2 幼馴染

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2 幼馴染

 ベッドの上に乱雑に放り投げてある礼服を、うらめしい気持ちマックスで眺める。これを着てこれからどこへ行くのかを想像したら、喉の奥に詰まっていた大きな岩のような憂鬱がぐいっとせり上がってくる気がしたけど、強引にそれを飲み下す。  逃げてしまおうか。  このまま、どこかへ行ってしまおうか。  でもそんなことは無理だ。あと1時間ほどで、わたしの両親と弟が迎えに来る。  突然の事故で永遠の別れを宣告されてしまって、しかも遺体もなくて「亡くなりました」の報告だけ。海外の乗り物事故で日本人が亡くなるのは珍しいので、新聞やテレビのニュースでも取り上げられたのだけれど、わたしの所に何か取材が来るわけでもなく、呆然と他人事のような感じでニュースを観ていた。  その画面の中に繰り広げられている世界があまりにも遠くて、全く無関係の他人の身に起こった出来事のような錯覚に陥る。  (あき)は本当はその飛行機には乗っていなかったのではないか。  本当は沈む前に脱出して近くの漁船か何かに助けられたのではないか。  毎日そんなことばかり考えていた。  これまで生きてきた平坦な人生を考えると、この出来事はあまりに非現実的で、やっぱり何かどこかで情報が間違って伝わってきたのではないかと不思議に思ってしまう。  とにかく、暁が亡くなったという実感がない。  でも、メディアに出てくる名前や顔写真は、間違いなく夫の暁だ。  暁は事故で亡くなった、らしい。  もういないのだと。    暁が乗った乗員乗客36名の小型旅客機はペルー沖の海に墜落してほとんど全て沈んでしまい、機体のほんの一部が発見されただけで遺体はひとつも見つからなかった。  墜落場所がたまたま海深のとても深いところで、航空会社に深海にまで捜索を広げる資金がないため引き上げは難しいらしく、捜索はたった1週間で終わってしまった。 「暁が死んだのはあなたのせい、あなたが単身赴任なんかさせたから」  ジャーナリストとして暁が所属していた出版社から事故の知らせを受けて、わたしは暁の両親とともに現地へ飛んだ。その時に、暁の母親から最初にそう言われた。  暁に単身赴任を命じたのはわたしではないし、わたしが赴任先に一緒に行っていれば事故を回避できた保証は全くないけど、息子を突然事故で亡くした両親の気持ちを考えると、怒りや憎しみを向ける相手が言葉の通じない異国の企業では、やり切れなかったのだと思う。  そこでわたしが何か言い返したとしても誰ひとりとして報われる人はいないと思い、ただひたすら理不尽な言葉の応酬に耐え忍んで、見知らぬ土地から脱出できる時を待つしかなかった。  暁は普段から、自分の仕事が必ずしも安全なケースばかりとは限らない、と言っていた。 「仕事柄、取材先で危ないこともあるかも知れないからね」  そう言って、身辺整理しとかなきゃ、と冗談半分で笑いながらよく部屋の片付けをしていた。  戦場こそ行かなかったけど、発展途上の地や治安の悪い国へはよく行っていたし、それなりに大変な思いをしたことはたくさんあったのだと思う。セスナ機やヘリでの取材もしょっちゅうだし、現地の漁師の船に乗せてもらったりすることもあると言っていた。  そんな中で、最も安全であるべき旅客機の事故に遭ってしまうなんて、もしかしたら暁はほんの少しも予想していなかったかも知れない。  いよいよ出かける時間が迫ってきて、仕方なく立ち上がって礼服に手を伸ばす。  結婚してすぐに、ちゃんとしたのを持っていないなんて一ノ瀬家の嫁としてみっともない、と暁の両親が強引にオーダーメイドの仕立屋に作らせた。たぶん、自分のお財布からは払えない額の代物。それを初めて着るのが夫の一ノ瀬暁の葬儀だなんて、そんな皮肉なことがあるのかと気持ちが沈む。 「はぁ……」  思わずついたため息が思いのほか大きくて、自分でびっくりした。  何から何まで全てが納得いかない。意味がわからない。  わたしは今から一体誰を見送るのだろう。  誰と、お別れをするのだろう。    仕立屋で完成品を試着した時以来ほぼ6年ぶりに、手触りの良い上質なブラックフォーマルに袖を通す。自分のものだという認識がほとんどないのに、その見慣れない服はびっくりするほど優しくわたしの身体にフィットして包み込んでくれて、その着心地に気持ちが揺さぶられる。  暁のハグは、こんなふうに優しかった。  いつもどこか遠慮がちで、余計な力がかからないように、ふわりと優しくハグしてくれた。良いことがあった時も、しんどい時も、気持ちが乱れた時も。穏やかな性格の暁は、わたしの感情がどんなにブレても全く表情を変えず、常に優しい眼差しで見ていてくれた。 「暁はブチ切れたこととかないの?」  あまりに表情がフラットなので、不思議に思って訊いてみたことがあった。 「ん? そうだな……奏の言うブチ切れっていうのがどういうのを指すのかがあんまりよくわかんないけど、怒ることは普通にあるよ」  物心ついた頃には一緒にいるのが当たり前になっていて、まるできょうだいのようにたくさん遊んだ。でも、暁が怒ったところを見たことはないような気がする。  同じ幼馴染でもうひとり女の子がいて、わたしたちより少し年下だったその子がいつも泣いてばかりいたことを、懐かしんでよく話していた。 「(かなた)はいつも怒ってたし、ハルはいつも泣いてたし、そういうの見て自分はどうしたら一番いいのかな、って考えてたらいつの間にか笑顔担当になっちゃってたんだよね」  年下の波留可(はるか)がとにかく泣き虫で、わたしは彼女を泣かせるいじめっ子たちを追い払うのにひたすら怒って怒鳴っていた記憶がある。  泣くハルと怒るわたし、それを少し離れたところで優しく見守る暁。そのバランスが面白いと、周囲の大人たちはいつも笑っていた。  ハルが高校生の頃に親の仕事の都合で海外に引っ越してしまって3人のバランスは崩れたけど、残されたわたしと暁は変わらずにきょうだいのように過ごした。  暁の事故の知らせを聞いてすぐ、イタリアに暮らすハルにメールを入れた。でもハル本人からは返事が来なくて、代わりにハルのママから連絡が来た。 「今ハルカね、仕事で別の国に行ってるの。でもちゃんと伝えるからね。ごめんね」  ハルが自分で返信しないのはいつものことで、もう慣れた。ハル個人のメアドに連絡しても、いつも本人からは返信は来ない。転職の報告をした時も、結婚の報告をした時も、ハルからのメッセージはなかった。  ただ、いつも絵葉書を送ってくれて、それだけがハルの生存確認みたいになっていた。  アドレス以外に一つも文字が書かれていない、写真だけの絵葉書。もう何枚溜まっただろう。  ハル。  暁が、死んじゃったんだって。  でもね、まだ本当かどうかわかんないんだよね。だって死んじゃった証拠がないんだもん。わたし、何も見てない。何も確認してないよ。  このまま待ってれば帰ってくると思う?  探しに行けば見つかると思う?  どこに行けば、誰に聞けばわかるかな?  わたしにできることあるかな?  わたし、何をすればもう一度暁に会える?  ハルはどう思う?  ハルならどうする?  ハル。  話したい。会いたいよ。  今、どこにいるの。  10年も会っていないどころか、連絡すらまともにやり取りしていない。  転校していった友達は、みんなだいたいこのパターンだった。去って行った方は新たな土地でやることも多くて新しい友達を作るのに忙しく、前の土地でのことを過去のことにできる。でも残された方は、その人がいた場所にぽっかり空いた穴はなかなか塞げない。自分が寂しいと思っているほどは、去って行った者はそうは思っていない。それでそれっきりになってしまった友達は何人もいた。  ハルもそのパターンだろうか、と、諦めにも似た割り切りモードに切り替わって、自分の感情にスッとフィルターがかかったような気がした。  たぶんきっともう、ハルは新しい世界で新しい人間関係を築いて今をしっかり生きている。わたしや暁のことは幼馴染の思い出として、過去の記憶の箱にしまってあるのだろうな。  今日の祭壇の写真を撮って送ってあげよう。それで、最後にしよう。  もう、連絡しない。  これで最後。  ハルとも離れて、暁を失って、わたしはこれからひとりで新しい道を切り開いて生きていかなければいけない。 「めんどくさぁ……」  呟いてから、しまった、と思った。  こういうことを言うといつも暁に怒られた。 「奏っていつもニコニコ無害そうな顔して時々ポロッとひとでなし発言するよね」  そういう暁も、そんなディスり発言を穏やかな笑顔でふわりと包み込んで送りつけてくる。 「ま、そんなところも好きなんだけどね」  いつも暁に甘えていたな、と思う。  いつもわたしを肯定して、無理しなくていいよと許してくれて、何かトラブルが発生した時は逃げずに腰を据えて向き合ってくれた。いつも大丈夫だと、問題ないよと受け入れてくれた。  だからわたしは、うまく体裁を整えて生きることができていた。一緒にいるのが暁だったから、無理をしてでもうまくやれていたのだ。  そんな存在の暁がいなくなって、わたしはこれからどうすればいいのだろう。 「やっぱりめんどくさいよ……」  生きていくのがめんどくさい。  せっかく築いたものを色々失って、これからまた再構築していくのがめんどくさい。  そんな泣き言を自分でも聞きたくなくて、脱いだばかりのパーカーを拾い上げてそこに顔を埋めて呟く。望み通り、くだらない呟きは何日も洗っていない薄汚れた服に吸い込まれた。  カサ、と、パーカーの布地の中から音がした。  まだ入っていた。  そうだった。これはもういらないんだよな。でも、なんとなく捨てられない。  どう考えても不要なものをいつまでも持っていても仕方ないのに。そう思ってポケットの位置を探していたら、リビングに放置してあるスマホの着信音が鳴った。  しまった。時間。家族が迎えに来てしまった。  パーカーをゴソゴソ漁ってポケットの口が見えたのだけど、わたしは時間がないことを理由にまたそれをそのままにした。  行かなきゃ。嫌だけど。  一ノ瀬の人間として振舞うのは、もしかしたらこれが最後かも知れない。  今日だけ。今日1日だけなんとか乗り切ろう。そうしたら、もう本当に、終わらせられる。  暁。  今からあなたの妻として、あなたのお別れ会に行きます。
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