12 探しもの

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12 探しもの

「これ、どこに運びますか?」  玄関口で、段ボール箱を抱えた引っ越し業者の人が大きな声を上げた。  ドラマによく出てくるセリフを耳にして、思わず笑ってしまう。 「あーすみません、箱に書いてないですね、これは……あ、2階です、2階の上がって右側の部屋で」 「了解です」  引っ越し当日、空は青く晴れ渡って、やっぱり自分が晴れ女だったのだと確信が持てた。 「やばー、腰痛い。運動不足すぎる」 「若いのに何言ってんの。まだいっぱいあるよ」 「ふぇ〜」  ハルははしゃいでいて見るからに楽しそうで、その素直な感性や表現力は単純に羨ましい。対するわたしはというと、自分でも呆れるくらいクールなふりをしてスカしていて、我ながらアホだなぁと嫌になる。頭の片隅に常に、ハルより4つも年上なんだからわたしがしっかりしなきゃ、という意識があるのは自覚している。  本当は楽しいくせに。ハルと一緒になってはしゃぎたいくらいに。  プロ任せの大移動があっという間に終わって、業者が撤収した後の段ボール箱だらけのリビングの床に一度腰を下ろしたら、立ち上がれなくなった。 「楽しいねぇ!」  2段積みになった段ボール箱の角っこに軽く腰かけてペットボトルの緑茶を飲みながら、ハルが本当に楽しそうに笑った。  正直言うと、時々、ハルが感情を真正面から全力でぶつけてくるのが怖いと思うことがある。  昔からそうだった。喜怒哀楽を隠さない。今は子どもの頃よりは空気を読んではいるけど、それでも状況的に問題ないと判断した時の感情むき出しの言動は、いつも自制に必死なわたしにとっては衝撃的だったりもする。 「とりあえずこの段ボールの海の中から今夜の生活に必要なものだけでも発掘しないとだなー」  今日運び入れたわたしの荷物以外に、一昨日航空便で届いたというハルのイタリアからの荷物もあって、そのボリュームを見ていると軽くめまいを覚える。1日や2日で片付く量ではない。 「えっと、寝具と、お風呂関連と、あと着替えくらい?」 「そうだね。食事はまぁ、とりあえずデリバリーか、食べに行くか」 「体力的にもまぁその方がいいね」  ここ数週間一緒に過ごして、自炊と外食やデリバリーを時間や状況、体調や体力次第で使い分けできるバランス感覚が割と似ていることがわかって、それはこれから一緒に暮らすためには重要なポイントだと思うので、嬉しかった。 「今日と明日で最低限の生活できるくらいには荷ほどきしなきゃだね」 「そうだね、はぁ……やりますか」  身体は重たいし出てくる言葉も前向きとは言い難いものだけど、実は内心、これからの生活が楽しみで仕方なかった。  重すぎる腰をようやく上げて、今夜寝るまでに必要なものが入った箱探しが始まった。  段ボール箱の側面の1箇所にしか内容物の説明を書かなかったので、まず書いてある面を探し出すだけでもひと苦労で、底面以外5面全部に書いておけばよかったと後悔した。 「ハルはこれから、日本とイタリア行ったり来たりになるの?」 「んー、まぁそうなるかな。バランスはまだわかんないけど。入る仕事によるから」  ずっと気になっていたけどなかなか訊けなかったことを、荷解きの慌しさに紛れさせてさりげなく訊いてみた。 「全部ひとりでやってるの?」 「業務提携してるフォトグラファーが5人いるよ。イタリア人2人と、日本人1人と、フランス人が1人と、あとフィンランド人が1人。それと、事務の一部をママがやってくれてる。経理は外注」  今までの活動範囲を考えるとどうしても海外が多くなってしまうのかと気がかりで、気の重さについ手が止まる。 「ちなみに仕事現場、日本以外はイタリアとは限らないかな。今までもヨーロッパ全域でやってたから」 「……そっか」 「仕事の大きさによっては、海外のも1週間なのか1ヶ月なのかまちまちだと思うし」  結局、現時点ではハル自身にもまだどうなるかわからない、ということか。 「……寂しい?」 「は? 何がよ」 「私がずっといなかったら、寂しい?」  わたしの顔を覗き込むようにしてハルが問いかけてくる。またそんな、子犬みたいな眼差しで。 「寂しいとか、別にそんな。今までだってひとりぐらしとたいして変わんない生活だったし」  いつもの癖でつい強がったわたしを見て、ハルは少し不貞腐れたように膨れっ面を見せた。 「えー。寂しいって言って」 「……平気だよ」  (あき)が世界中を飛び回る仕事をしていてあまり一緒にいられなかった時、わたしは絶対に、仕事とわたしとどちらが大事なの、という低俗な質問だけはしないと心に決めたのだった。実際、寂しいと思うことが全くなかったとは言えないけど、その寂しさは自分も仕事をして忙しく過ごすことで相殺されていた。  だから、今回も別に大丈夫、と思えるような気がしていたのだけど。 「10年間一度も返事よこさなかったくせに」  この、強がりだけでは払拭できないこびり付いたような不安は何なのだろう。 「……ごめん」  しまった。本気で責めるつもりはなかった。ハルに謝らせるつもりもなかったのだけど。 「これからはちゃんと返信する。遠くにいても」 「別に大丈夫だよ。子どもじゃないんだし。ハルの仕事の邪魔するつもりはないよ」  慌てて急に大人ぶって見せてももう遅い。ハルの態度は特に変わらないけど、わたしは自分の中にある卑屈で甘ったれた幼稚な感情の存在をはっきりと自覚してしまった。ハルの素直でストレートな甘え方とは全然違って、可愛さのカケラもない。  ハルが帰国してから、あまり人に見せたくない感情が露呈することが増えた。ハルにこそ見せたくないのに。こんな格好悪いところ。  自分の情けなさに嫌気がさす。話題、変えよう。 「あのさ、生活費、ちゃんと折半するように色々決めとかない?」 「え。別にいいんじゃない? 適当で」 「そういうわけにはいかないでしょ。お家賃ないのは助かるけど、毎月払うようなものはさ、ちゃんとしようよ」  当然、そうしよう、という流れになると思っていたのに。 「……いいよ、決めなくて。家に関わる出費は全部私が出すし。食材とか生活用品は、その時買った方が出すのでいいじゃん」 「そんなのダメでしょ。水道光熱費とか食費とか、ちゃんと折半しようよ。それと、固定資産税とかもさ、とにかく暮らしていくのにかかる費用は」 「いい。しなくて」  思いのほか強情でびっくりした。ハル、ここまで折れない性格だったっけ。 「(かなた)も仕事しててちゃんと生活できてるのはわかってるよ。でも、生活の水準下げて欲しくないの。暁ちゃんと結婚してた時の生活の質、下げないで」  夫がいなくなって家も失って、ちょうど部屋が余っていた幼馴染に同居させてもらうことになって、まさかそこで生活の水準とか、そんな観点がまるで思い浮かばなかった。どう返せばいいの。 「そんなふうに言われても……わたしだけでふたり分は稼げないよ」 「ちがくて。そこは私が支えるから」 「そんなことハルに頼めないよ。住む家を用意してくれただけでもう十分」  年下のハルに生活費を出してもらうなんて、そんなことできるわけないと辞退を申し出る。そんなの、無理に決まっている。  でもハルは心底不本意そうな顔をして、そっと俯いた。 「それじゃ意味ないもん。私が10年かけて準備した意味ないじゃん」 「……準備?」  ハルの言葉の意味がストレートに頭に入ってこない。何を言っているの。  わたしがそれ以上言葉を吐き出せないでいると、ハルが小さく息を吐いてから、顔を上げてわたしをしっかり見据えた。  まっすぐな眼差し。強い眼光。  目を、逸らせない。 「そうだよ。私、こういうことになった時のために、必死に今まで頑張って仕事の基盤整えてきたんだよ」 「こういう、って……」  本当に、一体何の話かと、頭がうまく回らない。 「昔、私が家族でイタリアに引っ越したすぐ後くらいにね、暁ちゃんが就職した頃、自分にもしものことがあったら奏のことよろしく、って。半分冗談みたいに笑ってたけど、でも仕事柄、いつ何があるかわからないから、って」  ハルがイタリアに行ったのは高校を卒業してから。わたしはその頃仕事を始めたばかりで、ということは暁が就職したのはその次の年あたり。そんな時にハルと暁がそんなやり取りをしていたなんて。 「それからも時々連絡もらって、近況報告みたいなのは聞いてた。色々」 「そうなんだ……全然知らなかった」 「自分は常に覚悟して生きてるけど奏はそうじゃないと思うから、何かあったら力になってあげて、って」  ハルの口から聞く、暁の想い。 「だから私、暁ちゃんと同じくらいの経済力つけるまでは奏に会わないで頑張るって決めて」  ふと、少し緊張気味にわたしの方をまっすぐ見据えながら決意じみた自白のようなものを語るこの人は誰だったっけ、と不思議な感覚に陥る。知っているけど知らない人のような、知らないけど見たことあるような。 「それで、何度も連絡もらったけど返信できなかった……まだ全然、一人前になれてなかったから」  でも、唇を少しへの字になるみたいにキュッとすぼめて泣くのを我慢しているような表情は、昔からよく知るハルの顔。そうだ、これは、よく知っている、ずっと昔から一緒に育った大切なハル。 「でも今はもう大丈夫。本当に暁ちゃんがいなくなっちゃったのは想定外でまだ全然受け入れられてないけど、でも、奏を支えるくらいの力はついてるから」  小さくて泣き虫だったハルが、わたしを支えると言ってくれている。 「暁ちゃんのいなくなった場所を代わりに全部埋めてあげられるとは思ってないよ。でも、その穴に奏が落っこちちゃわないように支えるくらいは、できると思うから。っていうか、するから」  なんのために。  どうして。  幼馴染としての、義務感?  暁に直々に頼まれたから? 「だから、いらない、って、言わないで」 「でも……」 「お願い」  遠く離れた土地から、何かあったら話聞くよ、と言ってくれているわけではない。一緒に暮らして、生活を共にして、その上でわたしのことを支えようとしてくれているのだ。そんな大変なことを、わかったありがとう、なんて素直に受け入れられるほど呑気な自覚はない。ないのだけど。  暁がいなくなった時、誰かに依存して生きていくのは怖いことだということに気づいた。幸い、わたしはそこまで暁に依存してはいなかったけど、もし、あの人がいなくなったら生きていけない、というほどだったら、今こうして笑って生活はできていなかったと思う。  だから、これからもそういう存在の人を作るのは怖いと思っている。思っているけど、こうして支えてくれるのだと言ってもらえて、わたしは本当はものすごくホッとしている。  怖い。  けど、嬉しい。  でも、やっぱり怖い。  自分の中でもこの状況をどう受け入れればいいのか、本当に受け入れてもいいのか、まだ全然判断がつかない。幼馴染というだけの関係で、そんなところまで甘えていいのかもわからない。  そういえば、ハルにパートナーがいるかどうかもまだ確認していない。今いないとしても、もしこれからそういう人ができたら、きっとわたしはここを出ていかないといけなくなる。そうなった時のことを考えたら、余計にここで全てを受け入れて甘えるのもまずいと思ってしまう。 「あの、さ。ハルは、その……いわゆる、ご、ご結婚の予定などは……」  しまった。混乱して、話が飛びすぎた。 「あ、ち、違うね、間違ったね、あの、ぱ、パートナーとか、そういうのは」  焦りすぎてしどろもどろになったわたしを見て、ハルは柔らかく笑った。 「何それぇ、あはは」  子どもの頃と変わらないな、と思うことが多いのに、時々こうして、見たことがないような大人っぽい表情を浮かべる。そのギャップに、不本意だけど惑わされる。 「いや、でも、大事なことだし」  わずかに心拍が上がったような気がしたけど、そのことに気づかないふりをしたくて、慌てて言葉を連ねる。  なに焦ってんの、わたし。 「パートナーが他にいたら奏を同居に誘ったりしないよ」  イエス、ノー的な単純な回答をもらえなかったことで、頭で言葉を整理して理解しなければいけない事態になる。  パートナーがいたら同居しない。  いたらしない。  それなら、同居するからパートナーはいない、ということで。 「それに私、日本では結婚できないし」  ぐるぐるぐるぐると同じ言葉を頭の中で繰り返していたら、ハルの次の言葉を受け取るのに少し手間取った。  できない?  なぜ?  もしかして住民票がイギリスにあるから、とか?  あれ、住民票と戸籍って、何が違うんだっけ。海外に移住したら戸籍って、日本国籍ってどういう扱いになるんだっけ。  ああもう、混乱する。 「私、男の人を好きにはならないから」  戸籍は日本人だという籍で、住民票はそこに住んでいるという証明で、だから、日本人だけどイタリアに移住したハルの場合は…… 「……え?」 「だからぁ、私、男の人とは結婚しないの。レズビアンだから」  身体の中を流れる血液の温度が一瞬で1度くらい上がった気がして、血圧もきっと急上昇した。  あのトゲトゲの種がざわざわと(うごめ)いて、胸の中で右往左往している。 「ごめん、今まで言えなくて」  なんと言った?  結婚しない?  どうして? 「気持ち悪い?」  落ち着け。  冷静になって、言葉を辿れ。  ハルは男の人と結婚しない。  ハルは、レズビアンだから。  それで、わたしに、気持ち悪いかどうかと訊ねている。  わたしはなんと答えたい?  どういう流れにするのがいい?  とにかく、落ち着け。 「同居決めさせてから言うの、卑怯だったよね、ごめん」  しまった。  わたしが何も答えないでいるから、ハルがどんどん話を流してしまっている。答えなきゃ。何か。ハルにしんどい思いをさせているのはわかっている。だから早く答えたい。でも、言葉が出てこない。 「やっぱり引っ越した当日に言うとか、ズルすぎたね」  違う、違う。ズルいのはわたし。わたしなのに。 「ごめん。本当に。もし無理だったら、これからどこか住むとこ探して、でも、決まるまではここにいて」  無理?  もし無理だったら?  わたしが無理だと言えば、ハルとの同居はなくなるの?  それは、嫌だ。  ……嫌?  ハルとの同居がなくなるのが嫌?  どうして? 「さぁ、もう早くご飯食べに行こうよ。あ、それともデリバリー? どうしよっか」  どうしよう。どうしたら。わたしはどうしたい?  本音と建前と理想と現実といろいろな思考が溢れ返って、頭の中が真っ白になる。 「ベッドとお風呂の準備してからご飯にしたいよねぇ」  ハルが一生懸命気を遣って、場の空気を元に戻そうと頑張っている。4つも年下のハルにこんなにしんどい気遣いをさせて、わたしはいったい何をやってる?  何か言え。言葉を、自分の思いを。  でも、胸が詰まって。  お馴染みの罪悪感と、不思議な安堵感と、先が見えない不安と、もし状況が悪化したらという恐怖感と。  わたしが黙っていることで、ハルはきっとカミングアウトを後悔している。その後悔が、カムをするタイミングをミスったと思い込んで同居を決めたことまで後悔するのか。  ハルを苦しめたくないのに。  ハルを、受け入れたいのに。  わたしほんと、何やってんだ。 「あ! 洗面系発見! ……ってことはここにあれも一緒に入ってるはず」  ジングル、入れろ。早く。強制リセットだよ、こんなの。 「ほらあった、洗剤系と歯磨き系も発見。あったよ」  引き返せなくなる。早くしないと。 「……奏?」  喉の奥に大きなビー玉が詰まっているみたいに苦しくて、声が出せない。無理やり飲み込もうとすると、もっと苦しくて涙が出そう。 「…………やっぱり、無理だよね。ごめん」  苦しいけど、ハルがこれ以上傷つく方が嫌だ。  涙なんて出てもいい。ハルを守れるなら。 「……どうする? 荷解(にほど)き、一旦中止する?」  そうだ。  わたし、おねえちゃんじゃん。ハルを守るって決めた。  まだ4歳で、自分のことすら全然ひとりでできない赤ちゃんだったのに、その自分よりはるかに小さい産まれたてのハルを見て、わたしが守るって決めた。一生守るって、幼い心に決めた。暁とふたりで、ハルを守ろうね、と約束したのだ。 「部屋探し、するなら……手伝おっか」 「……いや、あの、さ、がさない。探さなくていい」  どうすればいいかなんて、そんな答えまだ何ひとつわからない。でも、とりあえず目の前にある問題をひとつずつ片付けていくしかない。 「……わかった」 「ごめん」 「奏が謝ることないじゃん。私が勝手に、その……騙したみたいにしちゃったから」  思ったことを思うようには伝えられていない。  違う。違うのに。 「ごめんなさい」  言葉を重ねれば重ねるだけ、本当に伝えたいことからはどんどん遠ざかっていっているような気がしてしまう。どうしたらいいの、これ。 「ハルこそ謝る必要ないでしょ。セクシュアリティが同居しない理由になんてならないし」  無理やり言葉を吐き出したら、喉の奥がグゥ、と鳴って、その苦しさがそのまま涙になった。  どうしてそんな他人事みたいな言い方を。  わたし、本当にバカだ。バカバカだ。  ハルがレズビアンだからと言って、同居を断りたい理由にはならない。ハルがストレートだろうがレズビアンだろうが、もっと言えばノンバイナリーやトランスジェンダーだったとしても、わたしにとってハルはハルで、一緒に暮らせない理由にはならない。  いや、本当にそうだろうか。  わたしにとって、ハルは幼馴染で、今も大事な、大事な……  何、なんだろう。  わたしにとってハルは一体、何?  それに、ハルにとって、わたしは?  マズい。どうしよう。  明らかに視界が歪んで、その涙をハルに見られたくなくて慌ててハルに背を向けた。  ヤバ……。バレたかな。 「疲れたからさ、デリバリーにしない?」  声も震えそう。(しゃべ)りのプロなのに。かっこ悪い。 「……そうだね。うん、そうしよう」 「じゃあこの近所のお店探してみよっか……えっと、スマホ……」  床に置いてあるバッグを覗き込むふりをして、涙を拭う。よかった。溢れる前に拭えた。  泣きたいのはきっとハルの方だ。  結婚の話なんて、パートナーの話なんて、振らなきゃよかった。  何も言わないままでいられれば、お互いの重たい事情なんて知らずにうまくやっていけたかな、と思ってから、それでは今までと何も変わらないのに、と思い直す。  知らないで、形だけ、外面だけで取り繕ってみても、それは自分たちにとっては煮えきらない、何かが足りなかったり何かが中途半端だったり、とにかくスッキリしない日々を送ることになる。今までがそうだったみたいに。  わたしは、暁との結婚生活をそういう意味で後悔している。結婚したことから間違いだったと思っている。  だから、同じミスを繰り返したくない。そう思うのに、結局同じようなことをしそうになっている。  考えなきゃ。何か、方法を。  結局、ネットで探した和食系ファミレスの宅配をデリバリーすることにした。疲れているからと軽めの単品を数品頼んで、あと、形だけでも引っ越し祝いにと和食に合う白ワインのボトルを1本頼んだ。  料理が届くまでの間、寝具や部屋着を探して、ハルに手伝ってもらいながらベッドメイキングを済ませた。  届いた食事を普通におしゃべりしながら食べて、どうってことない話題で笑って、ワインで乾杯をした。  ハルのセクシュアリティについては、どちらも触れなかった。セクシュアルマイノリティであることをこの家のタブーにはしたくないから、話題が出たらちゃんと向き合うつもりではいた。でも、ハルはそのことを何も言わなかった。このまま触れてはいけない話題になったら嫌だな、と思う。でも、自分から口にできるほど心の準備はできていない。  ゆっくり食事をして、ワインもふたりで1本空けて、お腹も気持ちもちょうどよく満たされた頃、ハルが先にシャワーを浴びると言って席を立った。  それならわたしがここ片付けとくよ、と申し出て、初めてのキッチンで食後の片付けをした。  ハルがシャワーから出る頃には片付けも終わって、ちょうどいいタイミングで入れ替わりでわたしもシャワーを浴びた。これから日課になっていくはずのひとつひとつがまだ慣れなくて、旅行にでも来たような感じがする。 「疲れたね。でも明日もあるからしっかり寝ないと」 「そうだね。わたしここで寝るの初めてだから、ちょっと緊張する」  意図して心がけたわけでもないのにごく普通の日常会話になったのが、なぜか不自然で違和感がある。でも、他にどうしようもない。 「えー寂しかったら一緒に寝る? ……っと、ごめん、ダメだったね、こういう話題は」 「え?」 「シャレにならん、ってやつだよね。ごめん」 「あ……」  気の利いたことひとつも言えなくて、またハルに心細い思いをさせている。 「さ、あとはもう明日やろう」 「うん」  ダメだな、全然。どうしていいかわからない。  どこが年上、どこがおねえちゃんなんだか。 「あれ、そういえば暁の荷物は? わたしの部屋になかったけど」  寝る支度を終えて1階の消灯を済ませ、ふたりで2階へ上がった時、不意に思い出したことを訊ねてみた。  自室のドアの前で立ち止まったハルは、後ろに立っているわたしの方を振り返って、すぐ隣の部屋のドアを指差した。 「暁ちゃんのものは、ここに全部入れたよ」  ハルの部屋の隣、奥にあるわたしの部屋の手前の、用途を聞かされていなかった部屋。 「え、そこ、使わないって言ってなかった?」 「うん、私と奏は使わない」 「……え?」  改めて体ごとわたしの方へ向き直ったハルが、いつもの穏やかな笑顔でそっと口を開く。 「ここは暁ちゃんの部屋。いつか暁ちゃんが帰ってきたら、自分の部屋なかったら可哀想でしょ。だからここ、暁ちゃんにとっといてあげたの」  まだ暁が亡くなったということを納得できていない、と言っていたのはこういうことだったのか。わたしと同じで、何かの手違いでまだどこかで生きているのかも、という一縷(いちる)の望みを捨てきれないでいるのかもしれない。 「……ありがと」  どうしよう。涙が出そう。 「ちゃんと荷解きして、いつでも使えるようにしといてあげようね」 「うん」  心の中に積もっていく感情を、うまく言葉にして吐き出せない。  感謝、敬意、嬉しさ、申し訳なさ、後ろめたさ、それからこれは、得体の知れない、おそらく、愛しさ、のようなもの。  ハルをとても近くに感じる。10年のブランクがあって、そこでとても遠くに離れていたのに、今はすごく近くて、それが良いことなのか悪いことなのかはまだわからないけど、とにかく身近に感じる。  ただ、だからこそ、うまく言葉を選べない。  わたしたちの何もかもが曖昧で、これからもどうなっていくのかわからない。 「じゃあ、ゆっくり休んでね。おやすみ」 「うん。おやすみ」  また、ハルの能動に甘えた。自分からは何もできなかった。  部屋に入っていくハルの姿を見ることもできなくて、わたしは逃げるようにして自室へ入った。  本当に旅行に来たみたいだな、と思う。  見慣れない部屋、慣れないベッド、知らない天井。  でもここが、これからわたしの部屋になる。この家がわたしの、わたしとハルの住処になる。  楽しいと感じたはずだったのに。荷物を運び込みながらはしゃぐハルを見て、自分も楽しいと思った。それなのに、今は楽しい気持ちより、それ以外のネガティブな気持ちの方が圧倒的に優位だ。  ハルはとても大事なことをちゃんとカミングアウトしてくれた。あんな大事な話をしてくれたのに、わたし、ちゃんと受け答えできていた?  もっとなにか、言うべきことがあったのではないか。  自分のことについても、伝えるべきことがあったのではないか。  どうする?  どうしたい?  どうするべき?  ハル、ごめん。頼りなくてごめん。    寝付けない。  体の収まりどころを見つけられない猫みたいに、何度も寝返りを打った。  薄闇に目が慣れて、まだ全く片付いていない部屋の中が見える。段ボール箱だらけで、仕事をしながら少しずつ片付けてもいつ完了するのかと不安になる。  そういえば、あの段ボール箱。ハルがマンションで荷造りを手伝ってくれた時、暁の服を詰めていて、何かを見つけて、隠した。  この家に来たらハルの方から言い出してくれるかと期待をした。でも、今日は何もなかった。  知りたい。ハルが隠したかったもの。まだあの箱の中にあれば、それを探し出して確認したい。  枕元に置いたスマホの時計を見ると、さっきハルと別れてから1時間近く経っていた。一度気になってしまったわたしはどうしてもその願望を打ち消すことができず、行動に移すことにした。  ベッドから出て、そっと部屋のドアを開ける。ハルの部屋のドアの(ふち)からは光は漏れていない。もう寝たのだろう。  音を立てないようにして、そっと廊下の床板を踏む。  暁の部屋のドアノブを慎重に回したら小さな音がカチンとしたけど、このくらいならハルに聞こえずに済むか。  部屋の電気のスイッチも可能な限り慎重に、そっとオンにする。  わたしのよりだいぶ少ない段ボール箱の山の中から、あの時ハルが何かを隠した箱を探す。実はあの時、ハルが見ていない隙に箱に目印を付けた。側面の引越し業者のロゴのところに爪で小さく傷を付けておいたのだ。だから簡単にその箱は見つかった。  段ボール箱の封をしている紙テープをそっと剥がす。その音が思った以上に大きくて、焦った。そっと、慎重に、静かに。ハルを起こさないように。  ようやく開封できてホッとしながら、その蓋を開く。  中身は、暁の衣類。  職業柄、服装の規定はなかった。暁はスーツはほとんど着ていなくて、いわゆるビジネスカジュアル系のさっぱりとしたものが多かった。  ワイシャツやブラウスが多くて、Tシャツやポロシャツはあまりない。パンツは細身ストレートのチノが多かったイメージだ。  一度、ネクタイをプレゼントしたことがある。妻が夫にあげる誕生日プレゼントの定番はネクタイ、というお決まりの特集を雑誌だかテレビだかで見たことがあって、『普通の夫婦』を演出したくてネクタイをあげた。でも、それを着けていたところは一度も見なかった。  そもそもそのネクタイに合うようなスーツを持っていなかったので、後から考えればアホだったな、と思うのだけど、その時はなぜかネクタイをプレゼントしなきゃいけないような気がしていた。  あまり物を増やさないようにしていた暁が、最後の単身赴任に持っている服の半分くらいを持って行ってしまったので、残された服は本当に数えるほど。段ボール箱も小さめのものが3つ程度。  目的の物を探しつつ、懐かしいものが出てくるとつい、意識がそちらへ向いてしまう。一緒に買った部屋着、わたしが買ったけど大きすぎて合わなかったのであげた服、もうボロボロなのにどうしても捨てられないととってあった思い入れのある服。そんなの、わたしも捨てられないし。  しまった。こんな感傷に浸っている場合ではない。探さなきゃ。 「あ……」  わたしがプレゼントしたネクタイ。あった。たぶん、未使用。全然きれいなままで開封済みの箱にきちんとしまってある。  なんでこんなものプレゼントしたんだろう。全然暁に似合っていないのに。  暁はどちらかというと、ジェンダーレスっぽい服装が多かった。体型もそれほどゴツくなかったから、中性的とも取れるファッションは穏やかな暁にとても似合っていた。  今ならもっと似合うプレゼントができるのに。そう思って、そのチャンスはもう来ないのだという現実に一気に引き戻された。  そうだった。もう、暁には会えないのだった。  箱から引っ張り出したネクタイを、いまいましいような気持ちで見つめる。こんなもの、大事にとっておかなくていいのに。でも暁、優しいから。きっと捨てたらわたしが悲しむと思って大事にしまっておいてくれた。  暁。もう会えないのかな。  会いたいな。  ねぇ、何を持ってたの?  何をしまっておいたの?  ハルが隠しちゃったんだよ。わたしに見せたくないものなのかな。  浮気の証拠?  秘密の告白?  それとも、愛する妻への秘密のプレゼント?  ……それはないか。ないな。愛する妻、なんて、そんなの。  本当は何も見つからないでほしい。ハルがなんでもないと言ったの、あれを信じてもう探すのをやめたい。何も見つけたくない。  でも、わたしはそれを探さなきゃいけないような気がしている。どうしても。ここで、この家で、これからハルと一緒に暮らしていくために。  何も出ないで欲しいと思う気持ちを押し殺して、また、箱の服の中に手を突っ込む。隙間をまんべんなく探って、何かが挟まっていないか確かめる。  待てよ、と思う。服に何かが挟まっているとか、そもそもそうじゃない場合だってある。ハルが隠したかったものが服そのものだという可能性だってある。もしそうならもうそれが何なのかを見極めるのは無理だ。  もしかして無駄なことをしているのかも。やっぱりやめときゃよかったかな、とか。でも、ひとまず全部探してみて、それで何も出なければそこで諦めればいいよな、とか。  そんな悶々とした気持ちで腕を動かしていた。 「奏。何してるの」  少し酔っていたし、眠かったし、疲れていたし。だから、目の前の箱の中を意識するのが精一杯で。ハルの部屋のドアが開いたのも、廊下を歩く足音も、暁の部屋に人が入ってきた気配も、何も気づかなかった。  びっくりして振り向いて、何か答えるべきだったのかもしれないけど、何も用意できていなかったわたしは黙ることしかできなかった。  まあとにかく、最悪の展開。
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