幸せにするために、自分はクローゼットを貫いて、自分を殺して、自分を犠牲にして、周りのひとの幸せを優先するの?  それが正しい道?  それが、正解?  じゃあ暁は黙ったまま、カミングアウトしないままみんなの前からいなくなって、それは周囲の人を幸せにした?  いなくなってから手紙で真実を伝えたことは、周囲を不幸にした?  いや、それより、本人の幸せはどうなるの。当事者の幸せは、いつ、どういう形で手に入れられるの。  手に入れてもいいの?  求めてもいいの?  幸せになりたいと、願ってもいいの?  ……ダメなの?  今、この話の流れに乗って、この人の主張に流されて、なんでもないような笑顔を浮かべて一言、そうですよねぇ、とだけ言えば、今まで通りにクローゼットのままいられる。同調して、ただ、あはは、と笑えばいい。たったそれだけの、簡単なこと。芝居がヘタクソなわたしでもそれくらいならできる。そうしていれば、これからも身を守れる。  ただ、笑えばいい。  それだけでいいのに。  暁。  わたし、どうしたらいい?   また、逃げるの?  臆病でヘタレで卑怯で弱虫。  どうして隠れるの?  なんでちゃんと伝えないの?  怖い。 「イマカナさん? 大丈夫っすか?」  しまった。  本番前。何をボケッとして、わたし。 「あ、大丈夫ですよ。準備できてます」  慌てて原稿を整理し直して、流れにもう一度目を通す。  いつも通りにやらなきゃ。大丈夫。今まで通り。何も変わらない。  何も、変わらないで。 「あー、すません、本番前に色々うるさくして」 「いえ……」  心臓が、ギシギシと異音を立てている気がする。いつもの本番前の緊張感とは何かが違う。でもわたしは、今から公共の電波に声を乗せなければならない。パーソナリティーとして。  雇われのトークマシーンとして。 『本番10分前です』 「了解っす!」  もう何百回も繰り返した本番直前の緊張感。  張り詰めた、スタジオの空気。  静寂と、スタジオ特有の音響環境による独特の耳の閉塞感。  大丈夫。いつも通りに。 『マイクチェックお願いします』 「はい。マイクチェック、マイクチェック、チェッ、チェッ、テス、テス、イエス、ノー、ワン、ツー、ワン、ツー、ハー、ヘイッ、ハー、ヘイッ」  これも毎回やっていること。PAさんが調整しやすいように、決まった言葉を高音、中音、低音と分けて繰り返す。長く伸ばす言葉と短く切る言葉も混ぜて残響やエコーを確認。マイクと口の位置を数パターンずらして聞こえ方に穴がないかも確認。  ほぼ、無意識。口癖になっているというか、不変のルーティン。 『オッケーでーすありがとうございます』 「ありがとうございます」  いつもと変わらない。  大丈夫。 『本番5分前です』 「はい。原稿オッケーです」  日本標準時とほぼズレがない時計の秒針を目で追う。デジタルのカウンターもあるけど、わたしはピンポイントの時間より残り時間を一目で確認できるアナログ時計の方をよく見る。  モニターヘッドホンを装着して、サブとのやり取りに問題ないかもチェック。聞こえていることを言葉で伝え、目視もする。  トラブル時用のカフボックスもチェック。ボタンを一つずつ触って、操作に問題がないか調べる。 『間もなくです』  生放送は、待ったなし。自分がどんなに都合が悪くても、絶対に放送は止められない。  プライド企画へのコメントを読むのはオープニングのテーマがかかってすぐ。本編が始まるまでの約10分間。  余計なことを考えるな。  いつも通りに、いつもと同じことをしろ。  邪念を、取っ払わなきゃ。 『はい、本番、用意……』  セクシュアルマイノリティは、LGBTQは、マジョリティに『認めて』もらわないといけない存在なんかじゃない。 『まもなくカウント入ります』  セクシュアルマイノリティをカミングアウトすることは周囲の人を不幸にすることじゃない。  早く、本番、集中しなきゃ。 『10秒前、9、8、7、6、はい5秒前、4、3、2……』  時計の秒針が12に到達するのと同時にテーマ曲が流れて、タイトルコールが入る。  始まった。  週5回聴くルーティン。条件反射のように心が落ち着く。  余計なことは考えない。  暁。  見守ってて。 「おはようございます。今日のお天気は晴れ。午前9時の現時点でもう30度に迫る勢いで気温が上昇しています。暑いですが、しっかり水分補給して乗り切って行きましょう。本日もイマカナこと、今井(いまい)(かなた)がお送りします」  毎度同じことを言うのでテーマ曲が終わるところにきっちり収まる。今日もぴったり。調子は悪くない。  テーマ曲と入れ替わるようにオープニングトークのBGMが始まる。  これが約10分程度続くので、決められたお便りを読んだり案内をしたり。  そう。  いつもなら。 「先月6月はプライド月間ということで、1ヶ月に渡りLGBTQ当事者やアライのゲストをお招きしていろんなお話を伺いました」  順調な滑り出し。  大丈夫。落ち着いている。 「放送を聴いてくださったリスナーさんはもうご存知かと思いますが、今、LGBTQ当事者の割合は、国や調査機関によって多少の差はありますが、だいたい大まかに言うと10%程度、と言われています。クラスに1人か2人はいる計算です」  ブレスを入れている間に自分がこれから読むべき文字列を目でなぞって、そこから、意図的に視線を外す。 「プライド企画に対するお便りやメッセージをたくさんいただきました。その中には、応援してくださる声もたくさんありました。当事者の方からのコメントもありました。そして、LGBTQに対してマイナスの感情を抱いている方も決して少なくない印象を受けました」  少しずつ、台本の流れから逸れて、サブにいるスタッフがザワッとしたのがモニターヘッドホンから伝わる。でも今は、振り向かない。  わたしはそっと、原稿そのものから目を離した。 「今、SNSやネット上では、差別を扇動するためのデマやヘイトがあふれています。そしてそれは時に、誹謗中傷の形で当事者へ直接ぶつけられます」  計画も、準備も、なにもしていない。  ただ、思いつくままに喋っている。 「LGBTQ当事者は、案外みなさんのすぐ近くにいるかもしれません。隣の家かもしれないし、隣の部署かもしれないし、隣のクラスかもしれないし、隣の席かもしれません」  ラジオパーソナリティになって、この番組の担当になって、約2年半。今まで台本なしで番組を進行させたことは一度もない。当たり前だ。 「そんな近くにいるわけないじゃん、って思いました? 意外とね、いるかもしれませんよ」  背筋のあたりに冷たい痺れが走って、これはたぶん、武者震いのようなもの。  さあ。  頑張れ、イマカナ。 「現に、みなさんは今、当事者の声を聴いています」  小さく息を吸って、マイクに息が当たらないようにして吐き出す。 「わたしは、女性として生まれましたが、女性を恋愛対象として好きになります」 『イマカナ!! 生だぞ!!』  ヘッドホンから蒲原さんの大声が聞こえた。  わたしはサブの方をチラリと振り向いて、大丈夫だという意味でそっと片手を挙げた。 『取り消せねーぞ!!』  わかっている。生放送で発言したことは、絶対に取り消せない。わかっていて、今、こういう話をしている。  焦っているサブ内のメンツに、わたしは至って正気だということを知らせたくて、今度はしっかりと顔を向けて、笑顔を作って見せた。  呆然としている蒲原さんと、何か面白いおもちゃを見つけたみたいに楽しげな真野さん。その背後で、真っ白な顔をして立ち尽くしているタツくん。タイムキーパーのみゆきさんも、どうしていいかわからない様子でじっとこちらを見ている。  みんな、ごめんね。急に段取りにない話なんかして。  もしかしたら、番組、降ろされるかもしれない。  もしかしたら、番組にものすごいクレームが来るかもしれない。  もしかしたら、自分の家族や暁の家族が聴いているかもしれない。  もしかしたら、これから家族との関係が変わってしまうかもしれない。  それでもわたしは、どうしても話したかった。話さなければいけない気がした。 「どうですか。びっくりしました? 怒りましたか? 笑えますか? 気持ち悪いですか? 困りますか? 悲しいですか?」  暁。  今、どこにいるの。 「ちょっと考えてみてください。わたしのセクシュアリティを知らないでこの番組を聴いていた時と、わたしがレズビアンだと知ってからの今と、何か変わったことはありますか?」  会いたいよ。  会って、いろいろ、話したいことがたくさんあるよ。 「わたしの声は、今までと違って聞こえますか?」  わたしやっぱりバカだよね、こんなことして。  いつも暁に言われてたのに。よく考えないと、って。  でもこれでもよく考えたんだよ。たくさん考えた。それで、決めた。 「わたしは今までとこれからと、何も変わらずにいます」  暁。  聞こえてる?  わたしの声、届いてる? 「他のLGBTQ当事者のみなさんも同じです。何も変わらず、ただ、普通に毎日を生きている。マジョリティのみなさんと同じように、普通にそこで生活をしているだけなのです」  サブももう、焦っている人がいるような気配はない。 「それなのに、マジョリティの人たちにはもれなく与えられている当たり前の権利が、マイノリティには与えられていないこと、わたしはおかしいと思います」  驚かせてしまったな、と思うけど、でも後悔はしていない。  今しかなかった。今が、ベストなタイミングだと思った。 「今まで、自分が差別の目を向けられて傷つくのが嫌なのはもちろんですが、周囲の人に嫌な思いをさせるのも避けたくて、ずっと言えずに生きてきました。でも、それでは自分の言葉がみなさんに届かないことに気づきました」  誤解が生まれないように。誰かを傷つけないように。あまり大げさにならないように。そして、わかりやすく伝わるように、簡潔に。 「カミングアウトをしないで生きること、クローゼットが悪いとは言っていません。みんなそれぞれいろんな事情を抱えている。だからオープンも、クローゼットも、自由です。どちらが良い悪いではない。正解も不正解もない。ただ、わたしはこうして公共の電波を使って言葉を届ける仕事をしている。そこに嘘があることが、自分自身で耐えられなくなった、それだけのことです」  自分の口から出た言葉を自分で聞いて初めて、そうだったのか、と認識できる思いもあって、わたしはそれが流れていってしまわないように必死に意識の中に留めておくようにした。 「そういう意味で、このプライド月間企画はとても考えさせられたし、とても意味のあるものだったと改めて実感しました」  時計を確認。もう6分ほど経った。あと4分。  サブの中は静まり返っていて、もう誰も慌てたりしていない。ただ、和やかに落ち着いているというわけでもなさそうだ。でも今はそれは考えない。  残された時間を有意義に使うために、わたしは心を落ち着けて思考を研ぎ澄ます。なにせ、台本がないのだ。自分の言葉を使うしかない。  心の中は言葉で溢れているのに、口に出す言葉はなぜか、詰まって滞る。音として出るまでに霞んでしまう。心と言葉の間にまるでフィルターがあるかのように。  でも、これは伝えたいから。  自分の言葉で。  自分の声で。 「今、わたしには、大切に思っている人がいて、ずっと一緒にいたいと思っている人がいて、まだ話せていないこともたくさんあって、今その人は遠くにいるのだけど、ずっと帰ってくるのを待っています。もちろんその人は、女性です」  いつの間にか心が凪いで、邪念が何もない。自分でもびっくりするほど落ち着いていて、怖いとか不安だとか思う気持ちがきれいに霧散していた。  それはまるで、暁がわたしをハグしてくれている時のようで、いつも言ってくれたみたいに「大丈夫」という声が聞こえそうな気がした。 「それはマジョリティの人がパートナーを、彼氏を、彼女を、妻を、夫を、大切な人を恋しく思って帰りを待っているのとなにも変わらない感情です」  暁。聴いてくれてる?  すごいことしちゃった、わたし。こんなことしたラジオパーソナリティ、今までいたかな。ラジオの生放送でカミングアウトしたパーソナリティなんて、もしかしてわたしが史上初!? 「一応言っておくと、セクシュアルマイノリティの中には、恋愛感情や性的欲求を持たなかったり持ちにくかったりする人もいます。なので、このわたしの持っている感情が性的少数者すべての人に共通するものだと言うつもりはありません」  感情の赴くままに話しただけのつもりはない。ラジオパーソナリティとして、言葉で伝えるプロとして、まだ、やれることはある。 「すべてを受け入れて仲良くして欲しいわけではありません。嫌だと思っても、気持ち悪いと思っても、それはその人の自由です。でも、それを言葉にしたり態度に出したりすることは、相手によっては差別されたと感じて傷つく人もいます」  サブにいるみんなにもちゃんと聞いてほしい。知ってほしい。一度ちゃんと専門家から習ったはずなのに定着しなかった知識を。フィクションではない現実を。 「性自認も性的指向も、シスジェンダー、ヘテロセクシュアルだけではありません。そして、それらは常に変化する可能性があります。本当に変化する場合もあるし、ずっと隠してきたものが何かのきっかけで解放されて可視化することもあります」  タツくんに限ったことではない。スタッフも、関係者も、リスナーも、みんな。差別や排除をしないでいられるように、正しい知識を持ってほしい。 「だから、結婚や子を持つ経験があっても、中高年になっても、ずっと特定の性別に特化した職業に従事していても、ある時からそれまでとは違う形で生きることになる人はたくさんいます。それは卑怯なことでもなければ犯罪でもない」  林田市長、この放送のことを知ったらもうここには来てくれないかもしれない。でも、それでも仕方ない。 「それについて話し合うべき人は当事者と家族、あとは周囲の直接関わりある人だけで、他人や部外者がとやかく言うことではありません」  理解者が増えて欲しいと願いながら話しているけど、逆に敵が増える可能性もある。それでもわたしはもう黙っているつもりはないし、ここで話したことを後悔はしていない。 「自分で知ろうともしないで悪質なデマやヘイトを鵜呑みにしてマイノリティを攻撃したり排除したりするのは、差別に加担する行為です」  そろそろタイムリミットが近い。結論を。最後に、うまく着地点を作らなければ。 「どうか、悪意のある嘘の情報に惑わされないでください。自分も含め、みなさんが自分の目で、耳で、自分の心で情報を正しく集めて、差別しない、されない社会を作っていけたらとても嬉しいです」  計画性はなかったけど、なんとかまとめることができたと思う。  自分の声が世の中にどう響いたか知るのは怖いけど、今はとにかく番組を最後まで進行させることに集中しなければ。 「本当はリスナーのみなさんからのお便りを読む予定だったんですが、どうしてもお伝えしたくて、個人的な話をさせていただきました。お便りは今後もバンバン読む予定ですので、引き続きお待ちしています」  ちょうど9分と、35秒を超えたあたり。もうタイムリミット。お便り、ひとつも読めなかったけど、また後で時間もらえるかな。 「では、本日のリクエスト曲、行ってみましょう。最初の曲は……」  サブに向かって、軽く片手を上げる。  我に返ったように蒲原さんが音楽を再生する機材に手を伸ばした。  リクエスト曲が流れ始めた。およそ2分20秒の予定。  わたしはわざとヘッドホンを外した。これで、サブとの会話が遮断された。  話さなくてはいけないとわかっている。でも今は、何も言われたくない。サブにいる誰も、ヘッドホンを着けろとは指示してこない。  きっとみんな、戸惑っている。タツくんは特に、さっきあれだけの発言をしたので、まだ顔がこわばったままだ。  でもいい。  予定外のトークを強引に進めたことを、暴力的だと受け取る人もいるかもしれない。そういう指摘があれば、わたしは本当に仕事を降ろされるかもしれない。  でもなんとなく、それもアリかもな、と思う。  心の中は、予想していた以上に平穏だった。もっと取り乱したり混乱したりするかと思ったけど、そんなことはなかった。もちろん、このまま放送が終わるまでいつも通りに続けるつもりだ。  明日以降のことは、わたしにはわからない。 「お疲れ様でした」 「お疲れ様でしたー!」  表面上は、みんな、普通。いつも通り、普段通り。  でもその空気はどこかピリついていて、少しでも誰かがどこかをつついたら、その緊張の膜が一気に破裂してしまいそう。  サブから出てきた放送作家とディレクターに、立ち上がって頭を下げた。 「すみませんでした。勝手に内容変えて」 「いや……うん、まぁ、ね……」  ディレクターの蒲原さんは、まだ混乱が残っているようだ。  一方の真野さんは、本番中もずっと笑顔で、このハプニングを確実に楽しんでいるように見えた。 「真野さんだけ楽しそうでしたね」 「え、そう? うん、まぁね。生放送ならでは、だよね」 「引きませんでした?」 「引く? え、何に関して?」  元々あっさりした嫌味のない性格で人当たりのいい人だけど、さすがにこの状況でこんなに平然としていられるなんて、只者ではないな、と感心する。 「いや、いろいろですけど、段取りぶっちぎったこととか、カミングアウトとか」  言われる前に自分から言ってしまう方がいい。もうやってしまったことは取り消せないのだから。 「まぁびっくりはしたよ。でももうイマカナちゃんベテランだし、段取り変えても事故ることはないって信頼してたからね。それに」  実に朗らかに、心の底からなにも心配していなかったようにそう言ってくれた。 「カミングアウトは、この業界じゃ別に珍しいことでもないし」 「そう、ですかね……」 「あと、実は娘の友達にも普通にバイセクシュアルをオープンにしてる子がいて、すごく普通にいい子で、娘もその子と普通に仲良くしてるから、僕はまぁ特になんとも思わないかな」  ごく自然に普通という言葉が何度も出てきて、真野さんの言葉に嘘がないことが伝わってくる。ありがたくて涙が出そう。こんな人ばかりだったら世の中もっと平和になるのに。  わたしが今日カミングアウトしたことも、なにかほんの僅かにでも世の中が良い方向に向かうきっかけになればいいのに。  片付けをしていたら、タツくんが申し訳なさそうに話しかけてきた。 「あ、あの……すいませんでした、俺、いろいろ……」 「あーいいのいいの。全然気にしてないんで」  本当に、タツくん個人を責めるつもりであの暴挙に出たわけではない。 「いや、でも」 「こちらこそごめんなさい。当事者いたら働きにくいって言ってたのにね」 「いや、あの……」 「勝手なことしてすみませんでした。クレームあれば蒲原さんに、ね!」  ただ、わかって欲しかっただけ。自分の発言が目の前の誰かを傷つけているかもしれないということに気づいて欲しかった。みんなに、間違った認識で差別を助長して欲しくない、と伝えたかっただけだ。 「じゃあ明日の打ち合わせ始めまーす」 「はーい、お弁当みなさん持ってってー」  別のスタッフから声が掛かる。  わたしのすべきことは、普段通りにふるまうこと。  とんでもないことをやらかしたのは事実。その処分が下されたなら、わたしはそれをちゃんと受け入れるつもりでいる。明日かもしれない。来週かもしれない。来月かもしれない。いつになったとしても、わたしはただそれに従う覚悟はできている。  幸い、今この場で「クビだー!」と言われることはなさそうだ。明日からの放送の会議には参加させてもらえている。それなら、いつも通りに仕事をこなすだけだ。 「いやぁ、すごい放送だったねぇ。イマカナちゃんがやらかしてくれちゃってさぁ! ボクの書いた台本、思いっきり無視されたね! こんなことはまぁ初めてで楽しすぎたね、うん。楽しかったわぁ!」  ほんの少しだけいつもより緊張感を持って始まった打ち合わせは、真野さんが出だしで思い切りおちゃらけて笑い話にしてくれたおかげで、深刻な雰囲気にならずに済んだ。  わたしのカミングアウトした内容には触れず、台本を無視したことだけを笑い話にしてくれた真野さんの配慮に感謝しかない。  これからどんな処分が出てもそれを受け入れる覚悟が改めてできた。  放送局の薄暗いエントランスを出た途端、夏の午後の地獄のような灼熱の陽射しに焼き殺されそうになる。  一瞬、明暗差に目が(くら)んで、慌てて目を閉じて落ち着くのを待った。  ……あれ?  今、何か……  目を閉じる瞬間、何か見覚えのあるような、懐かしいような、愛しいような、よく知る顔が視界に飛び込んできたような気がしたのだけど。  スタジオが涼しかったから、外気との温度差に脳がバグったか。  いろいろなことがあった直後で、やっぱり脳がバグったか。  これからのことが不安すぎて、結局脳がバグったか。  どうせ、幻覚だ。だって、いるわけないし。あの人は今、遠くにいて。 「(かなた)」  わたしの名を呼んだその人は、街路樹の木陰で、ガードレールに寄りかかるみたいに軽く腰掛けて、じっとわたしの方を見ていた。 「仕事、お疲れさま」  会いたいと思っていた。  早く会いたいと、帰ってくるのを心待ちにしていた。  話したかった。いろいろ、たくさん、話したいことがいっぱいあって。 「いつ帰ってきたの?」 「今朝、早く」  歩道を挟んで、ビルのエントランスと車道側のガードレールと。その間を、幾人もの人たちが通り過ぎていく。歩く人も、走る人も、自転車の人も。若い人も、年配の人も、男性も、女性も、それ以外の人も。 「あの、さ。さっきの、奏が待ってる人、って」  街の喧騒に声がかき消されてしまいそうで、必死に耳を傾ける。 「あれ、暁ちゃんのこと……?」  よく聞き取れない。 「ラジオ、聴いてたの?」 「うん」  蝉の声がうるさくて。 「奏が、帰ってくるのを待ってる女性、って、暁ちゃん……?」  普通の声量の会話が聞こえるのも結構ギリギリ。トラックやバスが背後を通れば、その声は走行音にかき消される。  数人の集団が間を通れば、少し見えなくなっているうちに消えてしまったらどうしよう、と思う。次に見えた時、ガードレールに誰も座っていなかったら。  やっぱりこれも脳のバグで、全部幻覚だったらどうしよう。  ちゃんと近くに行って、触れて、確認しないと。  人の流れが途切れるのを待つ。  でも、なかなか途切れない。  気持ちが()いて、不安が押し寄せる。  待っても待っても人は減らなくて、仕方なく、人々の流れの間を縫うようにしてなんとか歩道を渡り切った。  また、泣く寸前の、我慢している顔。  やっぱり変わってないな。 「そんなの、あなたのことに決まってるでしょ」  そう伝えると、目の前のその人は大きな目からボロッと涙を(こぼ)した。 「ハル。お帰り」  こんな人の往来が激しい場所で、人目を(はばか)らず、こんなふうに泣くなんて。  可愛くて、愛しくて、他の誰にも見せたくない。 「でも、大切に思ってる、って」 「うん。大切に思ってるよ」  迷いも戸惑いもない、本当の本音。経験値が足りなすぎて、気持ちを伝える方法がわからない。だからただとにかく本当のことを口にするしかない。 「ずっと一緒にいたいって」 「うん、そうだよ」 「私、の、こと?」  また、ポロポロと涙が溢れて、眉毛がキュッと歪む。  大変。またハルが泣いてる。 「そうだよ」  わたしがなんとかしなきゃ。ハルを、助けなきゃ。 「ホントに?」 「ほんと」  ハルが納得するまで何度でも答えるつもり。同じことでも、何度でも。  そう覚悟を決めたのに、ハルはあっさりと問答を終えた。 「奏。だっこしてよ」  口をキュッとへの字にすぼめて少し上目遣いにこちらをじっと見据える姿は、本当に小さい時のままだ。  まだ言葉を覚え始めたばかりのヨチヨチ歩きの頃、ハルは親やわたしや暁に抱っこをせがむ時に、両手を差し出しながら「あっこ、しよか?」と言っていた。自分がして欲しいのに、伺いを立てるみたいに「しようか?」と言うのだ。それは、親やわたしたちがハルにいつも「抱っこしようか?」と声をかけていたからで、能動と受動の使い分けがまだできなかったハルはそれをそのまま抱っこしてくださいの意味で使っていたのだと思う。  それがとにかく可愛くて、暁と幼少期の思い出話をする時にいつもその話題を出しては懐かしんでいた。  目の前にいるハルはもう大人で、しかもわたしよりだいぶ大きいけど、それでもその口から「あっこ、しよか?」という言葉が出てきそうな気がして、その変わらない愛しさに胸が締め付けられる。  そっと肩に腕を回して抱き寄せようとしたら、スッと立ち上がったハルにあっという間に抱き込まれた。わたしがハルをだっこ、するつもりでいたのに。 「なんかこれ、違う気がする」 「……いいの」  人がいっぱい通ってるよな、とか、仕事場の放送局の真ん前だよな、とか、理性の部分ではいろいろと思うところはあったけど、でもそんなことより会いたいと思っていた人が会いにきてくれて、おそらくそれなりに好意を持ってこうしてハグしてくれている嬉しさの方が格段に大きくて、周囲の目なんてどうでもよくなる。 「いろいろ、話そう」  わたしもいろいろ、いっぱい、いろんなことを話したい。 「うん」  最初から当たり前に一緒に居すぎて、その時あまりに近くに居すぎて、そこから急に遠くに離れすぎて、そしてその離れていた期間が長すぎて、ハルとの距離を測るのがヘタクソになっていた。  暁との関係のこともあって、対人スキルに狂いが出ていた。  だから、気づくのが遅れた。  原稿を無視して台本の流れを変えて勝手なことを喋った。もしかしたら始末書を書かされるかもしれないほどのことをして、その時の通常時とは違う精神状態で、わたしは自分でも気づいていなかった本当の気持ちを知った。  極度の緊張を超えたところにあった異様なほどの感情の凪の中で気づいた気持ちが、もしかしたら非日常の興奮状態で感じた錯覚かも、とも思った。でも今、あの場から脱して、こうして通常モードの自分として思い直してみても、その気持ちは変わらないことが実感できた。  わたしは、ハルのことが好きだ。  幼馴染としてだけではなく、親友としてだけではなく。  女性として、恋情的な意味で、ハルが好きだ。  でも、新規で出会った人を好きになるのと違って、今までずっと幼馴染としてしか向き合ってこなかった。これで、今までとは違う対象としてハルと接することができるのかと、若干の不安はある。  それに、ハルがわたしのことを恋愛対象として見てくれるかどうかはまだわからない。  幸か不幸か、わたしはすでに公の場で、現在好きな人がいると公言してしまった。そしてハルには、それがハルのことなのだとバレた。  それならもう、引き下がったりごまかしたりすることは無意味だ。 「うちに帰ろう」 「うん」  帰るにはこのハグを解かなければいけないのに、それが名残惜しくて動けない。でも、帰らなければ。  わたしたちの家に。  わたしと、ハルと、暁の家に。
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