15 愚痴

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15 愚痴

 引っ越しをしてから2週間ほどが過ぎていた。  毎日少しずつ片付けはしていたけど、わたしもハルも仕事をしながらなのでそんなに進んではいなくて、また週末にガッツリやらないとね、と言っていた週末がやってきてしまった。  ハルとの新生活はおしなべて快適で、トラブルや揉め事はほとんどなかった。とは言ってもそれは、お互い仕事で生活ペースも違うし、部屋が完全に分かれていて一緒にいる時間もそれほど多くないからかもしれない。でもそれで十分ありがたい。  それぞれのプライバシーはしっかり守られつつ、寂しくなれば声をかけて一緒に食事や会話を楽しめるし、居心地はかなり良かった。 「あれ、やっぱりここにいた」  (あき)の部屋でぼんやりしていたら、いつの間にかドアのところにハルが来ていた。  暁の部屋の壁には、写真がたくさん飾ってある。引っ越し前に暁の部屋で見つけたアルバムの写真をハルが知り合いのお店でデータ化と複製をしてくれて、その中からわたしたちが気に入った写真を数枚大きく引き伸ばしてハルが額縁に入れてくれた。それが、壁にズラリと飾ってある。  心がモヤモヤした時、わたしはひとりでその写真を眺めに来る。  ほとんどが子どもの頃の写真だけど、それをただ眺めているだけで気持ちが楽になった。どうしてかなんてわからない。でも、本当に気持ちが落ち着く。 「どしたの。何かあった?」 「ん。なんかちょっと、疲れちゃって」  ハルにはたぶん、もうバレている。わたしがここでこうしている時は、嫌なことや苦しいことがあった時だと。 「仕事で?」 「んー、まぁね。ちょっと、色々とね」  セクシュアルマイノリティに関わる嫌な思いをハルと共有するのは気が引けた。同じ苦しみをわざわざ共有しなくてもいいじゃん、と思ってしまう。ハルにまでこんな思いをさせたくない。 「話せること?」 「どうかな……楽しい話じゃないからな……」  全く乗り気じゃない顔をして見せたけど、ハルはその顔の裏側を見透かしたようにふわっと笑顔を見せた。やっぱりいろいろバレているな。 「私は聞きたいけど」 「……そう?」 「ん。(かなた)が考えてることはなんでも聞きたい」  こういう甘やかしに、わたしは最近慣れつつある。以前なら、そんなわけにいくか、と反抗する気持ち一色だったことに、まぁいいか、と思えるようになってきた。 「……そっか。うん」 「聞かせてよ」  わたしが座っていたシーツのかかっていないベッドに、ハルもそっと座った。壁に背を付けて片足をベッドに上げて、ゆったりとわたしの方へ向かって座る。そのリラックスした雰囲気で、空気が和む。  押し付けがましくもないし、強引でもない。ただ、自然に、こうして受け入れ態勢を整えてくれる。それはそれは軽やかに、さりげなく。 「もしかしたらハルまで嫌な気分になるかも」 「いいよ。そしたら一緒に愚痴れるじゃん」 「あはは。付き合ってくれるの?」 「いいよ。付き合うよ」  自分の都合を、いいよ、大丈夫だよ、とそのまま受け入れてもらえる経験があまりなかったわたしにとって、ハルのこの懐の深さは有り難さとともに尊敬に値するのだけど、本音を言うとほんの少し卑屈な気持ちを生む。どうしてわたしにはこんなナチュラルな生き方ができないのだろうと、自分を責める気持ちにどうしても気づいてしまう。 「嫌な思いする人を増やしても仕方ないと思うんだけど」 「苦しい気持ちがもしかしたら半分になってくれるかもよ?」 「そう、かなぁ……」  安定の心の広さ。もう敵わないな。  聞く気満々のハルに負けて、結局わたしは林田市長のあの裏の顔の話をすることにした。 「へぇえええ。なるほどねぇ。まぁでも、そんなの政治家あるある、じゃない?」 「そうだけどさ。なんかねぇ。めっちゃモヤる」  普段できるだけ正しい言葉づかいを心がけているわたしがたまにこういう崩れた言葉を使うと、ハルが妙に喜ぶ。何が楽しいのかわからないけど。 「まぁ期待しすぎたのかもね。いいじゃん、その人が口先だけでもそういう政策出してしかも実現できてんなら、それで助かる人いっぱいいるんだし、そいつの本心がどうでもよくない?」  相変わらずのポジティブさに救われる気持ちの方が大きくて、解釈の多少の乱暴さはこの際、目を瞑ろう。  確かに、期待はした。最初の印象も良かったし、LGBTQアライだとはっきり言ってくれたのが頼もしくて、信頼できると思ってしまった。  クローゼットだということもあって、わたしには当事者やアライの知り合いがずっといなかった。だから、嬉しかった。わかってくれる人がいると、サポートしてくれる人がいると、信じてしまった。 「誰かに聞かれる可能性のある場所でヘイト発言してたってのは完全アウトだけどね。そこは公人としては残念だねぇ」  ハルの言う通りだ。林田市長が陰でLGBTQをヘイトしていたって、それを知らない当事者たちには実害はない。表向きにだけでもアライとしてセクシュアルマイノリティの支援や人権保護に力を入れてくれるのなら、それで十分なのかもしれない。見方によってはLGBTQを政治利用されているとも取れるけど、多くの当事者にとって無害ならまあいい。  ただ、頼むからほんの僅かなヘイトでも外に漏らすなよ、と思う。誰が聞いているかもわからない公共の場で話したのもアウトだし、それ以前に、会話の輪にいる人たちの中に当事者やその家族がいるかもしれないという配慮ができないのもアウトだ。 「まぁいいんじゃない? やることしっかりやってくれてれば。ただ、個人的に仲良くするのはないなーってだけの話じゃん」 「そう、かな。うん、そうだね。仕事上の付き合いならギリ耐えられるか」  ハルに話して良かった。本当にモヤモヤが半減した。 「ハル、ありがとね」  お礼を伝えると、ハルは昔みたいに屈託なく笑った。  自分の生活の中にこんな安全エリアができたことが嬉しい。憂鬱なことがあってもこうして癒してもらえる場所があるなんて、今までのわたしの生活から考えると別世界のようで、なんて贅沢なんだろうと心が浮かれた。 「ハルはさぁ、どこまでカミングアウトしてるの?」  仕事の愚痴から話がどんどん進んで、いろいろな話をした。楽しくて、話が弾んで、つい、突っ込んだ話にまで及んだ。 「どこまで? うーん、どこまでだろう。っていうか逆に、隠してるところがないんだけど」 「え、家族も? 仕事仲間も?」 「うん。みんな知ってる」  さすがに突っ込みすぎかな、と心配したけどハルは気にしていなさそうで、特にトーンダウンすることもなくさらりと答えてくれた。 「家族にはいつ伝えたの?」 「えー、いつだっけ。覚えてないなぁ……それも別に隠してなかったから、いつの間にかみんなそういう認識になってたって感じかも」  訊きながら、わたしがハルにした質問は全て自分がされても文句言えないものだよな、と思う。だからなんとなく話しているうちに、自分が訊かれてもちゃんと答えよう、という覚悟ができた気がする。 「でもまぁ、イタリア行ってからかな。自分の持ってる感覚がレズビアンっていう指向と一致するってはっきり認識されたのは」  まるでどうってことない事のように軽やかな話し方。ハルは、後ろめたさとか、ないのかな。ないのだろうな。すごいな。 「日本にいるときはまだ知識もなかったし、なんとなくそうなのかも、くらいだったと思う」 「パパとママ、何も言わなかった?」 「んー、どうだろう、別に嫌なこと言われた記憶はないし、反対されたり悲しまれたりもしてないかな」  自分なら一番答えたくない質問をしてしまった。  家族の話。赤の他人とのエピソードの方が全然平気。でも、家族とか親族とかの話は、本当は触れたくない。 「パパもママも美術畑の人だから、当事者の知り合いいるみたいよ。だから抵抗なかったのかもね」 「そっか……」  「別に困ったこともないし、私がパパとママの娘なことに変わりないし、波留可(はるか)は波留可の人生を生きなさい、って言ってくれてるよ」  生まれた家や育った環境を比べても意味がないことはわかっている。どの家庭にも良い点も良くない点もあるし、明確な比較基準なんて存在しない。でも、こうしてハルのパパとママの対応を知ってしまえば、たちまちわたしの心はどす黒い劣等感でひたひたに満たされてしまう。もしわたしがハルのパパとママみたいな親に育てられていたら、とか、ありえない仮定を勝手に妄想して勝手に落ち込む。  本当に、意味のないことなのに。 「奏は? 誰にも、言ってないの?」 「……うん」 「家族にも、暁ちゃん、にも?」 「うん」  今更、だ。悔やんだってどうしようもないし、何も変えられない。だから考えるだけ無駄。  周囲の人に正直に話してもみんなから受け入れてもらえたハルの前で、今まで誰にも本当のことを伝えられなかった自分が哀れに思えて、胸の奥がキリキリと軋む。  言えばよかった?  試しにカミングアウトしてみればよかった?  無理だ。家族はあんなだし、仕事場もあんなだし、言ったところで良い展開が見込める気がしない。  なんて寂しい人生なのかと悲しくなるけど、自分が選んだ生き方なので仕方がない。 「そうなんだ……心細かったよね」 「え……?」  無造作にベッド上に放り出していたわたしの手に、長い手を伸ばしてハルがそっと触れた。 「奏がクローゼットなのはさ、周りに迷惑かけないためでしょ」  突然指摘されたことが自分の中にあるポリシーと一致するかどうかを、慌てて考えてみる。 「家族とか、暁ちゃんとか、友達とか、仕事場とか、周囲の人に嫌な思いさせないように、でしょ」  確かに、困らせたくなかった。迷惑かけたくなかったし、悲しませたりもしたくなかった。わたしの個人的な事情で周囲の人に余計な気苦労をかけたくなかった。 「わかるよ。奏は昔からそういう人だったもん」  自分さえ黙っていれば何事も起こらないと思っていた。自分ひとりだけが嘘つきなだけで済む。自分以外は平和で過ごせる。そう思って耐えていた。 「だから、この人には伝えても迷惑かけないってはっきりした私にはちゃんと言えたんでしょ」  ハルにはそんなことまで全てバレていたというの? 「カミングアウトってさ、絶対しなきゃいけないものじゃないじゃん。私はたまたまそれが許される環境だったから結果的にオープンになったけど、それが100%正解ってわけじゃないと思ってる」 「それはそうだね。カミングアウトしたらしたで差別の目だって向けられるだろうし、でも言わなきゃ言わないでその場に当事者がいないっていう前提での差別に晒されるかもしれないし、クローゼットじゃ単純に仲間は見つからないからね。どっちが正しいとか間違ってるとかじゃないよね」  少しずつ言葉を探しながら、答え合わせをするみたいに慎重に口にする。ハルの意見と相違があったらと思うと怖いけど、それを知らないままで一緒にいるのも別の意味で怖い。 「そうだね。まぁ、時代とか環境とかさ、言いたくても言えない人ってものすごく多いと思うんだよね。でも、じゃあクローゼットが罪かって言ったら、それも違うと思う」  ハルはまっすぐにこちらを見て、少しもごまかしたり逃げたりしないではっきりと話してくれている。逃げ癖のあるわたしにとっては少しプレッシャーだけど、これは、逃げてはダメなところだ。 「偏見の目で見られたくないから言わない、自分のために言わないっていう人もいて、それも別にいいと思う。奏みたいに誰かを悲しませたくないから言わないっていうのも、それもアリだと思う」  わたしに触れているハルの指に、キュッと力が入る。指先をそっと握られて、そこから、ハルの気持ちが流れ込んでくるみたいに感じた。同調のような、共感のような、何にしろ寄り添うような受け入れてくれている姿勢が嬉しくて、引き込まれそうになる。 「言えないまま、法的な婚姻制度を選ぶ人だって山ほどいると思うよ。その人にとってはそれが正解なんだから、それもひとつの選択肢だよね」 「そう、だね。うん……」 「もちろん、性自認が揺らいで結婚した後にやっぱり違った、っていう人だっていっぱいいて、それだって周囲にとやかく言われることじゃない。別れるか別れないかは、当人同士がちゃんと話し合って納得できればいいことでしょ」  たくさん考えていたのがわかる。ちゃんと向き合って、逃げずに、しっかり考えた末の持論。ハルが真摯に、真面目に生きてきた証拠。全部知りたい。 「誰かを(だま)したり(おとしい)れたり、っていう悪意があるわけでないなら、私はどんな選択も尊重したい」  ハルの眉間に少し力が入って、僅かに歪んだ。  それから眉尻がほんの少しだけ下がって、困ったような表情になる。 「奏が、家族の期待に応えたくて、家族を傷つけたくなくて、暁ちゃんの申し出を受け入れて結婚したこと、私はそれもひとつの夫婦の形だと思ってるよ」  ずっと、わたしが嘘をついたまま結婚していたことに罪悪感を感じていると気づいてフォローしてくれているのだと思っていた。  でも、なにか、どこかに違和感があるような気がして、わたしはそれを探った。 「暁ちゃんと奏が良いと思って結婚したんだから、それで良かったんだと思う」  もしかして、なんとなく、わたしに向かってだけではなく、ハルが自分に向けても言っている? 自分に言い聞かせているような、なにかを確認しているような。 「うん。良かったんだよ」  わたしたち夫婦が上手くいっていなかったこと自体についてなのか、それに対してハル自身が何もできなかったことへなのか、その辺はわからない。でもきっとその辺りに関することで、何か自分への戒めとか慰めとか、言い聞かせたいことがあるのだろうな、と思う。  いいや。今はまだ、そこまでわからなくても。  ハルがわたしと暁のことにちゃんと向き合ってくれているだけで嬉しい。  さらっと話しているけどハルの言葉の存在感は重くて、ずっと暁との結婚に自信を持てずにいたわたしの心にしっとりと沁み入ってくる。  ハルと話せてよかった。ハルの考えを少しでも知れてよかった。 「……あーあ。暁ちゃん、フラッと帰ってこないかなぁ!」  惜しそうに、悔しそうにハルが大きな声を出した。 「そうだね。まだどこかで仕事してるかもしれないよね」 「また3人で遊びたいよねぇ」 「うん。そうだね」  本当に、ハルの朗らかさとか和やかさに救われる。ネガティブで卑屈でひねくれている心が浄化される。いつの間にか、さっきまで感じていた自分を責める気持ちも消えていることに気づいた。  こんなふうに誰かの感情に引きずられることもあるのだと、初めて知った。ポジティブな方に引っ張られるのも悪くない。  突然、座っているマットレスに小さな振動が響いた。 「あ、ごめん、ちょっと電話」  軽くお尻を浮かせてポケットからスマホを取り出したハルは、ディスプレイを確認してからわたしに目配せして、電話に出た。  ひとの通話を聞いてしまうのは気が引けたけど、席を外そうかな、と気を遣って行動に移そうとするより先に通話が終わってしまった。 「ごめんね、電話」 「ん。平気」  急に決まった同居ということもあって、まだ完全には心の準備が完了していない。その中に、プライバシーをどこまで尊重すればいいのか、という問題があって、今はまだその判断がつかないからできる限り触れないでおこう、と思うしかない。だから、電話の内容なんて絶対に訊けない。  ハルは通話を切ったスマホをじっと見ている。何かを熟考しているような顔。ますます、突っ込めない。 「明日の午後って何かあったっけ?」  ちらりとこちらを見て、不安そうに訊ねた。 「明日? んー、特に、部屋片付けたりする以外は」 「そっか。私ちょっと、午後、人と会う用事できた」 「……うん、わかった。いいよ、どっちにしろわたし自分の片付けしてるから」  休日の行動を束縛する権利はどちらにもない。お互い自由に、好きなようにやっていいに決まっている。決まっているけど、今週末はなんとなく一緒に片付けをするのだと思っていたので、そうじゃなくなったことはそれなりに寂しい。 「ごめん。夕飯は一緒に食べよう」 「うん」  いや、そんなこと、本当に縛っていいわけないのに。どうしてこんなにモヤモヤしているのだろう。 「何か食べたいものある? どこか食べに行く?」  考えない、考えない。  今までだってずっとひとりで行動してたじゃん。それで、何も問題なかったじゃん。  大丈夫。わたし、おねえちゃんだし。 「んー、考えとく」 「オッケ」  よし、なんとかなった。  頑張れ、おねえちゃん。
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