18 最悪なプレゼント

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18 最悪なプレゼント

 一晩寝て起きたら全て夢でした、とか、そんな物語は世の中に溢れていて、ついそのパターンを期待してしまう。  でもそれはもうあり得ないのだとわかっている。  今日知ったことは全て現実で、本当で、もう変わらない事実。そしてそれを知らずにわたしがやらかしてきた振る舞いももう消せない過去。  誰かひとりのことではない。それぞれに事情があって、それらが複雑に絡み合っていて、ひとつ片付ければ解決、という話ではない。  それになにより、(あき)はもういない。  もう挽回はできないのだ。  ほとんど何も喋らないまま家に着いて、なんとなくそれぞれの部屋に入った。何を話していいかわからなかったから。  それに、ハルの機嫌があまり良くない気がした。  いつもにこやかでポジティブなハルが、見たことがないほどじっと黙り込んでいて、少し怖い。  本当は、ハルと話したかった。ハルが思っていること、ハルが考えていることを、聞かせて欲しかった。自分の中に渦巻くこの感情をハルと共有してもいいのか知りたかった。ひとりでは到底抱えきれそうにないぐちゃぐちゃの気持ちを、ハルにも知っていて欲しかった。  ハルの気持ちは、わたしのとは違うの?    暁。  話を聞いて。暁と話したい。  会いたい。  どうすれば会える?  どうやったら話せる?  心細くてたまらなくなったわたしは、自室を出て、隣の暁の部屋に入った。  壁に飾ってある写真を眺める。ゆっくり、ひとつずつ。    小さい頃の暁。  一番年上のわたしが小学校に入ったかどうか、くらいの年齢。3人並んで座って、スイカか何かを食べている。  少し歳の離れたハルの口の周りがいちばん汚れていて、それなのにいちばんニコニコの笑顔が、可愛くてたまらない。そして、その小さいハルを見守る暁の表情が優しい。  暁。ごめんね。  わたし、何も知らなかった。何も気づかなかったよ。それで、無神経なこといっぱい言っちゃったね。  ネクタイなんてプレゼントして、知らず知らずのうちに暁に夫の立場を求めちゃってたね。  クローゼットを開けて、片付けたばかりの暁の服に触れる。  こんな男物の服、着たくなかっただろうに。いくらユニセックスっぽい服ばかり選んでいたとは言っても、やっぱりサイズも構造もメンズで、本当はもっと違う服が着たかったんだろう、と思うと、切なくて涙が出た。  ほんの数枚残されていた下着もダークカラーのボクサートランクスで、これもきっと不本意だったのだろうな、と思う。  それから、わたしがプレゼントしたネクタイも。こんなもの、あげなきゃよかった。本当に最悪なプレゼント。最低。  もっといっぱい、話せばよかった。たくさん話せばよかった。それで、もっとお互いをよく知って、お互いを思い合って、お互い納得して、ちゃんと離婚すればよかった。  夫婦じゃなくて、世界一仲良しな幼馴染に戻ればよかった。  ちゃんと本当のことを伝え合っていればもっと良い関係になれたかも知れないのに、それができずもう会えなくなってしまった。  後悔、悔しくて、懺悔、懺悔、どんなに懺悔してももう暁まで届かない。  苦しい。もう一度会いたい。  こんなもの、ここに大事にとっておいても何の意味もない。いや、意味がないどころか、暁にとっては見たくもないものかもしれない。それなら、全部処分してしまった方がいい。  わたしもこれを目にする度に、暁の苦しい思いをまた想像してしまう。やっぱり捨てた方がいい。全部。 「……(かなた)」  突然、半開きになっていたドアからハルが顔を出した。  しまった。こんなところで泣いて。ハルに泣き顔を見せるなんてナシだ。 「……奏? ……入ってもいい?」  ダメ、と、一言返せばいい。それだけで済む。なのに、言えない。 「いい?」  「ん……」  ハルに背を向けたまま、こっそりと涙を拭う。  泣いていたことに、どうか気付かれませんように。   「あの、さ。これ。暁ちゃんからの手紙。奏宛の。さっき渡せなかったから」 「ん、ありがと……」  ハルの方に顔を向けないようにして手だけを伸ばして、手紙を受け取る。  用が済んだら出て行ってくれるかな、と思ったのだけど。 「奏、それ、何してんの」  やっぱりダメだったか。  それ、というのがなにを指しているのか。 「暁ちゃんの服、どうすんの?」  やっぱり気付かれていた。そりゃそうか。 「……ん? あー、これね。こんなのさ、とっといてもしょうがないじゃん。こんな男物なんて暁の趣味じゃないだろうし。だからもういらないかなーと思って」  言い訳がましいよな、と思うけど仕方ない。実際、言い訳なのだし。 「捨てるの?」 「……ん、そ……しよっかな」  声が、震えた。  芝居しろ。こういう時くらい本気出せ。  いや、本気出してもヘタクソなんだった。 「奏」  背後からハルが手を伸ばして、わたしが持っている暁の服をそっと押さえた。 「捨てることないと思う」 「……でも、男物の服なんて、暁は」 「それは、暁ちゃんの、思いやりなんじゃないかな」  ごまかして、嘘や見栄で適当なことをほざいているわたしとは違って、ハルの言葉はやっぱり真摯で重たい。聞き流せない。 「暁ちゃんが奏を大事に思ってたから、奏を傷つけたくなかったから、奏からもらったものも大事にとってあったし、奏の夫として頑張ってメンズのもの身につけてたんだと思う」  暁が抱えていた真実と、わたしの無知でバカな言動と、その結果ここに残されたもの。それらが微妙に歪んでぶつかり合って、不快な不協和音を発する。  モヤモヤして、なんと言えばいいのか言葉が見つからない。 「だからそれは、暁ちゃんの思いやりなんだと思う」  ハルの言っていることはわかる。その推測はたぶん正解で、でもそれを認めたら、わたしが暁に対してしていたことの非道さがさらに浮き彫りになる。 「奏が勝手に捨てたら、暁ちゃんがかわいそうだと私は思う」 「でも、もし、暁が帰ってきたら……帰ってきて、これ見たら、やだなーってお、思うかも、しれないから」  暁のためにとか、暁を思ってとか、口先でばかり上っ面だけの思いやりを振りかざして、その裏ではわたしは、自分がしたことから逃げている。暁を傷つけた自分の言動を、ただ、消し去りたい。なかったことにしたい。 「そしたらその時に一緒に捨てればいいじゃん」 「それなら今捨てても同じだよ」 「同じじゃないよ」  勝手なことをしている自覚はある。でも、やっぱり捨てたい。  もう、ハルの言い分を聞いていたら何も進まない。うだうだ言われる前にとっとと捨ててしまえばよかった。  わたしは手にした下着やネクタイを、ハルの手を払うようにしてくしゃっと丸めて、ゴミ箱に入れようと持ち上げた。 「奏」  うるさいな。横槍、入れんな。 「奏、やめて」  もう決めたんだから。捨てるって。  決心鈍るから、口出ししないで。 「奏!!」  いきなり、持っている衣類ごと両腕を掴まれた。  手から(こぼ)れた下着が数枚、バラバラと床に散らばる。男物のパンツまみれでこんな押し問答、間抜けすぎ。 「離して」  言いながら、手を振り解こうとしてみたけど、全然動かない。わたしは両手、ハルは片手なのに。わたしがお尻で座っていてハルが膝立ちだからかな、と思ってわたしも立ち上がろうとしたのだけど、その背中にハルがドンとのしかかってきて、ますます動けなくなった。 「ちょっと、ハル。重い。どいて」  全然聞いてくれないので、無理やりそこから抜け出そうと、もがく。  でも、腕も解放されないし、のしかかる重さもわたしでは退けられない。  なんで、こんな。  ひどい。抑え込みなんて。 「ハル! ちょっと……」  ジタバタと、無理だとはわかっていても、それでももがいて、なんとか抜け出そうとする。  手が片方、自由になれそうかも。  そう思ってもっと力を入れようとしたら、一瞬でその自由が完全に奪われた。  何が起きたのかわからなくて、その手の状態を目視で確認して、愕然とした。  手の中にあったはずのネクタイで、わたしの両手首とハルの片手がぐるぐるに巻かれて縛ってあった。そして両腕は頭上に高々と持ち上げられている。 「な、に、してんの、ハル!」  手で掴まれていた時よりもっと動けなくなっている。 「ハル! ちょっと、これ、()ってよ!」  真上に上がった腕に力が入らなくて、思うように抵抗できない。  どうしてここまで反対するの。 「ねぇ……なんで……」  そういえば一ノ瀬の家から帰る時、ハルはずっと機嫌が悪かった。その理由はわからなかったけど、もしかしてその機嫌の悪さがまだ続いていて、その結果がこれということ?  でも、わたしがその不機嫌の矛先になる理由はやっぱりわからない。もしかしてわたしが何かハルの気分を害することをしてしまったのかと思い返してみても、それでも思い当たることはない。  こちらも手が尽きて、さてこれからどうしようかと途方に暮れていたら、突然ハルが縛った腕をグイと引っ張って、大きく体勢が変わった。  ちょうど真横にあったソファの側面に背中を押し付けられて、上げていた腕はそのまま背もたれの上に固定されてしまった。  背後にいたハルが正面になって、何を考えているのかわからなかったハルの顔がようやく見えた。  その顔は、想像していたどの表情とも違っていて、まるで知らない人かと錯覚するほどで。 「……ハル?」  相変わらずくりくりの目はしっかり開いていて、でも、すぐ上にある眉毛はほんの少しだけ歪んでいる。それはたぶん、眉間にキュッと力が入っているせいで、本来はもっとまっすぐキレイな形。唇の端もわずかに力が入っていて、唇の両端に小さな窪みができている。  苦悩、後悔、悲しみ、寂しさ、遺憾……そんな負の感情が入り混じった複雑な表情。でも、敵意や悪意ではなさそう。 「ハル。これ、(ほど)いて」 「だめ」 「なんで?」 「だって解いたら奏、これ捨てちゃうでしょ」  こんな状況下に不似合いなほど静かな問答が続く。  よかった。パニックとか暴走とか、そういうのではなさそう。言葉でのやり取りがまだ、成り立つ。 「……だってもういらないんだってば」 「いらなくないよ……」 「いらないよ」 「いらなくない。暁ちゃんの気持ち、捨てないで」 「そういうつもりじゃ」  会話はできているけど、お互い譲らないので埒が明かない。ハルの言っていることがなんとなく正しいことは頭ではわかるけど、そこにわたしの気持ちが添えない。 「暁ちゃんの服捨てたって、私と奏の罪悪感は消えないよ」  罪悪感。  私と奏、と言った。  ハルも感じているということ? 「……どういう意味?」 「それ見ると暁ちゃんに申し訳ないっていう気持ちが生まれてくるから、なくしちゃいたいんでしょ」 「それは……」  正解なような、不正解のような。でもきっと、この言葉以上のことがいろいろバレているんだと思う。 「みんなで、背負って行こうよ」 「背負う?」 「そう。言えなかった暁も、気づいてあげられなかった奏も、そんなふたりを助けられなかった私も、みんな同罪。同じだけ色々背負って生きてくの。これからも」  同罪。  やっぱり罪なのか。罪……。大きな嘘をついて、いろんな人に本当のことを隠して、騙して、コソコソと生きてきたから?  あれ、でも待って、ハルは違うのでは。ハルは、隠していないと言っていた。ちゃんと家族にもカミングアウト済みだと。 「あぁ、マイノリティであることじたいは別に罪じゃないよ」  罪じゃない?  そんなふうに思ってもいいの?  じっとわたしを見るハルの表情が優しくて、つい、期待をしてしまう。 「そうじゃなくて、私ら3人は揃いも揃って当事者のくせにいろいろ間違って、いろいろ失敗した。だからみんな、生き方ヘタ罪、ね。でも、その罪は全部、それぞれ自分に対して。暁ちゃんは暁ちゃんに対する罪だし、奏は奏、私は私に」  生き方下手罪。そんなふうに考えたことがなかった。ハルらしいポジティブな言い回しになんとなく救われる。 「だから、みんなで、その自分に優しくしなかった罪を一緒に背負って、3人で生きていこうって言ってんの」  じっと近距離から射抜くみたいな勢いで見据えてくるハルの視線をちゃんと受け止めたいと思うのに、今のこの体勢がそれをさせてくれない。 「いい?」  一緒に生きていこうって、3人で生きていこうって、そんなこと、いいに決まっている。反対する余地なんてゼロだ。でも、素直にいいよと答えるには、この体勢は過激すぎた。 「……(ほど)いて」  自分の中の何がこの状況に抵抗しているのか、自問を繰り返している。  動きを封じられていること。  両手を縛られていること。  上に乗られて、上方から見下ろされていること。  何が、いや? 「だめ」 「なんで」 「返事、もらってない」 「なんの?」 「捨てないって」 「それは……」  だから、体勢が、ちょっと。 「一緒に、生きて行くって」  状況と会話の内容と、受け止めなければいけないことが多すぎて、すぐに答えが見つからない。そうしているうちに、それまで自分の中に存在していた気持ちにも疑念のようなものが浮かんできてしまう。  一緒に、なんて、そんなこと。いいに決まっていると思った。思ったけど、よく考えてみれば、いつかハルに一緒になりたいパートナーができたら、そんな約束あっという間になかったことにされる。幼馴染の友情なんて、パートナーに勝てっこない。  そんなことになるなら、守れもしない約束なんて最初からしない方がマシかもしれない。 「解いて」 「だめ」 「お願い」 「だめ」  お尻をぺったり床につけて座っているわたしより、身長も高くて正座で座っているハルの方が、明らかに頭の位置が高い。  そこからじっと見下ろされて、その視線に絡め取られそう。  こんな顔、今まで見たことがない。  なんだか少し怖い。 「じゃあさ、わかった。私が捨てる」  業を煮やしたのか、ハルが仕方なさそうにため息をついてから言った。 「え……」 「奏はしなくていい、そんなこと」 「え、え。なに、どういう……」 「私が代わりに捨てるから」  冗談だよね、と笑ってしまおうと思ったのに、ハルの表情は冗談の気配は全くない。 「全部、私のせいにしていいから」  ハルが空いている方の手で、頭上に掲げられた衣類をまとめて持ち替えた。それから、床に落ちているものも同じ手で拾い集めて、ゴミ箱の方へゆっくりと腕を伸ばす。  暁は物をあまり増やさないようにしていたし、赴任先へ衣類をたくさん持って行ってしまったので、本当に、本当に残されたものは少ししかなくて。  だから、それを捨ててしまったらもう暁の持っていたものは残りわずかになってしまう。  不本意でも、嫌いでも、それでも暁のものなことは確か。  それを、手放すの?  捨てるの?  本当に? 「……だめ」  今までと正反対の言葉が漏れたのはほぼ無意識で、自分の口から出た言葉が驚くほど客観的に遠くから聞こえた気がして、焦る。  身体の内側から突き刺すような小さな痛みが全身に広がって、まるであのトゲトゲの種から外れた無数の針が身体中の毛穴から出てこようとしているみたい。それほど激しい粟立ちと、息が詰まるような苦しさと、身体の細胞がひとつずつバラバラに凍っていくみたいなゾッとする感覚。 「捨てないで」  あれほど捨てると言い張ったのはわたしなのに。 「捨てないでよ……」  本当はわたしだって、捨てたくなんかない。暁が使っていたもの、何一つ捨てたくない。でも、下着とかネクタイみたいに性別を象徴するようなアイテムはきっとトランスの暁にとっては忌むべき存在なはずで、ましてそれをわたしがプレゼントしたなんていう最悪の経緯もあって、どうしても消してしまいたかった。 「うん、捨てない」  ハルが、握っていた衣類をそっとわたしの膝の上に戻した。 「大事にしまっておこうね」  そうか。ハルを怖いと思った理由がわかった。  見透かされていたからだ。本心を、読まれていたから。  もう降参。無理だ。 「縛ってごめんね」  そっと囁いたハルが指先でネクタイの端っこをスルッと抜いたら、そのままの勢いで巻かれていた部分がクルクルときれいに(ほど)けた。そのあまりのあっけなさに、面喰らう。  がんじがらめにされた気がしていた。絶対に外れないように縛られていると思っていた。  こんなに軽く巻かれていただけだなんて。 「私は暁ちゃんの性自認を100%支持するけど、でも暁ちゃんが周囲の人たちを傷つけないためにクローゼット貫いた気持ちも尊重したい」  解放された腕を、ハルの誘導でゆっくり下げる。床まで届くか届かないかのところで、大きなハルの手に手の甲から包まれるように握られた。 「奏と同じだよね、暁ちゃん。自分は我慢してでも周囲の人を気遣って。ほんとそっくり。似た者夫婦」  温かくて、優しい手。  昔から何度も何度も、数え切れないほど触れた手。 「私はバカだからさ、嘘ついてもすぐバレるし、自分のことばっかり考えてるから気遣いできなくて周囲の人に嫌な思いさせたりするから」  ゆっくりとハルが自分の方へわたしの腕を引き寄せる。両手が、ハルの両脇を通り越して背面に回ったあたりで、腕のリーチに余裕がなくなって、身体がハルの方へ傾いた。  このままではハルに寄りかかってしまうかも、と思った時には、ハルの手がわたしの手から離れて背中に回っていた。 「だから、周囲の人たちの気持ちを優先できる奏も、暁ちゃんも、尊敬する。すごいかっこいいと思う」  笑顔も、泣き顔も、性格も、話し方も、何も昔と変わっていないと思っていたハル。  でもこれは全然違う。  優しいハグ。  能動的で、ちゃんと抱きしめようとする意図があるハグ。  なんというか……そうだ、昔は抱っこだった。わたしがハルを抱っこしていたイメージ。ハルも両手を広げて突進してきて強請(ねだ)っていた。  でも今は、ハルは抱っこされるようなサイズではなくなってしまった。  わたしがハルにハグされているようにしか見えなくて、年上的には少し不本意なのだけど、それでも暁にされたハグを思い出し、て……落ちつ……  落ち着く?  暁と同じ?  ちょっと待って。  暁のハグは、どんなだったっけ。  暁はいつもわたしを包み込むようにそっとハグしてくれた。まるでお父さんみたいな、お母さんみたいな、優しい家族みたいなハグをしてくれた。そうされたわたしはいつも癒されて、守ってもらえているのだと実感できた。  では、今のこの、ハルのは?  優しいは優しい。けど、なんというか、包み込むというよりは抑え込むみたいな、暁がふんわりだとしたらハルのはギュー、なのだけど。  それに、ハルのハグが落ち着くかというと、実はそれだけでもなくて。  暁のお別れ会の時に10年ぶりに再会した時からずっと、ハグされるたびに妙な違和感を抱いてきた。  ハルのハグは、落ち着かない。  嫌なわけでもないし、拒否したいわけでもない。  ただ、確実に、落ち着かないのだ。  あれだけ泣き虫でちびっこかったハルがわたしよりだいぶ大きくなってわたしを抱き込むようにしていたら、それは違和感を感じても当然だ。シンプルにそう結論づけて、毎度やり過ごしてきた。  でも、今回は、今のこれは、なんというか…… 「暁、帰ってきたらいいのに」  思考が飽和状態でどうしようもなくなったので、話題を変えることにした。  ハグのことなんて今はどうでもよくて。いや、よくないけど、でも今は暁とのことを、暁と、わたしと、ハルと、3人で生きていくと言われたことを考えないと。 「そしたらもっと、違う関係に、なれるのに」  そうだ。暁がもし戻ってきたら、きっと新しい3人組になって楽しく過ごせる。  暁は、恋愛する人だったのかな。する人なら、どういう性的指向だったのかな。そういう話を、お酒でも飲みながらワイワイできたら楽しいのに。ハルと、わたしと、暁の3人で。 「……ん? ハル?」  ハルからの反応がなにもなくて、わたしの言ったことがちゃんと届いているのか不安になる。どんな顔をしているのか気になってうかがってみたけど、密着しすぎていて顔は見えなかった。  なんとなく、そうだね、と言ってくれるような気がしていた。でも違った。少しやっぱり、機嫌が悪い? 「どうしたの?」 「ん。いや、別に。なんでもない」  そっけない返事をして、そのままわたしを解放するとスッと立ち上がった。ほんの少し前までの熱っぽさが嘘のように消えていて、その変化にどんな意味があるのか確認したいのに、方法がわからない。 「夕飯、どうしよっか。何かあるかな。ちょっと冷蔵庫見てみるね」 「……うん」  そのまま部屋を出て行こうとするハルを引きとめなきゃ、と思うけど、引きとめてそのあとどうするのかなんて何も思いつかない。 「あ、あの、そういえばさ」 「ん?」  とりあえず足を止めて振り向いてくれたので、何か話題を。 「あ、あの、さ、さっき……あの空気の中、(ゆう)を置き去りにしちゃって良かったの?」 「夕? 大丈夫でしょ。親子なんだから」 「でも……」  話が膨らまない。ハルの気を引きたかったのに、わたしの中のモヤモヤをぶつけるだけになった。そんなこと訊いて、いいことなんて何もないのに。 「それに、夕も暁ちゃんのこと認めてあげなかった親たちに対しては反抗的な態度とり続けてるから、もしかしたらちょっとバトってるかもしれないけどまぁしょうがないよ。それこそ親子なんだから」 「そっか……」  結局、たいした話題も提供できないまま話は終わってしまった。ハルはそっけない態度のまま部屋を出て行った。  わたしが抱いていたモヤモヤ。ハルが夕を特別な存在として見ている可能性を、今ここで追求することはできなかった。  それを知って、わたしはどうしたい?  これからここでハルと一緒に暮らすのに、夕の存在を考慮に入れないといけなくなったら、わたしはどうなる?  いや、まだそこまで考える必要はないのか。  少し、脳がバグってるかもしれない。幼馴染3人が揃ってセクシュアルマイノリティだからと、その確率の高さにいろいろと麻痺しているのかも。ここまで来たらそのきょうだいや友達まで、なんて、登場人物総マイノリティ、みたいな、そんな勢いで思考が混乱中。  そんなことがなかったとしても、恋愛感情云々を抜きにしてもハルがわたしより夕の存在を優先する可能性は……  いや、違う違う。そもそも、このおかしな空気になったのは、ハルがわたしをハグしたから。そこからわたしが混乱して、その混乱をごまかそうとして話題を変えたらハルの態度が急に変わって。  わたしも、ハルも、一体何がしたかったのだろう。  さっき、ハルと夕が抱き合っているのを見た時に思ったこと。  ハルが一番必要としているのはわたしなのだという勝手な思い込み。ただの勘違い。というか、傲慢すぎるお門違い。  でも、たとえハルが一番心を許せる相手が夕なわけではなかったとしても、別にそういう存在の人がいるかもしれない。業務委託しているフォトグラファーの誰かがそういう存在かもしれない。他にもいろいろ、きっとハルは知り合いや友達多そうだし。パートナーは今はいないと言っていたけど、親友みたいな、なんでも一番に話すような親しい人がいるかもしれない。  いたら、まずい?  いたら、困る?  わたしがそんなこと言える立場ではないのに。ただの、幼馴染なのに。  それなのに、どうしてこんなに気持ちが落ちるの?  本当に勝手だな、と思う。  でも、どうしてもハルが誰かわたし以外の人と親しくしているのを見るのは、嫌だ。  ハルは、わたしのなのに。  あれ、今。わたし、何を考えた?  何を思った?  違う。ハルは物じゃない。誰のものでもない。でもなんだろう。これ、モヤモヤして。すごく濁った泥みたいな液体が胸の奥に少しずつ溜まっていくよう。  このモヤモヤの正体を、追求していいのか、しない方がいいのか。今のわたしにはそれを判断する力はなくて、もちろんそういうことを相談できるような友達もいない。そうなるともう、自分からはなにもできなくて、ただ状況が流れていくのを見守ることしかできない。  そんなんでいいのかよ、と背後から煽ってくる自分と、今までだってそうやって無難にやってきたんだから今さら余計なことすんなよ、と守りに入らせようとする自分がいる。  暁。どうしよう。どうしたらいい?  でももう今は、ハルの態度があんなだし、あまりかき回したくない。  そうだ、今日いろいろ大変なこともあって、心身ともに疲れている。そこにわざわざ厄介ごとを呼び込まなくてもいいじゃないか。  今日だけ。今夜だけ、無難に何事もなく過ごしたい。明日になったら、ちゃんとハルと向き合ってちゃんと対応するから。暁のことも夕のこともスルーしないから。ちゃんと話すから。  わたしはできる限りの言い訳を心の中でわめきながら、ハルの夕飯作りを手伝うために1階に降りた。  翌朝。  9時の生放送に余裕を持って準備したいわたしはいつものように早朝4時半に目覚ましで起きた。当然、ハルはまだ起きて来ない時間。  自室で着替えてからリビングに降りて、洗面所に向かおうとして、ダイニングテーブルに置かれた紙切れに気づく。  リビングに入った時から、なんとなく普段と違う違和感を感じていた。あからさまではなかったのでスルーできたけど、やっぱりどうしても気になって、室内を見渡す。  いつも前日の食べたものや使ったものが片付けきれずに置いてあったりするのに、今日は、きれいに片付いている。  片付いているのは良いことだけど、ここまできっちり片付けるのは、来客がある日か、しばらく家を空ける時……  テーブルに近づいて、メモを手に取る。  読まなくてもなんとなくわかる。  昨日の不機嫌。  会話のおぼつかなさ。  共有スペースの整理整頓。  嫌な予感なんて、当たって欲しくない時ほど当たるものだ。 『イタリアでしばらく仕事です』  これだけメールでもSNSでも便利な連絡手段がいろいろあるのに、手書きのメモ1枚。これは、わたしの返信を望んでいない証拠。  また、一方通行。  夕べは普通に夕食の支度をして問題なく一緒に食事できたのに。  ハルの心情がわからないまま離れたのは、正直、キツい。いつまで向こうにいるのか、いつ帰ってくるのか、そういうことが全くわからないままなのもキツい。でも、今までもそうだった。10年、ずっとそうだった。  だから、大丈夫。  な、はずなんだけど。  結局、何の連絡もないまま日々は過ぎて、いつの間にか半月が経っていた。これからはちゃんと連絡するね、と言ったのは、なかったことになったのかな。ハルが仕事で海外に行ったり日本で仕事したり、というのはわかっていたこと。当然、わたしひとりでここで過ごすことも想定内。  でも、連絡がずっとないのは、想定外。  戻ってこなかったらどうしよう。  戻ってきても、誰かパートナーを伴っていたらどうしよう。  わたし、このままここに住んでいても大丈夫なのかな。 「この家にひとりは寂しいって言ったのハルじゃん」  小さく呟いた声が、たったひとりの部屋の空気に虚しく吸い込まれた。
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