21 かなただけ

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21 かなただけ

「ごめん、ちょっとまだ散らかってて」  ハルの言う通り、玄関にもリビングにもハルが持ち帰ったものが散乱していて、イタリアに行く前にしていった大掃除のあの完璧さとは真逆の状態だった。  帰国して家に帰ってきて、ラジオを聴いて、すぐに局まで来てくれたのか。 「片付け、手伝おうか?」 「いや、いい。大丈夫」  今まで積極的にわたしの番組を聴くタイプではなかったし、どうして今日に限って聴いてしまったのかと不思議に思う。そしてわたしもなぜよりによって今日話してしまったのか、ハルが帰ってくる日だと知らなかったとはいえ、なぜ今日だったのか、と思うけど、こういうのはきっとタイミングがあって、なるようになっているのだと納得するしかない。 「ちょっとシャワー浴びたい。すごい汗かいた」  床に散らばる荷物だけ手早く拾い集めたハルが、とりあえず、といった様子で暗室に運び入れてから言った。確かに暑そうだ。 「そういえば、いつからあそこで待ってたの? どのくらい待ってた?」 「1時間くらいかな。放送終わったら出てくると思ってたから放送終了時間に間に合うように行ったんだけど」 「そっか。ごめんね、言ってなくて。いつも次の日の打ち合わせしてから帰るから」  それぞれの仕事のことについてはお互いなんとなく、無闇に詮索しない方がいいような空気ができあがっていた。だから詳しい話をしたことはなかった。 「そうだよね、うん……失敗した」  せっかくわざわざ迎えに来てくれたのに失敗だなんて思って欲しくない。 「ハル。来てくれてありがとう」  リビングの隅っこでしょんぼりと肩を落としていたハルのところまで行って、正面からちゃんと顔を見てお礼を伝えた。ハルはますます俯いて、申し訳なさそうに片手で顔を覆い隠した。 「あ、いや、あの、あー……アポ無しで仕事場まで行っちゃうとか、ちょっと……ナシ、だよねぇ。ごめん」 「別にスタジオまで入って来たわけじゃないし、大丈夫だよ」 「そっか。よかった」  基本、マイペース。いつもだいたい自然体で自分の考えに根拠のない自信を持って行動するのに、時々こうしていきなりヘコんだりするギャップが可愛くて、やっぱり守ってあげたくなる。 「じゃあ、シャワー浴びてくるね」 「うん」  バスルームに向かうハルを見送って、自分もとりあえず部屋着に着替えたくて、一旦2階の自室へ。マンション暮らしが長かったので、階段のある家で暮らすと実家にいた頃を思い出して、なんとなく自分の家感が増して嬉しい。  そういえば、ここに住まわせてもらっている分の家賃を一度も受け取ってくれたことがないな、と思い出した。今さらゴネてももう一生受け取ってもらえない気がするけど。でもせめて固定資産税の一部だけでも負担させてもらわないと対等ではいられない。水道光熱費の支払いも結局ハルが負担していて、その分わたしは食材や生活用品を積極的に負担しているけど、まだ対等と言えるほどではない。  そういう意味ではまだ、ハルとの距離を測りかねている。  着替えながらそんなことを考えていたら、階下でハルがシャワーから上がった音が聞こえた。  焦っても仕方がない。少しずつ、向き合っていくしかない。    1階に降りると、ハルがキッチンでおじいちゃんのお気に入りだったというビールジョッキに大量の麦茶を注いでいた。そういえば昔からハルは出されたコップの中から誰よりも大きいものを一番乗りで選んでいたっけ。わたしも暁もそこは張り合わずにハルに譲っていた記憶がある。  わたしが降りてきたのを見たハルが、食器棚からもうひとつ普通サイズのコップを出してわたしにもお茶を注いでくれた。それを受け取って、わたしはダイニングチェアに座る。 「ハル、さ。帰国して、あの……(ゆう)には、連絡したの?」 「え? 夕?」  一ノ瀬の家から帰るときにずっと引っかかっていたこと。言い出すきっかけがなくて、そのままになっていた。 「うん。夕と、会わなくていいの?」 「夕? なんで、夕?」 「……だって、こないだ、抱き合ってたの、見た。夕の家で」  言葉にしたらまたあの光景を思い出して、胃のあたりがぎゅっと引き()れたような気がした。 「……ん? 私と夕が? え、いつだ?」  これは、そんなことしたっけ、なのか、たくさんしたからどれのこと言ってるんだろう、なのか、どちらだろう。 「あ! あれか。あの、手紙の時」 「うん。なんか、すごく親密に見えたけど」  しまった。言い方が、ものすごく卑屈になった。 「あー……ああ。うん。なるほどね。それであんなに急いで出て行こうとしてたのか」 「だって、明らかに邪魔だったよ、わたし」  まただ。こんな言い方やめたいのに更に卑屈になって、これでは嫉妬丸出しだ。情けない。  キッチンで立ったまま麦茶を一気飲みしたハルが、お茶の入ったボトルを冷蔵庫にしまってダイニングまで出てきた。  わたしの向かい側に座って、じっとわたしの顔を見てくる。なにかとても意味有り気でちょっと怖いのだけど。 「夕、結婚する予定の彼氏いるよ」 「……え!?」 「この夏に結婚する予定だったんだけど、暁ちゃんのことがあって今ちょっと保留っていうか延期になってるって」 「……え。え、そう、なんだ……そか、なんだ……そっか……」 「なんでそんな勘違いするかなー」  ホッとして気が抜けて、もっとちゃんと事実を確認してから話せばよかったと後悔した。なんだか年上の貫禄とか全然なくなって格好悪すぎる。 「言ったのに」 「え、なにを?」 「だから、私のセクシュアリ……あれ、私、なんて説明してたっけ」 「レズビアンだって」  聞いたまま、同性が恋愛対象なのだから夕も対象になるのかな、と思っていたのだけど。 「あ。マジか……私、肝心なこと言ってなかったの……わー、サイアク……」 「違うの?」 「あー……うん、そう。そうなんだけどね、厳密に言うと違うっていうか」  少し考え込むように黙り込んで、スッと小さく息を吐いた。 「んーとね、まぁ、私が好きになるのは女性、っていうの、間違ってはいないんだけど」 「うん」 「私が好きになるのは、奏なの」  心の声をそのまま出していたら、たぶん、へぇ、と言っただろう。ただ本当にそれだけを思った。へぇ、そうなんだ、と。でもそれが実際には出なかったのは、単純にハルの発言の意味をちゃんとは理解できていなかったからだと思う。 「奏だけなの」  無言で呆けているわたしを見兼ねたのか、ハルがもう一度同じことを言った。 「……どういう意味?」 「え、意味? そのままだけど」 「そのまま?」 「うん。そのまま。私、生まれてから好きになったの奏だけ」  おべっか使う必要はないだろうし、わたしをおだてても何も出せない。なんのためにそんなことを言ったのかと追及すべきかどうか考えていたら、ハルが矢継ぎ早に告白を続けた。 「他に好きになった人ひとりもいないから」  待って。 「これからもいないから」  だからちょっと、待って。お願い。  頭が、考えが、追いつかない。 「だから、私の恋愛指向も性的指向も奏だよ」  夢か現か。本当にそんなことがありえるの?  念を押すように同じ言葉を繰り返すハルを、ただじっと見ていることしかできなかった。 「奏だけなの。ずーっと」  こんなにダイレクトに直接言われても、完全には信じられない。  勝手にラジオの生放送でカミングアウトして、しかも好きな人がいることまでバラして、でもそれを本人に直接伝える前に放送聴かれてバレて、その本人には別に好きな人がいるのかも、というところまで妄想を暴走させて、最終的に衝撃の告白を受けて。自分の身に起きていることがまだよく理解できない。 「そんなこと言って、もしわたしが死んだらどうするの」 「一緒に逝く」 「そんなのダメに決まってんでしょ」  びっくりして、どうでもいい言葉ばかり出てくる。そんなこと考えても意味ないのに。 「じゃあ、死なせない。絶対。何がなんでも」  頭がぼんやりして、言われたことも思ったこともちゃんと処理できているかわからない。全然ダメかも。  (はな)から考えないようにしていた。恋愛事情も、好きな人の存在も。自分のもハルのも、両方。  本当に、本当にハルの好きな人がわたしだというの?  しかもこれまでに好きになった人がわたし以外にいない?  そんなすごいことがあり得るの?   「暁ちゃんが奏のこと守ってくれるならそれでもいいや、って思ってた時もあったの。だからずっと帰国しないでいたっていうのもちょっとあって」  ダイニングチェアの背もたれにゆったりと背中を預けて緩い姿勢で座っているハルは、とてもリラックスして見えて、その和やかな空気が居心地よくて癒される。 「だってさ、男女で結婚した人たちの間には入って行けないじゃん、レズビアンが」  もしこの穏やかな空気を作れている要因にわたしの存在がほんの少しでも関係あるなら、わたしはこの場所をなんとしてでも守りたいと思う。 「でもね、暁ちゃんから言われた通り、もしね、もし、本当に暁ちゃんの身に何かあったら、その時は絶対に私が奏を命かけて守るって決めてて、そのために自分でやっておけること、仕事頑張って、経済的に暁ちゃんと同じかそれ以上に奏に安心してもらえるように、って、ずっと、頑張って」  会えなかった10年の間、ハルは何を思いながら仕事を頑張っていたんだろうとずっと考えていた。連絡もよこさず、こちらからの連絡にも返信せず、もしかしたらもう幼馴染のわたしたちのことなんて忘れてしまったのかも、なんてひどい解釈をしたりもした。  でもそんなことはなかった。ずっと、わたしと暁のことを思ってくれていた。わたしと暁のために必死に頑張ってくれていたのだ。  言われてみれば、帰国してから今までもずっと、奏のために、とか、今してくれた告白につながるような事をたくさん言ってくれていた。でもわたしはそれを全て、暁から頼まれたからそうしようとしてくれているのだと思い込んでいて。  考えが浅すぎた。バカだ、わたし。  ねえ、暁。  ハル、すごいね。すごい人だね。 「ただ、ね」  ハルが俯いて、テーブルにある小さな傷を指先でそっとなぞりながら言った。 「実際に暁ちゃんが、その……いなくなっちゃって、私がさ、待ってました、って言わんばかりに飛び出していくのも、それはなんか違うよな、って思ってて」 「そう、かな……うん、そっか。そうか……」 「うん。それにさ、いくら自分が奏のこと恋愛感情で好きでも、奏が私を受け入れてくれる可能性があるのかどうかもわかんなかったから、なかなか動き出せなくて」  こちらの想像と全く違っていたハルのイタリアでの10年間を、もっと知りたい。もっと、共有したい。許してもらえるのなら。 「こないださ、奏が、暁ちゃん帰ってきたらいいな、って言ったでしょ。今ならもっと違う関係になれたのに、って」  ああ、それは、海外出張の前夜、ハルが急にトーンダウンしたあの時。 「それって、女の人を好きな奏は、男として結婚した暁ちゃんは恋愛対象じゃなくても、女性の暁ちゃんなら愛し合う関係になれたのに、なれるのに、ってことなのかな、って思ったら、なんか、やっぱり私の出る幕はないよなぁ、とか思っちゃって」  あの時だけじゃない。もっと、ずっと前から何度も、常に、わたしは知らず知らずのうちにハルを傷つけていた。そうとは知らず、ひどいことをたくさんしていたことになる。  ハル。ごめん。 「暁ちゃんが帰ってきた時のために、奏の隣は空けておかなきゃいけないのかな、とか、思っちゃったんだよね。それで、ちょっと、頭冷やしたくて」  それであの日、たった一言だけのメモを残して日本を出て行ったのか。そんな事情が隠されていたなんて知らなかった。  わたしも勘違いしていたけど、ハルも誤解している。それを解かなければ。 「あの……それは、ちょっと違うというか」 「ん?」 「うーん、わたしの勝手な想像だけどね、たぶん、暁は、恋愛対象とか性的指向は男性だと思うんだよね。だってさ、暁の恋愛対象が女性でレズビアンならわたしと結婚してた時にわたしに手ぇ出してたと思わない?」  わたしの問いかけに対して、ハルがアニメのキャラみたいに何かをじっと考える時の顎に指の背を当てるような仕草をしたのが可愛くて面白くて、思わず笑ってしまいそうになった。いや、真面目な話をしているのだから笑っちゃダメなのだけど。 「そりゃ、そんな単純なものじゃないのはわかってるよ。性別関係なく単にわたしが好みじゃなかっただけな可能性もあるし。そうじゃなかったとしても、持つべきではなかった男性の身体でそういうことするのは嫌だっただろうし、いろいろ不本意なこともいっぱいあったと思うけど、それでも恋愛的な感情をわたしに対してちょっとでも持ててたら、セックスは無理だとしても、例えばキスとかさ、そういう恋情的なアプローチがさ、あったと思うんだよね、少しは」 「んー……そう、かなぁ」 「そういうのが皆無だったってことは、暁は、AロマとかAセクじゃなければヘテロだったのかなぁってわたしは思ってる」  今更、暁が自分で記した以上のことを知るのは不可能だ。でもそれでも、わたしは暁の生きた生き方を尊重したいし、本当のセクシュアリティも同じように尊重したい。 「だから、暁が帰ってきたとしても、わたしは暁とは恋愛関係にはならないと思うし、わたしも自分にとって暁はそういう対象じゃないなって思う」  本当に、ちゃんと真実を話せばよかった。何度でも思う。悔しい。 「もっと違う関係、っていうのは、んーと、なんでも話せて、本音で話せて、もっと、親友的な、もっと、悪友的な……毎晩女子会やっちゃうみたいな……そういう、仲良しに、なれたかもしれないな、って」  ハルがじっとわたしを見ている。もうさっきまでの不安そうな顔はしていない。伝わったかな。いろいろなこと。 「会いたいなぁ。暁、帰ってこないかなぁ」 「一緒に待っていよう。暁ちゃん帰ってくるの」  どちらからともなく、お互いに向かい側に手を伸ばした。テーブルの中央でその手が触れ合って、そっと重なった。  きっと伝わった。大丈夫。 「ずーっと、ずーっと一緒に、待とう」 「うん、そうだね」 「そんで、帰ってきたら盛大に女子会、やろうよ」  ハルがわたしの手をキュッと握って、そのまま、ずっと繋いでいてくれた。  今日はいつもの「抱っこして」はないのか、と、なぜか寂しく思う。それから、どうして寂しく思ったのかを追求しかけて、恥ずかしくなってやめた。  ハルとは、こういう速度で、これからゆっくりと新たな関係を築いていけたらいいと思う。焦らず、ゆっくり。 「いいね、女子会。楽しみ!」  きっとハルも同じ感じだと思いたい。  わたししか好きにならないと言った。ということは、今まで他に恋愛経験もないとも受け取れるし、そういう意味で初心者なら、同じくほぼ恋愛経験のないわたしと同じ歩調で歩んでいけると思う。  暁の帰りを待つ、という同じ夢を共有して、ゆっくり、のんびり、進んでいけたらいい。  暁。  いつでも帰ってきて。  ふたりで待ってるから。
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