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13 仮面夫婦
何をしているのか、なんて。
そんなこと、見ればわかるでしょ、と言いたいけど、ハルが聞きたいのはそういうことではないのだろうな。
真夜中に片付けとか、そんなの通用しないとわかっている。
「あ、の……」
失敗した。こんな時間にやるんじゃなかった。
そういえばわたし、ハルに直接訊いてみようとしていたのに。何を見つけたのかハルに確認するつもりだった。それなのにどうして自分で探してみようだなんて思ったのか。
「奏が探してるのは、これ?」
ハルが、手に持っているものを頭の高さまで掲げて軽くフラフラと振った。独特の、か細いけどクリアな乾いたノイズ。その紙の音が聞き覚えのあるもので、反射的にそれは違うと思う。
だってあの時、わたしはハルの手から取り返して、泣いたハルが落ち着いてからそっと自分の貴重品箱にしまったのだから。それをハルが持っているわけがない。だから、それじゃない。
「違う、けど」
それならハルは今、何を持っているの?
もしかして、あの時お尻で踏んでしまったことを気にして新しいものを役所でもらってきてくれた?
そんなわけないよな、と思う。だって、暁がいなくなってしまった今は、もうあんなもの必要ないから。それに、わたしは暁の部屋の暁の荷物の中を漁っていたのだ。あの時ハルがこの箱に隠したものをわたしが探していたことは、もうバレバレだろう。
ではやっぱり、ハルが持っているものは暁のもの?
それが本当にそうなら、暁はどうしてそんなものを持っていたの?
「これでしょ。マンションの暁ちゃんの部屋にあったやつだよ」
やっぱりそうなのか。
どうして。なんで。
知りたくない。
そんなものが暁の部屋にあった理由なんて、怖くて知りたくない。何か言い訳をして適当にごまかしてこのまま部屋に戻って寝てしまいたい。
「少し、話さない?」
「話すって、何を」
「ん。暁ちゃんのこと」
この離婚届のこと、とは言わなかった。
ズルい。そんなふうに言われたら、断れない。
暁のこと。
それは、わたしも話したい。ハルと、暁の話をしたいとずっと思っていた。ずっと、何年も。
「うん、わかった。話そ」
暁の話をすればたぶん、離婚届のことまで話が及ぶ。ハルが今持っているものにも、わたしがしまいこんでいるあれにも、どちらにも。でももう、そこから逃げることは難しい。
「私の部屋、来て。ソファあるから座って話せるから」
「うん」
今から何が始まるのか、どんな話になるのか、予想することすら怖い。
それでもわたしは覚悟を決めて、ハルに続いて暁の部屋を出た。
引っ越し作業中にドアが開け放たれていたので、その時にハルの部屋の中はなんとなく見ていた。奥まったところまでは見えなかったけど、全体の雰囲気はなんとなくわかっていた。
それでも中に入ると廊下から見ていたのとは違う感じがして、新鮮でドキドキした。
部屋の奥にある壁一面のクローゼットの扉が開いていて、片付け途中らしいカメラ機材が大量に積まれている。10日ほど前にこの家の中を案内してもらった時、機材を湿気やホコリから守る防湿庫という機材専用の収納を買ったのだと嬉しそうに話していた。おそらくそれだと思われる背の高いガラス張りの棚がクローゼットの中に堂々と鎮座していて、その隣にもスチールラックが二つ。本来衣類のハンガーを掛けるために付いているハンガーパイプには、大きなクリップや機材バッグ、照明機材などがぶら下がっている。
そのクローゼットに入れてもらえなかった衣類はというと、ベッド脇に申し訳程度に置かれた小さなハンガーラックにほんの数着掛けてあった。
ハルらしいな、と思う。
昔から、あまり服や小物に興味を示さなかった。外側を飾ることより、経験を積んだり疑問に思ったことを徹底的に調べたりすることが好きそうだった。髪もいつもさっぱり短くして、服もTシャツとジーンズみたいなシンプルなものばかり。自分がしたい活動の邪魔になるようなものはいらん、とでも言いたそうな潔い簡素さだった。それがまた嫌味なくハマるのが、本当にハルらしい。そういうところも全然変わっていない。
「ごめん、まだ色々散らかってるんだけど適当に……ソファとか」
促されてソファに座ると、ハルもすぐ隣のベッドにそっと座った。
微妙に気まずい沈黙が続いて、ハルが手にしていたあの用紙が立てたカサカサの音が部屋中に響いた気がした。
「暁ちゃんの話がしたいんだけど、奏は、この紙を見てからがいい? それとも、話が先がいい?」
いきなり直球ど真ん中で、軽く面食らう。いや、そうだった。ハルは回りくどいことはしないタイプだった。
「ハルは、暁の、どんな話がしたいの?」
「……色々聞きたいよ。暁ちゃんの、っていうか、暁ちゃんと奏の、ふたりの話」
「暁から色々聞いてたんじゃないの?」
「そんなにたくさんは聞いてないよ。たまーに、ちょっとだけだったし」
6年間の結婚生活。それなりにいろいろあった。わたしたちの話、なんて、どこからどうやって話せばいいかわからない。
「……じゃあ、ハルが訊きたいことに答えていくよ」
結局またハルの能動に甘えるしかなくて、いいかげん、年上のプライドとか言っていられなくなりそう。
ハルは手にしていた離婚届をそっとソファ前の小さなローテーブルに置くと、改めて深くベッドに座りなおして、わたしの方へしっかりと顔を向けた。
「奏は、暁ちゃんと結婚して幸せだった?」
想像を軽く超えてきたど直球っぷりに、目眩を起こしそうになる。
いや、回りくどくないことは存じていたけれども。
あまりの正直さに、びっくりを通り越して心配になってしまう。
「えーと、それは……当然、幸せだったよ」
本心。の、つもり。だって本当に、暁との結婚が不幸だと感じたことはなかった。
「どんなふうに?」
「どんな、って、まぁ……普通に。普通に楽しかったし、普通に幸せだった」
「そっか。暁ちゃんはどうだったんだろうね」
不幸だと感じたことはなかったけど、だからといってものすごく幸せだと感じたことも、もしかしたらなかったか。
「暁だって、普通に、幸せだったと思うけど」
しまった。言葉がほんのわずかに詰まった。気づかれたかな。
「ふーん……」
なんとなく訝しげにわたしを見ていたハルが、ひとつ小さくため息をついて、ローテーブルに手をのばした。
「やっぱりこれ、見て」
ああ、来たか、と思う。回避できなかった。
そんなもの、既婚者の暁が持っていたのなら、理由はただひとつ。
前傾姿勢になって用紙を手にしたハルが、わたしの目の前にそれを差し出す。突き返すわけにもいかなくて、わたしは渋々それを受け取った。
たった数グラムの薄っぺらい紙切れ一枚に、どれだけの力があるのだろう。
「見ないの?」
「え? あー……」
離婚届を受け取ったまま何もできず固まるわたしに、ハルは焦れたように声をかけてきた。
わかっている。わかっているけど。
引き伸ばしても、気まずい時間がただ延長するだけだ。わたしは覚悟を決めて丁寧に折り畳んである用紙を慎重に開いた。
思っていた通り。
『夫』の名前欄に、暁の字で記入があった。
やっぱりね、という気持ちと、なんで、という気持ちと。
でも、これを書いた本人に本音を訊くことはもうできない。
「結婚すると、それぞれ、みんな、これ用意して持ってるものなの?」
本気の質問ではない。わずかに漂う残念感と呆れ。
「そういう人もいるだろうし、そうじゃない人もいるだろうし、人による、かなぁ」
いや、普通は持っていないよな、と心の中で自ら突っ込む。持ってる人の方が圧倒的に少ないはずだ、こんなもの。
「ふーん、そうなんだ……」
「いや、うん。わかんないけど」
「暁ちゃんも奏も、幸せだったのに、なんでこんなもの持ってたのかなぁ」
本心か、口先だけか、もうよくわからない。
ハル、何を知りたいの。
「幸せだったら必要ないものだよねぇ」
何に、気づいてしまったの。
「なんでかなぁ……」
尋問のようだった問いかけがだんだん勢いを失って、最後は独り言のように弱って消えかける。語尾が震えて、ハルが泣き出してしまいそうに見えた。
慌てて、ソファから立ち上がってハルの座っているベッドの前まで移動する。
ハルは昔から、泣き出す時に顔をクシャッと歪めたりしない。ただ、くりくりの目を見開いたまま、ボロッと大きな涙を黙って落とす。そして、ハルが泣いたことに周囲が反応すると初めてそこで安心したようにウェーンと声を上げる。
この前わたしのマンションで泣いた時もそうだった。その泣き方が昔と全然変わっていなくて、可愛くてついハグしてしまったのだっけ。
今日も同じパターンかな、と思って待っていたら、座っているハルが急にわたしの方を見上げてきた。目に涙がうっすらと溜まっているけど流れ落ちるほどではない。なんだ、よかった、と思っていたら突然腕を掴まれて引っ張られた。
引かれた勢いでハルの隣に腰を下ろすと、そのまま勢いよくハグされた。
「奏はさ、いっつもそうやって片意地張ってさ、無理してさ、一番お姉ちゃんなんだから、って強がってばっかり」
ハルの腕の力が強すぎて、少し苦しい。
「本当は心細かったり寂しかったりしても絶対口に出さないんだもん」
突然こんなふうに心配されて、それは自分でも絶対に見せないようにしていた部分だったし、どうしてこんなにバレているのかと絶望感すら浮かぶ。
「いつも私のこと守ってくれて、いじめっ子を追い払う時に、手が、ね、私の手をギュッて握ってくれてる手が、ずーっと震えてたの、知ってたよ」
「そんな、こと……」
「それでも離さないでいてくれてたの、嬉しかったんだよ」
ハルの腕に、さらに力が入る。
胸が圧迫されて、苦しくて声が漏れそう。
「いつか大人になったら絶対に私が奏を守ってあげるんだって思ってた」
「は……ハル、ちょっ……と……」
「私、もう大人になったよ」
そんなこと、もう知っている。
「奏のこと、守れるよ」
そんなことは、知らなかった。
「だから、本当のこと、話して」
本当のこと。
話したら、もう今の関係を続けられなくなるかもしれない。本当のことを知られたら、軽蔑されて、見放されるかもしれない。
でも、さっき大事なことを教えてくれたハルにこれ以上隠し事をし続けるのも心苦しい。
「本当のこと、知りたい」
ハルの胸から直接響く穏やかで優しい声が心地いい。
「ね、お願い」
史上最悪の、最甘のおねだり。
卑怯だ。こんなの、断れるわけない。
「本当の、何が知りたいの?」
「……奏はどうして離婚届持ってたの?」
ハルのハグは、強い。
もうずっと、何十年も胸の奥にしまって鍵までかけて隠してきたことを、簡単に外に放り出してしまいそうになっている。このハグのせいで。
もうどう頑張っても敵う気がしなくなったわたしは、もしかしたら全てを失うかもしれない可能性をわかった上で、覚悟を決めて、そっとハルの腕に触れてハグを解いた。
心配そうにわたしの顔を覗き込むハルを、勇気を出して見つめ返す。そして、小さく息を吐いてから、改めて言葉を吐けるだけの息を吸い込んだ。
暁。
わたし、もう、隠していられない。
ごめん。
「……わたしは、本当は、結婚なんてしちゃいけなかったんだよ」
ようやく吐き出した言葉を、ハルはすごく時間をかけて理解しようとしてくれているようだった。
長い沈黙。
心臓が痛い。
「どういう意味?」
「本当に聞きたい? こんな話、聞く?」
「聞く。ちゃんと聞きたい」
「長くなると思うし、その……重たい、よ?」
「いいよ。大丈夫」
話す方もそうだけど、聞く方もきっと、それなりに覚悟がいる。
ハルはそれが準備できたのか、そっとわたしの手を握ってくれた。
「あのね。わたしと暁ね、一般的な夫婦とはちょっと違ってたの」
言葉を慎重に選んで、できるだけ簡潔に、誤解が生まれないように話す。
うまく伝わることを祈って。
「どういうふうに?」
「……一度もね、セックスしてないの」
誰にも話したことのない秘密。
とうとう話してしまった。
「え、一度も!?」
さすがにびっくりした様子で、大げさに声を上げた。
その言い方がなんだか少し芝居がかっていて、限界まで張り詰めていた緊張感がほんの少し緩んだ気がした。
「うん。一度も。あ、正確には、未遂が一度だけ。それだけ」
「そんな、こと……」
ハルの反応と、一番の山場の告白を済ませたことで、会話に少し余裕が生まれた。普段の会話に近い空気が生まれてホッとした。
「結婚する前も、手を繋いだりハグしたりはしても、それ以上は、キスとかセックスはしなくて」
「…………そっか」
「結婚して、なんとなくお互い、もしかしてそういうことした方がいいのかな、とか義務感だけはあって、それとなくお互い必死にそういう流れに持ってって、チャレンジしてみたことはあったんだけど」
話しながら、思っていたより自分の中で過去の思い出話みたいな感覚になっていることに気づく。想像していたよりは苦しくない。本当に、過去のことになったのだ。
「でもね、暁もなんか手とか震えてるし、わたしもなんか全然、そういう、身体の準備とか、ダメで」
こんな生々しい話をしても大丈夫なのかと、正直、不安になる。でもハルは、必死に耳を傾けてくれている。
「結局ね、ほとんど何もしないままふたりとも諦めちゃったの」
「そっか……」
「だから暁の親から子ども子どもってどんなに言われても、無理だったんだよね」
言葉にしてみて、自分でも気づかないようにして閉じ込めていた感情が、ぽろぽろと露出して、溢れ落ちる。でも、いちいちそれに引っかかっていたら先に進めない。
「暁は、やっぱりきょうだいみたいな感覚があるからどうしても性的な対象には思えないって言ってて。わたしもまぁそんな感じかな、ってその場では言っといたんだけど」
死ぬ気で、とか、死ぬ覚悟で、とか、そういう感覚になったことは今まで一度もなかったし、普通に生活していたらそんな感情は持たないものなのかもしれない。
でも今、わたしはまさにそんな気持ちで。
そう。死んじゃうかもしれない、という覚悟で、言葉を探している。
「本当は、ね……」
自分でも現実を見ないようにしていた。
目を、逸らし続けていた。
自分の中でなかったことにしておけば、社会生活で何も困ることはない。普通に、一般的な生活を送れる。だから、目をずっと背けてきた。
でももう限界。無理だ。
疲れた。
ハルと一緒に暮らす中で、これ以上嘘をつき続けるのはしんどい。ハルがくれる穏やかで和やかな時間を、わたしの嘘で汚していくのは耐えられない。
自分で認めたらどうなるか、これから何が変わるのか、そんなことは今のわたしには想像もつかない。でも、もうその事実はわたしの目の前にはっきりと居座っていて、どんなに目を閉じても消えてくれない。
暁。
ごめん。お願い、聞いてて。
そして、どうか許してください。
「わたし、男の人、ダメなんだよね」
生まれて初めて口にした、本当のこと。
ずっと隠してきてこれからも一生言わないつもりだった事実。
暁にも言っていなかったのに。
「ハルとおんなじ。わたしも、男の人を好きになったり結婚したいと思ったりできないの」
怖くてハルの反応を確認できない。どんな顔をしているのか見ることができない。
ハルはさっき、自分はレズビアンだから日本で結婚はできない、と言った。
同じセクシュアリティのわたしは、その事実を隠して男性と結婚していた。
そのことが、わたしとハルの間に絶対に壊せない剛鉄製の柵を打ち建てているみたいで、後ろめたさに押し潰されそうになる。
軽蔑されるかも。
呆れられるかも。
何も言ってくれないのは、やっぱり、ドン引き、とか、そういうのだろうか。
沈黙が続くのが怖くて、次の話題を必死に探す。
大丈夫。喋りのプロ。放送事故回避のために毎日鍛錬してるじゃん。無音回避のために、何か話題を。
「ほら、ウチの親あんな感じでしょ。普通に異性と恋愛して異性と結婚して子ども産んで、っていうのがいちばんの幸せだと信じきってる人たちだからさ」
ピンチを切り抜けるのは得意。何かしら話題を探して、たとえ口から出まかせだとしても、どうにかして切り抜ける。大丈夫。
「特に母がね、しつこくて。おばあちゃんも自分も26で結婚したんだからあんたもそれまでには、ってもう呪いのように言われ続けて」
ハルの顔を見れない。どんな顔をしてわたしの話を聞いているのだろう。でも、そっと握ってくれている手は温かくて、優しくて、もしかしたらほんの僅かでも受け入れてもらえる部分があるのかもしれないと期待をしてしまう。
「暁にね、そういう話をしたことがあって、そしたら、じゃあ結婚しようよ、って言われて」
「暁ちゃんから?」
「うん、そう。付き合ってたわけでもないからびっくりしたんだけどね」
長らく続いた学生というモラトリアムからはじき出されて、社会の一員となって自分の人生を組み立てていかなければいけなくなったあの頃、わたしは自分が一般大多数の人とは少し違うのかもしれないことに気づいて、地味な混乱のさなかにいた。逃げ出したかったわけではないけど、真っ向から戦える気もしなかった。
「よくよく話聞いたら、暁も親から早く結婚しろってしつこく言われてたみたいでね、なんかもう成人してから何度もお見合いの話とか持ってこられてたんだって」
もしかしたらこれからたったひとりで生きていかなければいけないのかも、という不安に包まれていて、未来は決して明るくはなかった。
「でもよく知らない人と絶対結婚したくないから、奏なら、って言うから」
だから、暁からの申し出は本当にちょうどよくて、絶対的消去法でわたしは結婚することを選んだのだ。
「わたし今まで誰にも、家族にも友達にも誰にもカミングアウトしたことないから、恋愛とか結婚とか一生しないで黙ってそーっと生きていこうと思ってたの」
「そんな……」
「でもね、暁が、結婚しようって……言ってくれたから」
暁の顔が浮かぶ。
穏やかで優しい暁。
「暁ならね、なんか、あんまり雄っぽい感じしないし、もうほとんど生まれた時から一緒だし、結婚しても大丈夫かなって思っちゃったんだよね」
当時は暁からの提案を、名案だと思ってしまった。お互いの利害が一致して、すべてがうまくいくと思ってしまった。どちらの家族へも申し訳が立つと、思ったのだ。
「暁、穏やかだし優しいし、柔らかいじゃん。話し方も、立ち振る舞いも。なんかそういうのが居心地よくて、つい、甘えちゃって」
幼い頃から一緒に過ごした間柄のまま、しばらくは問題なく暮らしていた。そしてそれがずっと続くと思っていたのだけど。
「でもね、結婚してすぐの頃、セックス失敗して、それからはもうチャレンジすることすらなくなっちゃって、3年経って、4年経って、ってなってきて、なんかね、ちょっとやっぱり間違ったかな、って思えてきちゃって」
親たちの期待には応えられたかもしれない。幸せな夫婦を演じることで、親たちの望む幸せな子どもたちを見せてあげられた。
ただ、最大の失敗は、わたしも暁も自分にまで嘘をついていたことだ。
自分たちでも幸せだと、問題がない夫婦だと思い込もうとして、失敗した。
「もしかしてちゃんと男の人と恋愛できる相手となら、暁もちゃんとセックスできたりお父さんになれたりしたのかな、って思ったら申し訳なくなっちゃって、わたしなんかと一緒にいない方がいいのかな、って思って」
その失敗に、わたしたちはいつからか気づいていた。でも、どちらも気づかないふりを続けた。
その歪みはいつしか隠せないほど大きくなっていて、修復など不可能なところまで来てしまった。
その結果が、2枚の離婚届だ。
「ちゃんと好きだったよ。大切だったし、すごく頼りにしてたし、それなりに甘えさせてもらったし。わたしも大事にしてもらってた。でもね、やっぱりそれは、恋愛感情とかではなくて、なんていうか、家族愛みたいな感じだったんだと思う。わたしも、暁も。だからね」
あともう少しで結論にたどり着く。
声が震えそうになって、慌ててひとつ、軽く深呼吸をする。
「暁が次に帰国したら、離婚したいって伝えようと思ってたの」
ようやく、ハルの顔を確認することができた。
「それで、あの時の、離婚届」
ハルは半ば呆然として、無言でわたしを見ていた。何かを考えている様子だけど、それが何なのかは全くわからない。
暁との本当の関係をバラしてしまったことで、もしかしたらこれからのわたしとハルとの関係にも変化が出てきてしまうかもしれない。でも、わたしはそれでも話さなければいけなかったし、覚悟はできている。
ハルが小さくため息をついて、わたしの手をキュッと握り直した。
「暁ちゃんと結婚する前は、誰かと恋愛とかしたことあったの? 私が覚えてる限りでは付き合ってる人いた記憶ないけど」
苦手中の苦手な、恋愛関係の話。ろくな経験がないから話せるようなこともないのだけど。
「んー……わたし、自分が男の人ダメって気づくのすごい遅かったんだよね。二十歳過ぎるまで気づかなくて。漠然と、恋愛感情そのものがない人なのかなって思ってた。でも今になって思えば、高校の時とか同性の先輩にばっかり憧れてたな、って」
恋愛感情がどんなものかどころか、推しとかファンとかそういう感覚もわからなくて、自分には何かが足りないのかと悩んだこともあったっけ。
「だから、ちゃんとまともに恋愛したことはない、かな」
「セックスも?」
ほんの少しの遠慮を纏いつつ、でも相変わらずハルらしくまっすぐに投げかけてくる。本当ならお断りしたいくらいの話題だけど、あまりの直球っぷりについ、ちゃんと答えてあげたくなってしまう。
「それは、んーと、二十歳過ぎて、さすがに周りがカップルだらけになってきて、自分は同性にしか興味ないっぽいんだけどほんとかな、確定かな、って悩んでた時に、まぁちょっと、男の人とお試し的に遊んでみたことはあって」
苦手な恋愛話の中でも最も苦手な、苦痛ですらある、セックスの話。これはもう早くサラッと話して終わらせてしまいたい。
「でもそれで、なんか相手が慣れててどうにかなったっぽいんだけど、自分ではもう確定だな、とか思って」
細かいところまでは覚えていない。それほど自分にとってはどうでもいい行為で、相手がどう思っていたかはわからないけどわたしは楽しくなかった。
「確証が欲しくて何人かと何度かしてみたけどどれも全然良くなかったし、なんなら二度としなくていーわ、って思って」
「そう、なんだ……」
「もう一生誰ともしなくていいや、って思ってた。恋愛もセックスも、ね」
流れに任せて一気に喋ってしまったけど、ちゃんと伝わっただろうか。たいして面白くもないだろうし、ハルは知りたいことが知れたかな。
また、ハルは無言でわたしの方を見ている。でも実は目がちゃんと合っていなくて、やっぱりじっと何かを考えているのか心ここに在らず状態。なかなか動き出す気配がない。
「はい。これが、暁とわたしの話。終わり」
思わず焦れて、少し大きな声を出してしまった。
ハルがびっくりしたようにハッとして、意識がこの場に戻ってきた。何を考えているのか知るのが怖い。
「話してくれてありがと。じゃあ、今度は私が知ってる暁ちゃんの話ね」
そう言って、話す内容を頭の中で整理しているみたいにしばらくの間黙ってから、ゆっくりと言葉を吐き出し始める。
「さっきもちょっと話したけど、私は暁ちゃんとは何度か会ってて、偶然仕事先が近かったりしてたまたま会えたって感じだったんだけど。だいたい1、2年に1回くらいは会ってたかな」
意外な事実にびっくりしたし、どうしてわたしには教えてくれなかったのかと少し嫉妬じみた気持ちもある。
「暁から聞いたことなかったよ」
「言わないでってお願いしてあったから。言ったじゃん、私、一人前になるまで奏に色々知られたくなかったって」
素直で柔軟なハルにしては珍しくその『一人前』ということになぜかやたらとこだわっていて、その意外な頑固さの裏にどんな意図が隠れているのかがまだ見えない。
「それでね、実は、暁ちゃんからちょっとだけ聞いてた。なかなか結婚生活がうまくいかないって」
幼馴染夫婦のそんな困りごとを聞かされたハルがどんな気持ちでいたのだろうかと思うと、なんだか気の毒だ。フォローのしようがないだろうに。
「奏のことは好きだし大事だけど、どうしてもきょうだいみたいで、夫婦とは言えない状態だって」
「それは……そう、だよね、うん。わたしも同じように感じてたところもあるし、きっと暁もそうなんだろうなって思ってた」
「うん。だから、自分では奏を幸せにできないんじゃないか、って、ずっと悩んでるみたいだった」
どうしてそんな夫婦の大事な話を第三者のハルから聞かされているんだろう、と不思議に思う。そんな話はわたしと暁とでしておくべきだったのに。
「それにね、仕事でいろんなとこ飛び回っててずっと奏の隣にいてあげることもできないし、って」
それから、そういえば、と小さくつぶやいてハルが何か思い出したような顔をした。
「暁ちゃん、たぶん奏がビアンだとまでは気づいてなかったと思うけど、でも一度、奏はもしかしたら男嫌いかも知れない、って言ってたことあったかも」
恋人期間を経ずに結婚してそれからも一度もキスもセックスもしなければ、そういう可能性を考えても何も不思議ではない。
でも逆に、なぜかわたしの方は、暁が女性嫌いかも、という思考にはならなかったのだけど。
「まさか離婚届まで用意してるとは思わなかったけど、とにかくずーっと悩んでる感じではあったよ。いつも自信なさそうだった」
結局、わたしの嘘がそうやってジワジワと暁を傷つけていた。暁の自信を削って、削って、たぶん、暁の自己肯定感も下げていた。
やっぱりもう一度会ってちゃんと本当のことを話して謝りたいけど、もう無理だ。無理なのだ。暁。
「そういう話してる流れでね、もし自分に何かあったらハルが奏のこと守ってあげて、って」
傷つけていたわたしのことを、暁はそんなふうに思いやってくれていた。なんで、そんなにバランス悪かったのだ。最悪すぎる。
「私のセクシュアリティは暁ちゃん知ってる。まぁそれは、私が高校生の時にちょっといろいろあって成り行きでバレたんだけど」
そんな大事なこともわたしは暁から聞いてなくて、でもよく考えてみれば暁がアウティングしないようにしていたのなら当然か。やっぱりそこでもわたしだけ知らされていないことがあって、少し寂しい。
いや、そんなこと言える立場ではない。わたしも嘘つきだったのだし。
「でもそれとは関係なく、幼馴染として、親友として、一緒に育った家族として、奏を支えてあげてね、って頼まれてた」
「うん……そっか、うん……」
わたしの手がまたさらに、ギュッと強く握られた。
ハルの思い。それと、ハルを通して伝わる暁の思い。
「私、支えるね。奏のこと。頑張るから。だから頼って。なんでも」
歳下のハルに頼るなんて、そんな。なんでも、とか、そんなの無理だし。だってわたしがずっとハルから頼られていた。昔は。
「暁ちゃんほどは頼りにならないかも知れないけど、でも頑張るから」
暁に頼まれたから、わたしを暁の代わりに守ると言ってくれているの?
「絶対、頑張るから」
どうして、なんでハルがそんなに頑張る必要があるの?
ハルが同じレズビアンだと知って、心臓が飛び出しそうなほど胸が高鳴った。
調査機関によってバラつきがあるけど、日本ではだいたいクラスに1人か2人くらいはセクシュアルマイノリティがいると言われていて、でもその全員がオープンにしているわけではない。カミングアウトしている当事者だけをカウントしたらもっともっと少なくなる。
そんな割合の当事者がこんなに近くにいるなんて、幼馴染同士で同じマイノリティのセクシュアリティだなんて、マンガとか映画の世界みたいで、密かに興奮した。
仲間がいて良かったと、打ち明け話ができる仲間ができたのだと、単純に嬉しかった。
すぐにでも飛びついて、同じだね、と言いたかった。
でもわたしは、おねえさんだから。ハルより4つも年上だから、落ち着いて、冷静に。
「ありがとう。もう助かってるよ、十分」
しまった。
この言い方だと話が終わってしまう。
冷たすぎるよな、さすがに。
なんでわたしはいつもこうなんだろう。体裁を保つことばかり考えて、動揺や興奮はできるだけ見せないように。これでは母と同じじゃないか。
でも、今、これ以上話を膨らませたり進ませたりする気力が残っていない。少し、頭の中を整理したい。時間が欲しい。
「……もう遅いね」
わざとらしかったかな、と思ったけど仕方ない。わざとなのだから。
「そうだね」
「明日もあるし、そろそろ寝ようか」
「……うん、そうだね」
ごめん、ハル。情けないおねえちゃんでごめん。もうちょっと待って。しっかりするから。わたしの方こそ頑張るから。
「これ、どうする?」
今これ以上の展開がないことがもうわかってしまたのか、ハルが諦めたように暁の持っていた離婚届をわたしに見せた。
「……ちょうだい」
「とっとくの?」
「うん。暁が書いた字、あんまり残ってないから」
「そっか」
こんなものが思い出のひとつになってしまうなんて、皮肉なものだな、と思う。こんなもの嬉しくないよ、暁。
でも、本当に暁の直筆の文字は他にあまりないから、持っていたい。
「処分しないでくれてありがとう」
「うん」
そっと渡された用紙を受け取って、両手のひらで挟むようにして持つ。
暁。受け取ったからね。わたしの名前を書けるかわからないけど、でも確かに受け取ったから。これから、よく考えるから。
「また、話そう。時間ある時に、ゆっくり」
話を終わらせる流れを作ったお詫びとして、ちゃんとこれからも話せる機会を作る約束をする。このくらいしかできなくてごめん。ごめんね。
「うん。色々、いっぱい話したい」
「うん」
それから、おやすみ、と声をかけてからそっと部屋を出た。
自分の戻れる部屋がこの家の中にあってよかった。
紘太はよく、夢の中でこれは夢だと気付くことがある、と言っていた。しかも、夢だからと自分の意思で目覚めたい時に目覚めることができるのだと。わたしはそんなことは一度もなくて、全て現実だと疑わず夢の中のおかしな出来事にいつも翻弄されている。
そう。だからこれも、現実なのか夢なのかわからない。
暁がいる。
相変わらず穏やかで、優しく微笑んで、わちゃわちゃと落ち着かないわたしをそっと見守っていてくれて。だからわたしは暁に頼って、甘えて、わがままを言った。
望めば、いつでもハグをしてくれた。
こんなふうに。
優しいお母さんみたい。
ほら、あったかくて、優しくて、心地いい。
いつの間にか暁が女性の身体になっていることに気付く。
なんだ、暁は女の人だったのか。
だからこんなに安心できるんだね。
あはは、変な夢。
でも、すごく心地いい。
ずっとこうしていたい。いつまでも、ずーっと。
目が覚めて、おかしな夢だったなと思う。本当に、不思議な夢だった。
寝る前にハルとあんな話をしたからこんなおかしな夢を見たんだ。暁が女性だったなんて、そんな突拍子もない話。
暁が女性だったら良かったのに、と、思ったことはあったかもしれない。そんな勝手なわがまま、口には出せなかったけど。
もしかしたら、夢の中の暁、あれは途中からハルだったのかも。
1日のうちに、親しい人のセクシュアリティをカミングアウトされて、同じように自分もカミングアウトした。そんな濃いことがあったから。
そうだ、きっと。本当にあんな話しちゃったから。
だから、混乱した。それで、あんなおかしな夢を見た。
暁。
わたしのセクシュアリティ、ハルに言っちゃった。バラしちゃったよ。
だから暁にも……
ちゃんと伝えれば良かった。暁ならきっと、受け入れてくれたかな。
そばにいるうちに言えなくてごめんね。
もしあの飛行機に乗っていたのがやっぱり間違いで、今もどこかで生きていて、いつかここに帰ってきてくれたら、ちゃんと本当のことを伝えて、ちゃんと、離婚したいです。
帰ってきてくれたらいいのになぁ。
会いたいなぁ。
時計は、まだ明け方の4時半。
今日はまた一日中、荷ほどきと片付けがある。体力使うしまだ、もうちょっと寝ていたい。それで、できることならもう一度、暁に会いたい。夢の中ででもいいから。
「暁……」
目を閉じて、またすぐに引き込まれそうになった夢の入り口で、すぐ目の前にいるぼんやりとした人影に声をかける。
その人はゆっくりと振り向いて、わたしに手を差し伸べてくれた。
「奏」
優しい声。
優しい話し方。
知っている、この声。
「暁」
名前を呼んでみたけど、その人はこちらをじっと見て、緩く首を左右に振った。
暁……じゃ、ないの?
顔が見えない。こちらをちゃんと向いているのに、どうしても顔が見えない。
「暁」
もう一度呼んでみても、やっぱりその人は違うと首を振る。
暁に会えたと思ったのに。
「奏」
優しく呼ばれたその声はやっぱり良く知る声で、気持ちが落ち着いて、癒される。この声を聞きたかった。
ゆっくりと近づいてきた身体にそっと身を預けると、そのままふわりとハグされた。背中に回された腕が、優しくわたしを抱きしめる。いつもの、心地よい拘束感。
やっぱり知っている。この腕。
ずっとこうしていたい。いつまでも、ずっと。
「かなた……」
ねえ、誰?
こんなに近くにいるのに。
知りたい。でも、知るのは怖い気もする。
それならもう目を閉じて、ただこの心地よさに浸っていたい。何も考えないで、ずっとこのまま。暖かくて柔らかい胸と優しくて力強い腕に守られるみたいに抱きしめてもらえるなんて。
まるで夢みたい。
夢?
そうか、もしかしたらこれ、夢なのかも。
すごい、初めて気付けた。でも、それならちょうどいい。
夢ならこのまま覚めないで。
ただこのまま何もしないで、ひたすら、わたしが無条件に守ってもらえている状況を堪能させて。今だけでいいから。
ずっとずっと、このままで。
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