17 あきのはなし

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17 あきのはなし

(かなた)!」  玄関で靴を履いていたら、リビングのドアが開いてハルが出てきた。その背後から(ゆう)もついてきて、ふたりに呼び止められた。 「奏ちゃん、待って!」  無視を通すのはさすがに大人げない。だってわたし、いちばんおねえちゃんだし。 「ごめんね、突然来ちゃって。ちょっとね、おかあさんに呼び出されて、なんか用があるとかで、さっき急に連絡もらって。でも約束までまだ時間ありそうだからちょっとコンビニ行ってこようかなーとか」  もうちょっと上手く嘘つけねぇのかよ、と思ったけど、そういえばわたし芝居ヘタクソ過ぎて声優事務所辞めたんだった。 「奏ちゃん、ちょっと、話聞いて」  夕は昔からとてもおとなしくて、(あき)にも増して性格も言動もフワフワと柔らかい。だからそんな夕の語気を強めた口調が意外で、少しびびる。でも、ここから逃げ出したい気持ちは変わらない。 「早く来すぎちゃったなぁ。ごめんね、ほんと」  そうだ。わたしは逃げ出したい。ただ、ここから消えたいだけ。 「奏。私も、話したい」 「あー、いいよいいよ、わたしは今度で。おかあさん、あと1時間くらいで帰ってくるって言ってたから、その頃また来るね」  ようやく靴を履けて、わたしは時間をかけて必死に作った笑顔を装備してちらりと振り向いた。 「奏ちゃん!! 聞いて!!」  一瞬だけ顔を見せてすぐにまた背を向けたわたしに、夕が、聞いたことがないような大きな声を発した。  びっくりして思わず振り向く。  もう、表情(かお)を作る余裕はなかった。 「大事な話があるの、聞いて!!」  改めてしっかり見た夕は、今にも泣き出しそうな顔をしていて、わたしはそれまでの卑屈で情けない態度を猛省した。 「お兄ちゃんの話。大事な話なの」  逃げられない、と思った。それくらい真剣な眼差し。  そしてこれは、夕だけの問題でも、夕とハルだけの問題でもない。きっと。  わたしも聞かなきゃいけない。そんな気がした。  観念したわたしは、頷いて、もう一度靴を脱いだ。  リビングに戻ると、わたしはさっきのふたりの姿を思い出して、再び逃げ出したくなった。でももうそれが通用する状況ではない。  涙目のふたりに促されて、ソファーに座る。  居心地が、悪い。 「はぁ……」  夕が、とてつもなく大きなため息をついた。楽しい話ではないことは確定か。やっぱり逃げたい。  ローテーブルの上に、いくつかの封筒と、小さな木製の箱が置いてある。  夕がその封筒をじっと見つめたまま、しばらく黙り込んでいる。ハルも何も言わず、ただじっとその沈黙を見守っていた。 「あのね、奏ちゃん……」  ようやく、意を決したみたいに夕が口を開いた。 「あたしね、お兄ちゃんから、手紙を預かってたの」  まだ少し頭の中が混乱していて、言葉が上手く入ってこない。  お兄ちゃん、というのは、暁。手紙?  「ただね、それ、奏ちゃん宛じゃなくて、ハルちゃん宛でね」  暁から、ハルへ。ハル宛の手紙。わたし宛ではなく。  じゃあやっぱりわたし関係なくない? 「ハルちゃんには、もう見せた」  テーブルの上にある封筒や折りたたまれた便箋は、その手紙か。 「ハルちゃん、どうする? ハルちゃんから話す?」 「……奏にも読んでもらった方が早いかな」  今この場で、夕とハルだけが理解できている状況。わたしは何もわからない。その悪意のない疎外感が、卑屈なわたしを余計にひねくれさせる。 「え、だってハル宛なんでしょ? そんなの、わたしが読んじゃ……」 「それは私が判断していいって書いてあった。私が奏に読んでほしいと思ったら読ませていいって」  ずっと下を向いていたハルが、顔を上げてじっとわたしを見た。 「私は、奏にも読んでほしい」  強い視線。真剣な眼差しと、訴えかけるような話し方。  逃げられるわけがない。 「あっ、でもね、奏ちゃん。あのね、すごく、すごくね、重たい話でね、その……簡単に理解できる話でもなくてね」  慌てて気遣うように流れを遮ってきた夕は、さっきにも増して必死だ。  そんなにみんなが混乱するような何が待っているというの。 「奏は、大丈夫だと思う」  ハルは、落ち着いていた。  さすがマイペース。 「でも、しんどいよきっと」 「大丈夫。私がついてるから」  心配そうな夕に、ハルが優しく声をかけた。それを聞いて、わたしも大丈夫なような気がしてきた。  ハルが言うなら大丈夫。きっと。 「私が支えるから。大丈夫」  大丈夫なんだよ。  そうだよね、暁。 「……わかった」  夕もようやく納得したように、そっとソファに座った。  テーブルに置いてあった手紙を、ハルがわたしに差し出す。  夕とハルが泣くほどの重要な内容。それをわたしに見せるかどうかも夕があれだけ焦っていた。それほどの、大きな意味がある手紙。  読むのは怖い。  でも、もう読む以外の選択肢は見つけられない。  わたしは覚悟を決めて、受け取った手紙の文字に視線を落とした。  冒頭の数語を認識しただけで、なにかとてつもなく重要な要素を含む文章だとわかった。  夕はこれを、暁が書いた手紙だと言った。  その暁が、『私は』と、聞いたことがないような一人称を使っていて。  それはまるで、それまでの暁とわたしが関わってきた世界が一変してしまうほど大きなストーリーの大転換に思えた。 『ハルへ。 これを読んでいるということは、私が夕に頼んでおいたその時が来たのだということで、そういうことなのでしょう。 私は自分の意思で真実を話すことができなくなったようなので、私という人間の全てをこの手紙に記し、それをハルに伝えるために夕に託すことにしました。 諸外国の、あまり治安のよくない場所へも頻繁に行くようになって、私は常に、もしも自分の身に何かあったら、ということを考えて生きるようになっていました。 奏と結婚をして、本当なら妻である奏を命をかけてでも守らなきゃいけないのに、勝手を言ってあちこち飛び回ることを選んだ私を、奏は恨んでいるかもしれません。 だから、もし、本当に自分の身に何かあってもう話すことができなくなったら、その時こそ奏を守るために、本当のことを全て伝えようと思い、こうして手紙を書いています。 私は奏と結婚をする時、とても大きな真実を隠していました。 私は、本当は、奏と結婚なんてする資格がない人間です。 私は、自分をずっと、男性だとは思えず生きてきました。 物心ついた頃から、奏やハルと同じ女性だという自認がありました。 でも、ある時期から、奏やハルとは体つきが違ってきたり、周囲から奏とハルは同じ扱いを受けるのに自分がそこに入れてもらえないことが、辛くて、寂しくて、堪えられなかった。 だから、真実を隠すという道を選びました。 現実から逃げたのです。 一度、高校生の頃だったか、私がこっそり夕の服を着て母の化粧品を使って女性の格好をしていた現場をハルに見つかったよね。 あの時とっさに、文化祭でお芝居をやる衣装だと嘘をついて誤魔化したけど、本当は全部話してしまおうかと思いました。悩んで、ものすごく迷って、でも結局言えなかった。本当にヘタレで嫌になります。 ハルはあの時、勢いで自分のセクシュアリティをちゃんと教えてくれたのに、私はどうしても言えなかった。あの時言えていれば、と、今でもずっと後悔しています。 トランスジェンダーだということを隠していて、本当にごめんなさい。 奏にも、謝っても謝りきれないひどいことをしました。 奏に嫌われたくなかった。奏を傷つけたくなかった。なんとしても、奏の夫として、一生奏を守っていかなければと思っていました。でも結果として、奏の人生を狂わせてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。本当はこんな手紙を用意するのではなくて、自分の意思で動けているうちに謝罪して正式に離婚しなければいけなかったのに。 だから、この手紙を読まれるような状況になっているなら、奏には迷わず離婚届や姻族関係終了届、復姓届を出して、私との関係を終わらせて欲しい。 私がまだ生きていれば、離婚届を用意してあるので奏の欄に記入してもらって役所に出して欲しい。私がもうこの世にいなければ、一ノ瀬との縁を切るよう言ってあげてください。 私のセクシュアリティをハルが奏に伝えるかどうかは、ハルの判断に任せます。ここで許可したので、伝えたとしてもアウティングには該当しません。 私はもう、この手紙が読まれるような事態になっていれば、それが奏に知られても構わないし、むしろ知られた方がいいとさえ思います。 本当は最初から伝えるべきだった。伝えなきゃいけなかったのに、ずっと言えずにいた私の弱さをどうか許してください。 墓場まで持っていく、という言葉があって、まさにそうだな、とは思いましたが、それでもどうしても、人生で一番一緒に時間を共有した大好きな奏とハルには、本当の私を知っていて欲しいと思ってしまった。誰にも知られずこの世から去るのが怖くて怖くて仕方なかった。 私の最後のワガママです。 もしハルがこの手紙を読んだ上で、奏がここに書いたことの全てを受け入れられる状態だと判断したら、同封してある奏宛の手紙を奏に渡してください。この手紙も説明のために奏に読んでもらっても大丈夫です。真実を知らせないままの方がいいと判断したら、奏宛の手紙は破棄して、この手紙の内容はハルだけの胸のうちにしまっておいてください。 私はハルも奏も、同じように大好きです。 結果として奏と結婚して夫婦になったけど、でもふたりとも大好きで大切な私の幼馴染です。本当に大事な親友です。 ハル、本当にごめんなさい。本当のことを言えなかったことも、こんな嫌な役目を押し付けてしまったことも。 奏にも、ごめんなさいと伝えてね。 もし私が今話せなくても、いつか状態が改善して元気に話せるようになった時は、できれば女性として3人で楽しくワイワイ過ごせたら嬉しいです。 本当の私を受け入れてもらえるなら。 そんな時がいつかやってくることを願って…… 20××年10月某日 一ノ瀬暁』  長い、長い、映画を観ているような感覚だった。  これは、現実?   それとも、夢?  一瞬、暁がジャーナリストの仕事の傍ら、作家活動でもしていたのかと思った。だってこんな、小説みたいな。  ちょっとできすぎてやしないかと、色々と装飾されたフィクションなのではないかと、思ってしまった。  でもすぐに、これは現実で事実で真実なのだと思い直す。  言われてみれば、なにか些細な違和感のようなものは生活のあちこちに散在していた。  暁は、妻であるわたしの前ですら、裸になったことがなかった。風呂や着替えの時も必ずわたしを追いやっていたし、たった一度のセックスにチャレンジした時だって、暁は服をほとんど脱いでいなかった。  それから、プールや海に遊びに行ったことはないし、温泉旅行やスパにも行かなかった。  そういえば、潔癖症気味だから男子トイレは使いたくない、という理由で、公衆トイレはいつもできるだけバリアフリートイレを探していた。  それに、男女別でない制服や体操着、水着などの導入を決めた学校が増えた時に取材をしていた。  あとそれから、履歴書や受験願書、ショップの会員登録時などの性別記入欄の必要性に関するニュースがあるといつも真剣に見入っていた。  それに何より、親が勧めるお見合いから逃げるために、恋愛もしていない幼馴染のわたしと交際期間も経ずに結婚した。  あと、あとそれと……  ああもう。なんで。  そんなフラグ、あちこちに山ほど立っていたじゃないか。  いや、違う。それだけじゃない。  わたしが、男の人がダメで女の人が好きなわたしが、一緒に暮らせると思ったのだ。暁なら大丈夫だと、本能的に感じた。どうしてかはわからなかったけど、暁となら大丈夫だと思ったのだ。  そこに、こんな事実が隠れていたなんて。  暁はいつも自分の性自認にちゃんと向き合っていた。  わたしがそれに気づかなかっただけだ。  暁。  気づいてあげられなくてごめん。 「ごめんね、奏ちゃん。ごめんね、ごめんね」  夕がポロポロと涙をこぼしながらわたしに謝ってくる。そんなの、夕が謝ることではない。  言ってくれればよかったのに。  そう思って、慌ててそれを打ち消す。  どの口がそれを言うんだ。  わたしだって同じ。わたしも暁に言えないことを抱えていた。それを暁が聞いたらきっと、言ってくれればよかったのに、と言うだろう。 「あたしもね、お兄ちゃんから聞かされたの、5年くらい前なの。奏ちゃんと結婚した後、海外に行く機会がすごく増えて、その頃に、実は、って」  なかなか涙が止まらない夕に、ハルがティッシュを取って渡した。 「親にはね、言ってないみたい。本当はお兄ちゃんが中学の頃、一度だけ、自分は男らしくは生きられないって言ったことがあったんだけど、ウチの親あんなんだし、全然取り合わなかったの。完全否定、完全無視で、それからはお兄ちゃん、一度も言わないできたみたい」  本当のことを聞かされてから5年も、夕はひとりでそのことを抱えていたのか。血の繋がったきょうだいだとは言っても、心細かっただろうな。  暁の性格からして、一度否定されたらもう強くは出られない、というのがよくわかる。すごく優しかったから。 「あたしは実はちょっと、もしかしたら、って思ったことはやっぱりあったんだけど、でも本人の口からちゃんと聞くまではやっぱりスルーしちゃってて」 「仕方ないよ。そんなの、簡単には判断できないよ」  ハルがフォローしてくれたけど、わたしも同じ考えだ。本人が何も言わないのに勝手に決めつけていいことではない。夕もきっと、いろいろと迷ったり悩んだりしたんだろう。 「本当にね、苦しかったんだと思う。誰にも言えなくて、でもそこには悪意とかはなくて、だから、だからね」 「うん、わかってる。大丈夫」  夕を責める気持ちなんて本当に1ミリもない。こんな大切な役を担ってくれただけで、感謝しかない。 「この手紙はその5年前の時に、自分に何かあったらハルちゃんに渡してね、って頼まれてて」  テーブルに置いてある封筒の宛名を夕がそっと指先で撫でる。  こんな重たいものをずっと大事に持っていてくれたのか。 「ごめんね。奏ちゃん。騙したみたいになっちゃって」  せっかく止まりかけていた夕の涙が、またボロボロと溢れた。 「妹のあたしからもお詫びします。本当に、ご」 「あのね、本当に、夕が謝ることないから。夕はなにも悪くないよ。それに、そんな、暁の存在を悪者みたいに言わないで」  慌てて、夕が責任を感じないように誠心誠意フォローした。伝わるといいのだけど。本当に、誰も悪くない。悪意を持っていた人なんていない。ただ、みんな一生懸命生きていただけなのに。 「でも……大事な20代の半分以上を結婚生活で潰しちゃって」  密かに願っていた。結婚生活の話にはならないでほしいと。だってその話になったら、わたしからも言わなきゃいけなくなるから。 「それは、その結婚は、暁が一方的に言い出したことじゃないから。わたしも必要だと思って、わたしもちゃんと同意したから」  すぐ隣にいるハルを見ると、悲痛な表情をしてじっとわたしを見ていた。  そうだよな。わたしだけ言わないのは、ズルいよな。暁だけに責任を負わせるようなことをして、わたしだけ逃げるのは許されない。 「それに、ね。本当はわたしも暁に言ってないことがあって」  どうしようかと真剣に迷う前に、勝手に口から言葉が溢れていた。  話し出したものの、一瞬言葉が詰まって、どういう風に言えばちゃんと伝わるのか必死に考える。  ハルがそっと手を伸ばして、膝の上で固く握られていたわたしの拳にそっと触れた。思わずハルの方を振り向くと、なんとも言えない複雑な表情でじっとこちらを見ていた。  賛成?  反対?  でもね、わたしはもう決めたから。ちゃんと伝えて、暁と同じところに立ちたい。 「わたしもね、同じなの」 「……え?」  怪訝そうな顔でこちらを見ている夕に、心の中でごめんねと呟く。 「わたしも暁に隠してたことがあるの」  もう止まれない。  わたしは改めてしっかり夕に向き合った。 「わたし、男の人を好きになれないんだ」 「え……そうなの?」 「うん。男の人に恋愛感情持てないの。女の人が好き」  もうすでにそれを知っているハルが隣にいてくれたからか、思っていたよりすんなり言葉が出た。そして、思ったより自分で辛くない。 「でもね、親から結婚して子ども持つことを当たり前のように期待されて、ずっと、そうしなきゃ、って思ってきて、でも男の人とそういう関係にはどうしてもなれなくて、すごく悩んでた時に、暁に結婚しようって言われて」  話し始めてしまえばその後はそれほど苦もなく言葉は流れて、自分が言うべきことはすぐに見つかった。 「わたしも、そしたら謝らなきゃ。暁を利用してたみたいになっちゃってごめんなさい」 「そんな、奏ちゃん、やめてよ」 「でも、わたしも暁とか、夕とか、おとうさんもおかあさんも騙してたことになるよね」  事実を事実として伝えているだけなのに、一つひとつの事実がこんなに重たくて、こんなに苦しい。自分が持って生まれた性質がどうしてこれほど後ろめたいのか、黙っていただけで誰かに謝らないといけないものなのかと、一度築き上げた覚悟がほろほろと崩れ始めてしまう。 「セクシュアリティをカミングアウトしないことは、騙してる部類には入らないと思うけどね」  わたしの弱気モードに気づいたのか、ハルがはっきりとした口調で口を挟んだ。 「でも」 「そうやってクローゼットで社会にうまく溶け込んでる人いっぱいいるけど、じゃあその人たちみんな嘘つきで人を騙してる、っていうふうに思う?」  既視感……じゃ、ない。これは確かに、一度した会話。 「そこはね、私は、自分のセクシュアリティを言うか言わないかは自由に選ぶ権利があると思ってるよ。誰でも」  夕べさんざんハルが力説してくれたこと。何度も、何度も、わたしの選択が間違ってはいなかったと伝えてくれた。それを聞いて、わたしは確かに救われたと思ったのに、長い間ずっと苛まれたこの負い目からは簡単には逃げられないということか。情けないな。 「ただ、私も当事者ではないから想像でしかないけど、レズビアンとかゲイとかと違って、トランスはきっととてつもなくしんどいんだろうな、とは思う」  確かにそうだ。性的指向が同性だというだけでこれだけ苦しいのに、性自認に違和があったら、その苦痛はシスの自分には想像もできないほどだと予想がつく。そんな思いを、暁はずっとひとりで抱えて生きてきたのか。 「もちろん個人差あるし、感じ方も人それぞれだろうけどさ、普通に考えたらトランスはしんどいよ、きっと」  どうして気付いてあげられなかったんだろう。親きょうだい以外では、わたしが一番近くにいたのに。わたしが一番理解してあげなきゃいけなかったのに。 「私も、暁ちゃんが生きてるうちに言ってくれてればな、って思った。そしたら、女3人で楽しくショッピングとか行きたかったな」 「そうだよね……」 「いっぱい、話したかったし、いっぱい、いっぱい……もっと、一緒にいれたのに……」  どんなに理解したくても、どんなに深く知りたくても、暁とはもう会えない。こんなに後悔しても何ひとつ挽回できないなんて。 「夕も、しんどかったよね。ずっとひとりで抱えて。そんな大事な手紙託されて、ずっと辛かったよね。ごめんね、ひとりにそんな思いさせてて」 「あたしなんて……なんにもしてないよ……できなかったよ……」  「そんなことないよ。ずっとこの手紙守ってくれてたじゃん。ありがと。夕がいてくれてよかった。暁ちゃんも、私も、奏も、みんな、夕に救われたよ」  ハルの言葉でホッとしたみたいに夕が頷いた。  ハルはすごい。ハルの話し方や声には全然下心や邪心のような裏がなくて、心からの本音に聞こえる。言葉がまっすぐ、どこにも寄り道しないで、何にも染まらないで目的の場所にたどり着く。いつでも取り繕って、その場で何を言えば一番丸く収まるか無難に済むかを計算しまくっているわたしとは大違いだ。  言葉を扱うプロとして、言葉で何かを伝えることを生業にしている者として、ハルの話し方は多くのことを考えさせられる。 「いやでもほんと、すっごいね!」  突然、ハルが大きな声を出して、その場の空気が大きく変わった。 「だってさ、考えてもみてよ。セクシュアルマイノリティの比率ってさ、クラスに1人か2人いる程度でしょ。それがさ、幼馴染5人のうち3人が当事者って!!」  あまりに嬉しそうに言うので、わたしもつい、それまでの暗澹たる気持ちを一瞬忘れてハルの言葉に引き込まれた。 「もぉーすっごいよね。奇跡だよ!」  割合から見れば本当にそうだ。よりによってわたしたち3人が当事者だなんて。 「あはは、すごい。ハルちゃんのスーパーポジティブ、今でも健在なんだね」  良かった。夕にも笑顔が戻った。  どれだけ心細かっただろう。暁がこんなことにならなければ、これからもずっと、黙ってこの手紙を持ち続けているつもりだったのかな。そんなきついこと、わたしだったら耐えられないかもしれない。  奇跡。  そんなふうに思えたら、これは嬉しいことのように思える。ハルの言葉が、この重たすぎる事実を一瞬でポジティブな印象に塗り替えてしまった。すごい。  本当に3人で、きっと、支え合って楽しく行きていけたかもしれない。もしかしたら、夕や紘太も一緒に笑って、そうなれば親たちだって、みんなで、うまくやっていけたかもしれない。  そんな未来もあり得た。   「あのね、あとね、まだ渡したいものがあって」  ようやく落ち着いた様子の夕が、テーブルの上に置いてあるいくつかのものに手を伸ばす。 「えっと、手紙はもう渡したから、あとはまずこれね、お兄ちゃん、あ……えっと、そっか、お兄ちゃん、じゃないんだよね、お姉ちゃん、って言うのもなんか、ちょっと、慣れないから微妙なんだけど、じゃ、じゃあ、名前でいいや、暁ちゃんね、これ、暁ちゃんの指輪なの。結婚指輪」  そう言って、木製の小さな手のひらサイズの箱を手渡してくれた。箱の蓋が半分ほど開いていて、中に、ちゃんとクッションに固定されたリングがあるのが見えた。 「暁ちゃん、結婚式の時以外一度も着けたことなかったんだけどね、わたしにこの手紙託してくれる時に指輪も一緒に持ってきて、これ、サイズ直したからハルにあげたい、って言ってた」  わたしが受け取った小箱を、ハルがじっと見つめている。  ほんの小さな箱だけど、その中に詰まっているものはとてつもなく大きくて重たくて、ものすごく尊い。暁のものだけど、わたしにとっても宝物のようなものだ。 「結婚指輪なんだけど、でももう自分にはこれ着ける資格ないし、気が早いけどもしもの時は形見としてハルにあげたい、って。奏とハルでお揃いで持ってて欲しい、って」  そんな準備をしていた暁は、どんな気持ちでいたのだろう。どういう覚悟で用意したのだろう。 「こんなの……受け取っていいのかな……」 「わざわざサイズまで直したんだよ。それでハルちゃんと奏ちゃんにお揃いで持ってて欲しいって言ってるんだもん、受け取ってくれなきゃ困るよ」  わたしの手に乗った不思議な模様の入った美しい小箱を、大切そうに、愛しそうにそっと撫でるハル。少し困ったような、でも、なんとなく嬉しそうな、複雑な顔をしている。 「……そういえば前にパリで会って、食事ついでにジュエリーショップちょろっと寄った時に指輪のサイズ訊かれたことあった。もしかして、その頃にはもう……」  この指輪は、結婚することが決まってからふたりでお店に行って選んだ。わたしは別になくてもいいと思ったのだけど、暁が買おうと言い張った。  それで結婚してみれば暁はいつも指輪をしていなくて、ある時、どうして指輪をしないのか訊いてみたら、飛行機移動や徹夜が多いから浮腫んで抜けなくなるから外してる、と言っていた。  わたしと暁のふたりで買ったのに、そのひとつをわたしたち夫婦以外の人にあげたい、と言われたらそれはそれなりに複雑で、普通に考えれば手放しで「いいよ」とは言えない気がする。  でも、その相手がハルで、暁からのメッセージを受け取ってしまったら、これは本当にハルが持っていなくてはいけないような気になる。 「わかった。じゃあ、大切にするね」  夕が伝えてくれた暁の「形見」という言葉を持ち出さなかったハルの気持ちを、わたしは見逃さなかったし、忘れないようにしようと心にしっかり刻んだ。 「あとね、これ。これは奏ちゃんに内緒で暁ちゃんが入ってた生命保険。これも、もしもの時は奏に渡してくれ、って言われてて」  夕が差し出した大きな封筒に書かれた保険会社に見覚えはなくて、本当に暁が独断で、わたしに知らせずに加入していたのだろう。 「奏ちゃんが受取人になってるよ」 「こんなの、受け取れないよ」  単純に、暁の命をお金で割り切るみたいな感覚があって、保険金という存在に抵抗がある。無知だし経験もないので、暁の永遠の不在がもたらした現金というものに簡単に手を伸ばせない。  次から次へと、どうしてこんなに驚くような展開が待っているのだろう。 「でも暁ちゃんは奏ちゃんに遺すために入ってたんだと思うよ」 「でも」 「いいよ、これをどうするかは奏ちゃんが決めて」  そうか。わたしが今までずっと事なかれ主義を徹底して無難に過ごしてきたツケが回ってきたのかもしれない。溜まりに溜まった大ごとがとうとう溢れたのだ。そうとしか思えない。 「やっぱり受け取れないよ」 「でもあたしが持ってるわけにもいかないから」  完全に押し問答になってしまって、お互い、引き際を見失っている。埒が明かない。そのやり取りを黙って見ていたハルが、痺れを切らしたように大げさにひとつ呼吸をしてから口を開く。 「わかった。奏、受け取っときなよ。んでさ、取っとこう。使わないで。それで、もし暁ちゃんがいつか元気な姿でひょっこり帰ってきたらさ、暁ちゃんが女性として性別移行するために使おう。服買ったり化粧品買ったり、必要なら治療とか手術とか、きっとお金要ると思うからさ。その時のために取っとこう!」  たぶん、理論としては破綻している。暁が帰ってくる可能性はゼロに近いし、もし暁が帰ってきたらこのお金は受け取ってはいけないはずのものだ。でも今、ここで、そうでも言わないと全員が納得できる落としどころが見つからないのだとハルは判断した。それで、無理やりそんな案を捻出したのだろう。  またハルに助けられた。 「うん、そうだね。じゃあそうする」  せっかくまとめてくれたこの場の空気を再び壊すのが嫌で、ハルの意見を受け入れた。それで夕もやっと安心して納得してくれたようで、結果的にはハルの策が功を奏した。やっぱり、敵わないな。 「じゃあ、はい。これ。手続きの内容も全部中に書いてあるから」 「ありがとう。じゃあ、預かります」  そうだ。預かるのだ。もらうのではなく、わたしとハルで、一旦預かる。いつか、暁のために使う日が来るまで。 「いや、ほんと、楽しみになってきた!」  またいきなり大きな声を出したハルを、わたしと夕でびっくりして振り向いた。  状況と情報と展開に翻弄されてまだ混乱しているわたしと違って、ハルは相変わらずマイペースに落ち着きを取り戻していて、それにつられてわたしもなんとなくいろいろと大丈夫な気になってくるから不思議だ。 「あはは。暁ちゃん、帰ってきたら大変だね、こんなやる気満々のハルちゃんに何されるかわかんないね」  夕も、暁によく似た優しげな表情で楽しそうに笑った。  本当は、暁が帰ってくる可能性なんてほとんどないと、みんな痛いほど分かっている。それでも1%以下でも可能性があるなら、待ちたい。願いたいのだ。 「任せてよ! もう色々考えてるから。暁に似合う服とかさ、もうやりたいこといっぱいあるなぁ」  そうか。暁はもし生きて戻ってきたら、その時はわたしの夫としてでは、男性の暁くんとしてではなくて、女性の暁さんとして生きるのか。  まだ実感がなくてふわふわとイメージが不安定だ。 「奏ちゃん? 大丈夫? やっぱり急に全部は、受け入れられない、よね」  しまった。余計な心配をかけた。そうじゃない。受け入れられないことは全くないのだけど。 「んーん、大丈夫。全然平気。違うの、なんかね、色々、腑に落ちたことの方が多くて」 「え、そうなの?」 「うん。わたし男の人ダメなのに暁とは結婚しても大丈夫だったの、そういうことだったのか、とかさ」  真実を知った今はそう思えても、暁がいた頃には全然気づけなかった。暁が巧みだったのか、わたしが鈍すぎたのか。しかもわたしもタイプは違うけどセクシュアルマイノリティ当事者だというのに。 「暁が本当は女性だったなんて、今思えば、すごく納得というか、良かったな、とか、そんなふうにも思えて」  同じように知らなかったハルがどんな顔をしているのかと気になってちらりと見てみると、ホッとしたような、苦しいような、ものすごく微妙な読み切れない表情でじっと黙っていた。  わたしがここに来る前、夕とハルで泣いていた。たぶん、この手紙を読んだから。  どうして泣いた?  悲しかったから?  悔しかったから?  ショックだったから?  本当のことを知って、そしてもう取り返しがつかないことがわかっていて、残されたわたしたちで今更嘆き悲しんでも仕方がない。  暁がこうして明るく前向きな温かい手紙を残してくれたのだ。  だからわたしは、暁の元妻として、幼馴染の中での年長者として、暁のメッセージをしっかり受け止めてみんなを守りながら引っ張ってあげないといけない。それがわたしの役目だよね。  ね?  暁。 「やっぱりちゃんと話したかったな、暁と」  ずっとやってきたことだから、慣れている。当たり前になっていて、これからもそうしていくつもりで。 「戻ってきてほしいね。帰ってきてほしい。暁に」  わたしが、みんなのことを。 「そうだね。本当の暁ちゃんと話したいね。ちゃんと本来の性に戻った、女性の暁ちゃんと」  良かった。やっとハルにも普段通りの笑顔が戻った。やっぱりわたしが頑張ってみんなを守ってあげないと。今まで通り、こんなふうにおねえちゃんとして、しっかりみんなのことを……  その時、リビングのドアがものすごい音を立てて勢いよく開いた。  息が止まりそうなほどびっくりして、みんなで振り向いて。そこに立っていたのは、元義母。  なんで。時間、もっと、まだ、そんな。 「あなたがたは一体何の話をしているの?」  到着予定の時間までまだ30分以上あるのに。 「何の、誰の話をしているのかと訊いています」  言葉ヅラだけはいつも通りに冷静だけど、見たことがないような怖い目をしている。  マズい。どこから? どこから聞いていた? 「暁が女性? 冗談じゃない。暁は男です。ふざけたこと言わないで!」 「お母さん、ちょっと落ち着いてよ」 「あんたは黙ってなさい」  怒鳴るわけでも叫ぶわけでもないのに、どうしてこの人の言葉はこんなに相手を萎縮させるのだろう。不気味なほどの静かなる攻撃性が、自分の思考や発言から正当性をじわじわと削り取っていくようで、ものすごく怖い。 「暁は男として生まれて男として死んだの。それ以上でも以下でもないわ。暁は男です!」 「でも……」  なんとかして暁の名誉を守りたくて、反論の隙を探す。でも鉄壁はビクともしなくて、わたしの声はあっけなく跳ね返された。 「あなた、何が目的なの? 暁をバカにするのもいい加減にして」  こうやって、暁の声も封じられてきたのか。同じ土俵に上げてさえもらえないのか。 「お母さん、もう、やめてよ」 「いいから黙ってなさい。あんたまで一緒になって、一体何がしたいの、何が目的なのよ」 「お兄……暁ちゃんのこと、なかったことにしないでよ」  また、夕が泣いている。せっかく持ち直していたのに。 「なかったこと……? 何があったと言いたいの? 何があったというのよ、何もなかったわよ、暁は一ノ瀬家の長男です。ただそれだけよ」  何も響かない。何も、届かない。  あまりに不毛すぎて思考が停止しそう。 「なんだかあちこちで、今、流行りなの? 性自認だとかなんだとか、そんなもの、気のせいですよ。勘違い。暁は生まれてから死ぬまでずっと男でした。疑う余地なんてありませんよ」  完膚なきまで、って、こういうのをいうのだっけ。  3対1で、これ? 「もう話は終わり。どうぞ帰ってください」 「え、でも……」  帰りたい。今すぐにでもここを立ち去りたい。でも、そもそもわたしどうしてここに来たのだっけ、と思い出してみて、それがこの元義母との約束だったことに気づいてまた気持ちが落ちる。 「あ、ああ。そうね、奏さんを呼んだのはこちらだけど、でももういいわ。暁のお墓の相談をしようと思ったのだけど、もうあなたの意見は言っていただかなくて結構です。もうこちらで決めてあるので、あなたはもういいわ」  本当は元義母との約束なんてもうどうでもいい。用件なんて、わたしにはもう関係ない。ただ、これで話が終わりだと言われたのが納得いかなかっただけだ。  暁の、生きた足跡を、汚れた靴の裏でササッと蹴散らされて粗雑に消去されたような気がしたから。 「お母さん、奏ちゃん、家族なんだよ?」 「元、ね。今はもう違いますよ」 「そ……」 「子どももいないんだし、あなたも晴れて自由の身でしょ。男作ろうが他の方と再婚しようが、どうぞお好きなように」  期待? そんなものしていなかった。最初から。  同情? 大切な人を失った者同士、分かり合えるほどではないにしても、もう少しなにか、同調というか、通じる気持ちがあるかと思っていたのに。  あまりの言い様に、立ち向かおうとしていた気持ちが一気に萎えていく。  本当になにも、共通の感覚がなにひとつないのだと思い知る。  暁。ごめん。  やっぱり無理だった。 「ちょっと待ってよ」  突然、それまでずっと黙っていたハルが暁の母親に向かって声を発した。 「ハル、ちょっと……」 「いいから」  いつも温和で朗らかなハルの雰囲気が、見たことがないほどぎすぎすしていて、今のこの状態の元義母と対峙させるのは良くない気がした。 「なあに? あなたは、部外者でしょう」 「私は暁ちゃんの幼馴染で親友だし、無関係ではないです」  ハルがきっぱりと断言した。  すごい。ものすごい自信満々で頼もしいけど、状況的には益々良くない気がした。 「それと、どうしてあなたが暁ちゃんの性自認を否定するんですか」 「どうして? そんなの、私が暁の母親だからに決まっているでしょう。私が暁を男として産んだの。性自認なんてただの妄想よ。暁は男です」  ハルの強気に対して元義母がさらに苛立ちを募らせて行っているのがわかる。空気がビリビリと張り詰めて、肌が粟立つ。 「あなた、情報誌の編集長だったんでしょ? よくそんなんでそんな仕事務まりますね。性自認というものがどういうものかもわかんないで、よく情報発信とかしてましたね」  どう聞いてもハルの方が正論で、まともだ。  でも、わたしも少し畑は違うけれど業界にいて、暁からも少し聞いたことがあって、出版業界も普通の感覚ではやっていけないことは知っている。編集長でもそうだし、そこから社長にまでなった人が常識的なわけはないと、もうわかっている。情報の正誤は置いておいて、着眼点や発想、思考回路や論点が突飛で強烈なのは業界あるあるで、そこまでの人でないと務まらない。  それが身内だということだけが悲劇なのだ。 「暁ちゃんは自分の手で、はっきりと言葉を残してます。あなたならその文字が暁ちゃんの筆跡だってわかりますよね。なんたって母親ですもんね。それで、その暁ちゃんの言葉を勘違いだの妄想だのって言えるの? 本当に?」  ハルがテーブルの上の便箋を手に取って暁の母親に見せるように差し出したけど、彼女はそれを絶対に視界に入れないように、つまり完璧にスルーした。 「そんなもの信憑性のカケラもないでしょう。勘違いよ。思い違い。きっと誰かに何か吹き込まれ……あなた、まさか……」  ハルに向けられていた敵意が、いきなりこちらに向かって投げつけられた。 「あなた、余計なことを暁に何か言ったりしてないでしょうね!?」  おそらく、とんでもない疑惑をかけられている。わたしが暁に何か吹き込んだのだと。  そんなひどいことを言われているのに、わたしの心情は驚くほど落ち着いていた。 「性自認は誰かに何かを言われたからといって簡単に変えられるものではないですよ」  自分でもびっくりするくらい冷静に、ただ、知っている事実だけを吐き出した。なにも、揺るがなかった。元義母の苛立ちも、夕の動揺も、ハルの怒りも、全て目の前にはっきりとあっても、わたしは大丈夫だった。  だってわたしはおねえちゃんだから。 「自然に、生まれながらにして持っている感覚です」  わたしはひとりじゃない。  暁がいて、ハルがいて、夕もいる。みんながわたしを頼って、そして助けてくれる。  だから、大丈夫。 「あなたが当たり前のように自分を女性だと思っている感覚、おとうさんが自分を男性だと思っている感覚、それが性自認です。それが、暁は、女性だった。ただそれだけです」  本当にそれだけのこと。トランスジェンダーだけが持っている感覚でもない。誰もが当たり前に、生まれながらに持っている感覚。男だろうが、女だろうが、どちらでもあろうがなかろうが、中間だろうが、両方に揺らいでいようが、自分のジェンダーに対する自認。それが性自認だ。 「だからどうしてあなたがそれを勝手に決めるの? 暁は生まれつき男性なのに」  これは、ここまで説明しても通じないのか。もしかして、本当にこれは不可能なのかもしれない。 「わたしが勝手に決めたわけではないです。暁が、自分で、そう思ってるって書いてあるのに」 「気の迷いね。一時期の、気の迷いよ」  やっぱりダメか。ダメなのか。ここまでしても。  これが、暁が生まれ育った家庭。  暁を育てた親。  暁はここで生きていたのか。ずっと、ひとりで。  暁。 「暁ちゃんがどうして性別違和をひとりで抱え込んでたのか、わかりますか」  ハルが立ち上がって、そっと一歩前へ踏み出した。 「暁ちゃんは優しいから、自分がトランスジェンダーだって知った人がショック受けたり悲しんだりするのが嫌だったんだと思いますよ。一度それとなく伝えた時、あなたがたは暁ちゃんの主張を拒絶した。受け入れなかったんでしょ。それ以来、誰にも言わずに隠し続けた。周囲の人を傷つけたくなかったんだと思う。だからずっとひとりで、ひとりだけで誰にも言わずに抱え込んできた」  暁の母親はもう、ハルを見ていない。気に食わなさそうな顔をして、じっと外方を向いている。 「奏と結婚したのだって、あなたたちの期待に応えたかったからでしょ。一ノ瀬家の長男として責任取ろうとして、きっと頑張って結婚したんでしょ」  そうだった。  確かに暁は、頑張っていた。  いつも一生懸命だった。なんでも頑張っていた。  真面目な性格なんだろうな、なんて呑気に思っていたけど、もしかしたらあれは、ただ頑張らざるを得なかっただけなのかもしれない。 「そういう暁ちゃんの気持ち、想像できませんか」  絞り出すようなハルの言葉。苦しげで、切ない。 「想像、してよ……母親でしょ……」  強い目で暁の母親を睨みながら、その大きな目からボロボロと大粒の涙を零している。  ああ、大変。ハルが泣いている。  わたしがなんとかしなければ。 「暁ちゃんは、あなたの……一ノ瀬家の所有物じゃないよ……」  なんとかしなければと思うのに、身体が動かない。 「他の人たちと全く同じ、尊重されるべきひとりの人間だよ……」  大丈夫だよと、泣かないで、と声をかけて、ハグして、頭を撫でて背中をぽんぽんして、やってあげられることはいっぱいあるのに、力が入らず、動けない。 「言いたいことはそれだけ?」  ハルの涙がテーブルに落ちる音だけが聞こえる空気の冷え切った室内に、聞いたことがないほど冷徹で空虚で無意味な言葉が放たれた。  その瞬間、わたしは今まで話してきたこと、伝えようとした努力、全てが無駄になったのだとわかった。  これだけの言葉が、ハルの叫びが、通じない。全然響かない。  もう、無理だ。 「いいよ、奏。帰ろう」  わたしが言おうとしたセリフを、先にハルが口にした。全く同じ気持ちだったわたしは、黙って頷くと荷物を片付け始めた。 「ハルちゃん、ごめん、ごめんね……奏ちゃんも……」 「んん、謝んないで。夕は何も悪くないよ」  ハルがそっと手を伸ばして、力なくだらりと下がっている夕の手にそっと触れた。わたしたちはこんなに通じ合っているのに。でも、それだけが救いだ。 「あ、そうそう。あと、暁の遺品のことだけど」  その口調は嫌味なくらいいつも通りで、わたしたち3人が絶望の果てまで蹴落とされて悲しみに包まれていることが全く伝わっていないのだと思い知らされた。  本当に、本当に、ここまで分かり合えないとは。 「あの子、あんまり物持たない子だったからたいしたもの残っていないのだけど、まぁガラクタみたいなものばっかりで良ければ後であなたのところへ全部お送りします」  業務連絡。  そうだ。これはただの、業務連絡。会話ですらない。  そう思えばこの腹立たしさも少しは軽減するか。 「それでいいかしら」 「……はい」 「要らなければそちらで適当に処分していただける?」  処分。  適当に、処分?  我が子の残したものを? 「本当はここで色々見て選別していただこうと思ったのだけど、そんな気分じゃなくなりました」  粟立ちが激しくなって、力が入らないのに足腰がこわばって小さく震えた。 「早くお帰りになって」  ちゃんと立てるか心配だったけど、クソみたいな掃討の言葉を投げつけられて、あっさり力を取り戻した。 「さようなら」  相も変わらず、冷酷で、無慈悲で、心のない言葉。  もしかしたら本当に二度と会わないかもな、と思う。でももういい。それで。 「行こう、奏」 「うん」 「夕、またね」  この場に夕を置いて去ることが心残りだけど、でもここは夕の家でもあるのだし、これからどうするかは夕が決めるしかない。 「ハルちゃん、これ、全部持ってって」 「うん、ありがと」  手早くまとめてくれた荷物を、ハルが受け取ってバッグへ押し込んだ。  わたしもハルも、暁の母親へは別れの挨拶もしないで部屋を出た。  親から、礼儀正しくしなさい、挨拶をしっかりしなさい、としつけられて育った。でも、今はそんなことはどうでもいい。  挨拶をしなかったことに罪悪感も後悔もなにもなかった。  怒涛の展開で、なにか、忘れていることがある気がした。でも、そこにたどり着く余力がもうない。  わたしの手をしっかり握ってくれているハルの手だけが、今わたしが現実を生きている確証で、ただ、ただただ、優しい。  逃げるように一ノ瀬の家を出て、家に帰る。  そうだ、帰る。帰るのだ。ハルとわたしの家に。  何もかもが衝撃的で、何もかもが夢うつつで、何もかもが残酷な現実で、全て、事実。もう本当に頭がおかしくなりそうで、言葉が見つからない。  ハルもたぶん同じ。何も喋らない。ただ、黙々と歩き続けている。  胸の中にずっとあったトゲトゲの種みたいなアレは、いつの間にかトゲがなくなって丸くなったけど、全部がひとつにくっついてまとまって、巨大な石みたいにズシリと重たい。  今、口を開いたら、この場の空気を取り繕うみたいな安っぽい嘘が止めどなく飛び出てきそう。それなら、黙っていた方がマシ。どんなに重苦しい沈黙が続いたとしても。  喋るのが仕事のわたしから言葉を取り上げたら、もう何も残らないじゃん。わたしが存在する理由、なくなるじゃん。でも、もうどうしようもない。  梅雨の時期特有の分厚い雲が押し迫っているみたいに垂れ込めていて、頭のすぐ上まで蓋をされているみたいで、余計に息苦しい。湿気た空気に、溺れてしまいそう。  早く帰りたい。  ハルとわたしと暁の家に。  今日は行きも帰りもひとりだと思っていたけど、違った。  帰りはひとりじゃなかった。
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