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10 かくされごと
引っ越しの日時が決まった。
結局、追い出し勧告の期日の前日になった。本当はもっと早く、荷造りが終わり次第すぐにでも出て行けたらよかったのだけど、仕事もあってギリギリになってしまった。引っ越しはいよいよ明後日に迫っている。
ハルが手の空いている時は手伝ってくれたので、とりあえずなんとか間に合いそうだ。連日、わたしが仕事に行っている間もできることを進めてくれていた。ここ数日は成り行き的に泊まり込んでずっと片付けや掃除をしてくれている。
「よし、とりあえずわたしの部屋はもうこれでいいかな。じゃあキッチンやるか。一番めんどくさいとこ」
「あはは。もう思考停止して手だけでひたすら詰めるしかない!」
「そうだね、機械になろう、機械に」
どちらかというと犬より猫気質なわたしは、住み慣れた環境が変わることもそのための重労働もストレスが溜まるのだけど、こんなふうにハルとわちゃわちゃしながら作業するのは気が紛れて苦痛ではなかった。
それにしても、暁と暮らした家をこんなにバタバタと慌ただしく出て行くことになるなんて、思ってもみなかった。
もっと落ち込むかと思っていた。ほとんど追い出される形でここを去ることにショックを受けたのは確か。でも、思っていたほど落ち込まずに済んだのはたぶん、引っ越し先でハルと一緒に暮らせることになったから。そして、暁の私物を持てるだけ持って行けることになったから。
暁のいなくなった場所をハルに埋めてもらおうというつもりはない。それは、立場や役割が違うから。それでもハルの存在に救われていることは確実で、もし今になって「やっぱり一緒に暮らせない」と言われたら、わたしはきっと相当ダメージを受けるだろうなと思う。
「じゃ、あとは暁の部屋だな」
「……そこは、奏ひとりでやる?」
珍しく、ハルが遠慮がちにわたしの様子をうかがっている。
「んー、いいよ。一緒にやろう。暁ってあんまり物持たない人だったから、そんなに大変じゃないと思う」
遠慮の理由を量りかねたのだけど、あえて深読みしない単純な方で通してみた。
「じゃあなおさら、奏ひとりでやったら?」
「……ハル、やりたくない?」
「違くて、なんか、あんまり他人に見られたくないかなーとか」
なるほど。
完全なる他人なら確かに遠慮して欲しいかもしれない。でも、同じ幼馴染のハルなら問題ないと思うのだけど。
「暁ね、ああいう仕事してたから、いつも帰国するたびに、いつ死んでもいいように身辺整理〜とか言ってて、断捨離が趣味みたいになってたの。だから基本的に誰かに見られて困るようなもの残してないと思うんだよね」
「そっか。それはそれで、なんか悲しいけど」
「ん。だから、一緒にやろう」
「いいのかな」
「うん。なんかね、わたし今、暁の妻としてっていうつもりはなくて、なんとなく幼馴染として荷物整理してる自覚」
つい、本音が出た。
ハルといると、わたしは暁のことを昔と同じように幼馴染だという認識で見ていることに気づく。それがダメだというわけではないだろうけど、もしかしたら世間一般的に見れば薄情というか、妻としては失格の烙印を押されてしまうのだろうかと思ってしまう。
「そっか。じゃあ私も同じ立場でやっていいってことだね」
「うん。そういうこと」
多少、強引にこじつけた感はある。でもなんとなく、ハルにもいろいろなものを共有して欲しかった。暁も一緒に引っ越せるのだと、ハルにも見届けて欲しかった。
「じゃあわたし、本棚やるから、ハルは服とかお願いしようかな」
「オッケー」
「もうここも仕分けはしない。ひたすら詰めて、全部運ぶ」
「また機械になればいいんでしょ」
「そうそう」
10年のブランクを経て再会した時は、昔のように楽しく過ごせるか正直不安だった。でも、言葉を交わせば交わすほど、その空白はあっという間に現在のわたしたちの色に染まっていって、いつしか存在を薄めていた。
楽しい。単純に、居心地が良くて、嬉しい。
ハルが帰ってきてくれてよかった。
「わ、見て!」
「んー?」
思わず声を上げると、作業中だったハルも手を止めてこちらを見た。
「アルバム出てきた!」
難しそうなタイトルの専門書ばかりが並ぶ本棚の一番下の端の方に、明らかに書籍とは違う背表紙のファイルを見つけて、開いてみた。
中身は写真で、小さな子どもたちの無邪気な姿がたくさん保管されていた。
「写真? 暁ちゃんの?」
「うちらの。昔の」
写真の面をハルの方に向けると、手にしていた衣類をその場に置いて這うようにして近づいてきた。わたしも膝立ちの中途半端な姿勢から改めてしっかり座り直して、作業は中断、写真をがっつり鑑賞する気満々モードに。
「わ、めっちゃすごい。ってゆーか懐かしさとかもないよ、こんな昔のこと、覚えてないもん。よくこんなの持ってたねぇ暁ちゃん」
「ぎゃー見て見て、これ、ハル産まれたてだよ!」
ああもう、本当に楽しい。こんなふうに昔の思い出を共有できるなんて。
「わー、ほんとだ。まだ人間じゃない頃だな」
「わたしが4歳くらいだから、暁は……3歳かな、4歳になってたかな」
「あはは、何この顔。やっぱり奏、この頃から怒ってるじゃん」
約28年前の、少しだけ色褪せた写真。
部屋のタンスに寄りかかる形で、暁が産まれたばかりのハルを抱っこして座っている。と言っても、おそらく親たちが無理やり暁の膝に乗せた、という体だ。ふたりしてズルッと傾いて、今にもハルが転げ落ちてしまいそう。暁の顔も少し不安げだ。それを、隣に同じように座ったわたしが頬を膨らませて見ている。まるで、なんでわたしじゃなく暁が抱っこなの!?とでも言っているかのよう。
「この時代はまだスマホどころかデジカメもそんなに普及してなかった頃だから、これたぶんフィルムカメラで撮って専門店に現像してもらったやつだよ。あ、ほら、印画紙が業者のだし」
フィルム、というのはたぶん、ハルが高校の写真部で撮っていた時のアレで、データとかではないやつだ。
「え、じゃああの現像した小さい写真が繋がってる細いテープみたいなのがなかったらコピーとかできないってこと?」
「ネガフィルムね。そう、それがなきゃ焼き増しできない。この紙焼きがなくなったりダメになったりしたらおしまい」
今でこそ写真なんてデータが当たり前で、しかもカメラがなくてもスマホで撮れて、送れて、共有できて。でもこの頃はまだそんな便利な時代ではなかった。親が保管していた家族写真のデジタルデータは、わたしが小学生の頃からのものしかない。
「じゃあこれ、スキャンとかしてデータにしておいた方がいいよね」
「うん。家庭用のスキャナーでもまぁいいんだけど、できれば専門店に任せた方が無難」
こんなにたくさんの大事な写真がこの原本しかないというのは心許ないので、可能ならぜひ高画質データにしておきたい。
「知ってるお店、ある?」
「あるよ。ちょっとお金かかるけど確実だから」
「そっか。じゃあお願いしようかな」
「大事な写真なら、なおさら」
「そうだね」
この写真を、ハルもわたしと同じくらい大切に思ってくれているなら、それはすごく嬉しい。これから何度でもこれを手にとって昔話ができたら嬉しい。
「あーこういうの出てくるとつい手が止まっちゃうよね。ヤバ、時間ないんだった」
「あ、ほんとだ。もうこんな時間。早くやらないとだね」
本当に、つい、没頭してしまった。懐かしくて、少し切ない。でも、大切なわたしたちの思い出。わたしとハルと暁がずっと一緒に育った記録。
「でもなんか不思議だよねぇ。産まれた時から知ってる子がさ、こんなふうに大人になってもずっと一緒にいられるなんて」
持ち場に戻っていくハルに、思わず声をかけた。写真を見たばかりだし、あの赤ちゃんがこんなに大きくなったのかと思うと感慨深いけど、実は完全には信じられなくて不思議すぎて笑ってしまいそう。
「これで暁も一緒にいられたらもっと面白かったんだけどね」
幼な子3人で写った写真を思い出して、やっぱり今3人であの写真を見たかったな、と思ったら、つい、そう言葉が漏れた。
「……ハル?」
そうだねー、とか、すぐに返ってくると思ったのだけど、ハルは何も言わない。
「ハル……? どうした?」
暁の服をしまう箱に両手を入れたまま、黙ってじっとしている。
「ハル」
「え。あ。うん、ごめん」
わたしが腰を上げようと身じろぎした瞬間、我に返ったようにハルが頭を上げた。そして、同時に、手にしていた何かを手早く段ボール箱の奥に押し込んだ。
「何、どうしたの? なんか見つけた?」
「ん? いや、別に。なんでもないよ」
「そう? なんだぁ、ハルも何かお宝でも発掘したかと思ったのに」
ハルの言葉をそのまま受け取りたい気持ちと、一度持ってしまった違和感をスルーできない本音。
「……あはは、そんなのないよぉ」
「じゃあ浮気の証拠とか? あーそれこそないか、暁は」
もちろん、冗談。暁はそういうことは許せないタイプなはずで、暁を疑ったことなんてただの一度もない。
「そんなもの見つけたら、私が説教かましてやるから」
わたしに合わせてくれたのか、ハルもわざと芝居がかった大げさな口調で返してくれた。
説教とは言っても、暁はもういなくて、そんなことするとなるとお墓に向かってしか……。お墓、か。
「あはは……あー、そういえばお墓、どうなるんだろうなぁ」
「え、お墓、どうなるか知らないの?」
「うん。だって遺骨もないし」
「そうなんだ……」
話題が移ってしまって、さっきハルが何かを隠したかもしれないことから遠ざかった。
どうしよう。今はこのまま蒸し返さないほうがいいのかな。
「一ノ瀬の代々のお墓に入る形を取ることになるのかなーって思ってるんだけど、わたしそれどこにあるか知らないし、何も聞かされてないんだよね」
「それは聞いとくべきじゃない? 夫婦なんだから聞く権利あるでしょ」
「でもねぇ……もうあちらの一族とは縁切れてるし。暁ひとりだけとしか」
「でも……」
暁がいなくなってから、やらなきゃいけないとは思いつつ、つい言い訳を繰り返して逃げ続けてきたことは、実はいくつもある。このまま逃げ切りたいとは思っても、そうもいかないこともあって、お墓のこともそのひとつだ。
「遺体もないのにお墓参りなんてしても意味ないなーとか思ったりして」
本音か建前か。あるいは強がりか、ただの言い訳か。自分でもわからないけど、今はまだ追求する余裕がない。
「薄情かなぁ。薄情だよね。うん、自分でもそう思う」
ハルと話すようになって、こうして見ないふりをしていた自分の本心に向き合わざるを得ないことが多発している。
「でもまだ心の片隅で、認めたくないのかもなぁ」
しんどいけど、でも実はこうして少しずつ本心が明らかになっていくのは悪いことではないとわかっている。
「まぁいいや、お墓なんてどうでも」
わたしはそういう自分を弱いと思っているしズルいとも思っていて、でもこんなわたしがこの世界で生きていくにはそうやって取り繕わないといけないのだから仕方がない。
そうだ。仕方がないことなのだ。
「あーなんか頑張りすぎてお腹空いた。空かない? お腹」
「うん、ちょっと空いてきた」
もしかしたらハルは、そんなわたしの弱さに気づいているのかもしれない。いつも、何か言いたそうな顔をするから。
でもわたしは、それに気づかないふりをしている。
これからもこうして無難に一緒にいるために。
「何食べようか」
「何か作ろうか」
「じゃ、一緒に作ろう」
ほら。大丈夫。
きっとこのままうまくやっていける。
ハルが荷造りしていた段ボール箱、あれを覚えておけば、後で何が入っているか確認できる。でも、ハルがわたしに見せようとしなかったものを今わたしが知って、何かメリットがあるだろうか、とも思う。
ハルは隠したものを、これからどうするのだろう。このままあの箱に入れておけば、新居でわたしがあの箱を開封してしまえば隠した意味がなくなる。それなら、わたしに見つかる前に取り出して別のところへ隠すだろうか。それか、処分してしまうか。あるいは何か、隠し財産的な、権利書とか株券的なものだと、他人のハルでは現金化や解約の手続きはできないし。いや、暁にそんな財産的なものがあるとは聞いていないし、そもそもハルがそんなみみっちいことをするわけがない。それは考えられない。
じゃあ、何を見つけた?
何を隠した?
「じゃああとこれ盛り付けて」
「……はい」
悶々と淀む脳内に無理やり目の前の光景を流し込む。
今は、ハルと一緒に食べる食事を用意している。食事、食事。
本当にこのままハルと一緒に暮らしても大丈夫なのか、もっと今のお互いをよく知ってからの方がいいのではないか、そんな不安が胸の中に渦巻いて、目の前の作業がつい上の空になる。
ダメだ。もう、引越しの日が迫ってきている。
でも引越しを終えてしまったら、労力的にも経済的にもそう簡単には同居を解消できない。それなら、気になっていることは今のうちに片付けてしまってからの方が良いのでは。
じゃあ、なんて切り出す?
「できたよ。運んでー」
「あ、うん」
やっぱり、ハルを問いただすのはやめよう。
ハルが何か悪意を持ってわたしに隠し事をするとは思えない。しかも、暁に関係あることで。そういう人ではない。そこは、信用している。
疑い出せばきりがない。会わない10年の間に人格が変わってしまった可能性だってゼロではない。でも、わたしは今目の前にいるハルを信じたい。
もし何か本当に隠したのなら、それは今わたしに見せるべきではないとハルが判断したということで、その気遣いをわたしは尊重したい。
暁。
わたし、間違ってるかな。
暁。何か言って欲しい。何か、助言を。
「奏ー、これも運んでー」
わかっている。暁はもうここにはいない。
わたしは自分の意思で、自分の判断で、自分の責任でハルと暮らすと決めた。だから、ちゃんと向き合う。信じる。
「さ、食べよう」
「うん。すごいね、めっちゃ美味しそう!」
きっと、楽しい。
あれだけの同居の準備をしてくれたのだし、その裏に何か良からぬ悪巧みが隠されているとも思えない。わたしを騙してハルが得することなんてひとつもないし。万が一、いや、億が一、ハルに何か魂胆があったのだとしたら、それはもう引っかかった自分の責任と思うしかない。それくらい、わたしはハルを信用したがっている。
「サラダ、よそう?」
「うん」
「どれくらい? 盛り盛り? 控えめ?」
「盛りで! これでもかっていうくらい!」
「あはは」
ほらね。楽しい。すごく。
『ちゃんと、欲しいものを求めて、言いたい事を言って、自分の意思で生きていかないと』
ついこのあいだ、ハルが言っていた。
折を見て、あの箱に隠したもののことを訊いてみよう。
わたしとハルが新しい家でちゃんと楽しく生きていけるようにするために。
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