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16 よその家
「ごめん、じゃあちょっと出かけてくるね。帰るとき連絡する」
「うん。いってらっしゃい」
どこに行くのかとか、誰と会うのかとか、そういうことまで突っ込んじゃいけないような気がした。昨夜の電話が誰からかも、確認していない。
ハルに今パートナーがいないということはこないだ聞いた。でも、これからパートナーになるかもしれない人がいるかどうかはわからない。
いや、ハルが誰と会おうがわたしに何か言う権利なんてないのだけど。
でもなんとなく、休日はふたりで家のことをするのだという気持ちでいたので、それが変更になったことはやっぱり少しモヤモヤした。そう、ハルが誰かに会いに行ったことではなく、予定が変わったことにモヤッとしたのだ。きっとそうだ。
一緒に片付けようと思っていた時は、あれもやって、ここも片付けて、と色々計画があった。それが消えてしまって、わたしのやる気は一気に失せていた。
また、暁の部屋の床に座って、ぼんやりと写真を眺める。
なんだか最近こんな時間ばっかりだな、と思う。
暁がいなくなって、これからどうやって生きていこうかと考えたことはあった。でも、どういうルートを通っても、わたしはひとりで、誰かと一緒に生きていくシミュレーションはできなかった。
それが、思わぬ形でハルと暮らすことになって、たぶん調子に乗っていた。
できる限り相手に合わせようとしてしまうのはもう性分で、あの母の尽くす姿を刷り込みのように見て育ったせいか簡単に変えられることではない。相手が何を望んでいるのか、相手がどうしようとしているのか、それを先に読んで、それが上手くいくようにさりげなく合わせる。
相手最優先と言えば聞こえは良いけど、それによって決まった自分の行動で自分自身をがんじがらめにしていることにもなる。それで苦しい思いをすることが、今まで何度もあった。
今回もそうだ。ハルが過ごしやすいように、ハルに合わせて、そのためにすべきことを念頭に置いて、きっちり計画を立てて。自分ではそれを決行しようとその気になっていたのに、何かの都合でその通りにならなかったとき、わたしはこうして自分の指針を完全に見失って、腑抜けになるのだ。
暁。わたし、またやっちゃったよ。
わかってるんだけどね。このパターン、繰り返したくないんだけどね。
どうすればいいかなんて、そんなこと分かっている。あまり近寄りすぎなければいいだけだ。適度な距離をとって、近づきすぎないように。合わせすぎないように。そうすればいいだけ。
それなのに。
「あーあ。もう。なにやってんだーもう」
少し大きめな声で吐き出してみても、それに応えてくれる声はない。
本当に、なにをやっているんだ。ダメだ、こんなの。ちゃんとやらなきゃ。
片付け。そうだ。片付けしなきゃ。まだやることいっぱいあるのに。
暁の部屋を出て自分の部屋に行こうとしたら、ポケットの中でスマホが震えた。
手に取ると、珍しく通話を着信している。
うわ、なんで。
暁の母親だ。
どうする? 出る? 出ない?
でも、電話をかけてくるなんてよほどのことだ。これは、出ない方が後々面倒なことになるかもしれない。
わたしは意を決して応答ボタンを押した。
「はい」
『奏さん、ちょっとお時間いいかしら』
「はい」
この声のこの話し方を聞くだけで条件反射的にゾワっと寒気がするけど、関係性を考えれば無視は今はまだできない。
『あなた、今からウチに来ていただける? ちょっとどうしても進めたい手続きがあって』
「今から、ですか」
『そうなの。ちょっと急ぎなのだけど。あとね、暁の遺品で見ていただきたいものもあって』
来てもらえるか、とか言いながらあの人の中ではもうそれは決定事項で、わたしの希望なんて通らない。そんなことはもうわかっている。
「……わかりました。伺います」
『助かります。じゃあ来てちょうだい。ただね、私は今、まだ仕事中で出先なの。あなたのところからウチまで、どのくらいかかるの?」
「……たぶん、今から準備したらちょうど1時間くらいかと」
『そう。私はたぶん2時間近くかかると思います。あなた、暁が持ってた我が家の鍵、まだ持ってるでしょう。それ使っていいので、ウチに着いたら入って待っててちょうだい』
「はい」
相変わらず、こちらには発言権も拒否権もないかのような会話。
『あなたと暁の実印、持ってきてね』
「……はい」
この人は基本的に、人の話を聞かない。自分の話だけが正しいと思っているから。相手が間違っていると思っているわけではなく、自分に反対意見を言ってくる人なんていない、というのが大前提の人なのだと思う。編集部という複雑極まりない集団をまとめているボスなのだ。そのくらいでないと務まらないのだろう。
『じゃあ、よろしくお願い』
よろしくお願い? それで終わり!? お願いしますとか、せめて、お願いね、とかじゃないの? 気持ち悪!!
……いや、やめよう。期待する方がアホらしい。
あーあ。また予定外の用事が増えた。もうめちゃくちゃだ。
なにをさせられるのかわからないけど、それももうどうでもよくなった。せっかくの休日を、会いたくもない人に会いにあの家まで行くために費やすなんて。
でももしかしたら、本当にこれで最後にできるかもしれない。思い残すことなくこれで終わりにできるのなら、最後の踏ん張りで片付けてくるか。
ダンベルぶら下がってんのか、と思えるほど重たすぎる腰をなんとか上げて、わたしは外出の準備に取り掛かることにした。
結婚してからひとりで一ノ瀬家に行ったことは、ほんの数回しかない。しかもその数回も、向こうに暁がいたり後から暁が合流したりして、最初から最後までひとりだったことはない。
今回は行きも帰りもひとり。そう思うとますます足が重くなった。でも、用事があるというのだから仕方がない。
手続き云々はもういいとして、暁の遺品がどうのと言っていたので、とりあえずそれを楽しみにして必死に足を前に進めた。
電話で宣言した通り、あれからほぼ1時間くらいで一ノ瀬家に着いた。
暁が持っていた鍵を使って入っているように、と言われたのでそうしようとしたのだけど、やっぱり余所の家に勝手に入るような気がして気が引ける。でも、元義母はまだ帰っていないのだから仕方ない。
鍵を開けて、なんとなく小さな声で、お邪魔します、と呟く。
子どもの頃には何度も、暁と一緒にドタドタと駆け込んだりしていた。その時もものすごく適当にそんな挨拶をしていたっけ。でもいつも両親はいなくて、お手伝いさんが返事をしてくれていた。
今日は、誰もいないのに。
一ノ瀬の家は周辺の家に比べて明らかに大きくて、その佇まいは今見てもただただ圧巻で、家主の本質を知った上で本音を言わせてもらえば嫌味ったらしい。
入ってすぐの玄関ホールもやたらと広くて、なぜかいつも電気が点いていないそこは薄暗くて不気味だった。
靴を脱ぎながら、ふと思う。よくよく考えたら、わたしは暁がいなくなってから、姻族関係終了届を出してある。それって、この家にとってはもう他人だということで、本当にこんなふうに勝手に入っていいのだろうかと罪悪感さえ浮かぶ。
本当は、元義母があれから帰宅まで2時間かかると言ったので、それに合わせて来ることも考えた。でも、思い立ったら動かないと気が済まない超絶せっかちな元義母を待たせでもしたら、どんなお叱りを受けるかわからない。それなら、余裕を持って絶対にあの人より早く着いているようにしてやろう、と思った。
リビングにつながる廊下を歩きながら、妙な違和感に気付く。
ガラスのスリットが入ったリビングのドアから、向こう側の灯りが見えている。留守だと思ったのはこちらの勝手な勘違いで、もしかして、誰かいる?
そっとドアまで近づいて、リビングの気配をうかがう。
人の、話し声。
内容までは聞き取れないけど、明らかに人が話している声がする。
暁の妹の夕がいたのかも。それなら言ってくれれば、夕と食べるお茶菓子でも買ってきたのに。
ああでも、もし来客中ならお邪魔しちゃ悪いか……
ついこのあいだ、大人になったハルの泣き声を聞いた。それが小さい頃と変わっていなくて、無性に可愛かった。
そう。こんな感じに。
え?
これ、誰?
リビングから、話し声に混ざって泣き声が聞こえる。
知っている。この声。だって最近聞いたばっかり。
ハル。
ハルがいるの? ここに?
どうして。
リビングのドアの細いガラスの部分から中を覗く。
ソファーの前にあるローテーブルの傍に、人が座っているのが見える。
やっぱり夕だ。床に膝をついて、困惑したような表情で目の前にうずくまる人を気遣っている。
その、うずくまっているのは、ハル?
本当にハルなの?
こちらに背を向けているので顔は見えない。でも、着ている服は、さっき家を出るときにハルが着ていた服によく似ている。肩を小さくすぼめている後ろ姿も、声も、ハルじゃないと断言できる要素がない。
あれがハルだとしたら、今日ここへ来ることを、どうして黙っていたのだろう。わたしに言えない事情があった?
帰国してすぐの時も、人と会う約束があると言っていた。それから何度か、誰かと会う用事があると言って出かけた。
それって、夕だったの?
どうしてハルと夕が。
いや、ふたりが会っていたとしても不思議ではないか。だってハルと夕も幼馴染なのだし。
では、何の用事で? どうして会うことをわたしに言わなかった?
夕とわたしは、親友のように仲がいいわけではないけど普通に付き合いがあって連絡もたまにとるので、夕の方からハルと会っていることを聞かされてもおかしくないのに。どちらからも何も聞いていない。
どうしよう。なにか、胸の奥が重たくジンジンと痺れて、息が吸いにくい。
でも、ハルが泣いている。だったら、わたしが助けなきゃ。駆け寄って、何があったのか訊いて、ハグして、イイコイイコして、大丈夫だよって言ってあげなきゃ。
ドアのレバーに手をかけて開けようとした瞬間、わたしは息が止まりそうになった。
ハルの肩に置かれていた夕の手がそのまま背中に回り、ごく自然な形で夕がハルを抱き寄せたのだ。そしてそれに当然のようにハルも応えて、ふたりはきれいに抱き合う形になった。
自分が認識していたものが事実と違っていることなんて世の中に山ほどあって、それが人間関係だとしても本当によくあることで。どんなに信じていたものでも、事実でないなら砕け散るのは容易い。
ハルが頼るのはわたしだと思っていた。
ハルが泣きつくのはわたしだと思っていた。
ハルが一番なんでも話せるのはわたしだと、思い込んでいた。
でも、違った。
今、あのふたりが共有している感情は、友愛? 幼馴染愛? 家族愛? それとも、恋情的なもの?
ハルは、同性愛者だと言った。
では、夕は?
夕は以前、男性の恋人がいると聞いたことがある。でもそれだけが全てだという証拠はない。いや、そんなことはそうそうあることではないのに。
この幼馴染連中の中でわたしとハルがセクシュアルマイノリティなだけですごい確率だとこのあいだ驚いたばかりなのに、そこに夕までなんて、そんなことがあるわけない。
ここまで考えて、自分の考えが突拍子もないほど飛躍してしまっていることに気付く。
わたし、何を焦っている?
仮に夕も同性と恋愛ができる人だとして、それの何が問題?
ハルに特別な人がいたところで、わたしが焦る理由がある?
幼馴染のおねえちゃんとして一番頼りにしてもらえなかったことは残念だけど、それ以外にこんなにショックを受ける理由なんて、ある?
あーダメダメ。もう、リセットしないと。
また迷走してるよ。大混乱。バカだな、わたし。
暁がいなくなって寂しかったんだな、やっぱり。可哀想に。
よし、ジングル入れて、強制リセット。
得意技を。
早く。
とにかくこの場から立ち去るのが最優先。
もうドアのレバーを半分くらい下げてしまっていたので、それをそっと無音で戻すのに尽力した。ふたりに気づかれないように立ち退かないと。
でも、失敗した。
ほんとバカ。
握っていたレバーからカチッと小さな金属音が発生して、それにふたりが気付くのは同時だった。
抱き合ったままこちらを見たふたりを、どんな顔して見ればよかったのか。
作り笑いでアホみたいにこんにちはと言えばよかったのか。
お邪魔しましたーとおどけて踵を返せばよかったのか。
こんなリビングでイチャイチャしてたら誰かに見られちゃうよーとお節介すればよかったのか。
ほんの数秒の間にいろんなことが頭に浮かんだけど、そのどれも実践できなかった。
情けない。
かっこ悪い。
クソダサい。
わたしはただ黙って、そっと廊下を引き返した。
「奏!」
ハルがリビングからわたしを呼んだけど、わたしはそれを無視した。
やっぱり、言うとしたら、邪魔してごめんね、かな。
来なきゃよかった。
いや、来たくて来たんじゃなかった。
あ、しまった。約束。これから義母、いや、元義母に会うんだった。あの人に呼び出されたんだった。でもまだ時間はある。
今から連絡して、場所を変えてもらおう。
そもそも今までのほとんどの手続きを電話や郵送で済ませていたのに、どうして今回に限って対面なのか。また郵送でやり取りすればいいじゃないか。急ぎだとは言っていたけど、今時郵送だって1日や2日くらいで行き来できる。暁の遺品がどうの、と言っていた。それも全部送ってくれればいいのに。
連絡。しなきゃ。
でもその前にここを、早く出ないと。
リビングからは何度も名前を呼ばれている。
あーあ。
来なきゃよかったな。
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