3 ダメな嫁

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3 ダメな嫁

 晴れ女のはずだった。  わたしが関わるイベントはいつもたいてい晴れて、雨で困ったことがあった記憶がない。(あき)はどちらかというと雨男で、それでもわたしの晴れパワーの方が強いのかふたりで出かけるイベントは晴れがちで、やっぱり雨で大変な思いをした記憶がほとんどない。 「あれ、なんか今、ポツンと来たかも」  運転席でハンドルを握っている弟の紘太(こうた)が、誰に言うともなく呟いた。  今日は、暁の勝ちか。    暁の葬儀は、暁の父親が大きな新聞社の役員をしているせいか、かなり規模の大きな式だった。そしてその葬儀は、すべて暁の両親が取り仕切った。  わたしは妻だというのに喪主から外され、用意された席も下座の下座。両親と紘太とわたしの4人は親族席の一番後ろに並んで座らされた。  席順が分かった時に紘太が怒って、一ノ瀬の両親に文句を言おうとした。でもわたしはそれを引き止めた。ここで騒ぎを起こしても何の意味もない。今日だけ耐えればもう終わるのだ。 「俺、昔からあのおじさんとおばさん嫌いだったんだよ。すげぇ偉そうでさ、なんかいちいち怒られたし」  仕方なく末席に座った紘太が、納得がいかない様子で吐き捨てる。 「絶対アレ、見下してんだろ」  今に始まった事ではない。そんなこと、昔からずっとだ。我が家だけではない。一ノ瀬家が地域のコミュニティから浮いていたことはみんな知っていた。  暁の両親は昔から共働きで、我が家とハルの家族が仲が良かったところにはあまり加わっていなかった。  同じような住宅が建ち並ぶ住宅街で、我が今井(いまい)家とハルの柏木(かしわぎ)家はほぼ向かい合わせのように近所で、そこから1本道を挟んだところにひときわ大きな暁の家があった。  暁の父は大手新聞社の役員、母が出版社の社長で、ふたりとも家にはあまりいなかった。暁と妹の(ゆう)の世話は日替わりで数名のお手伝いさんがしていた。  暁はその『知らないおばさんたち』が嫌だと言って、あまり家にいようとせず、しょっちゅうわたしやハルの家に来て長い時間を過ごした。 「いつも暁がお世話になってすみません」  よく、暁の母がそう電話をかけてきた。そして、触るのを躊躇してしまうほど美しい包装紙に包まれた上等な菓子折りをお手伝いさんに届けさせた。自分で出向いてきたことはほとんどない。 「別にいいのにねぇ、ご近所さんなんだから」  呑気な母はいつもそう言って、でも嬉しそうにいただいたお菓子を開けた。 「あらぁ、すごい! 美味しそう!」  必ず暁とハルが遊びにきている時に開けて、みんなで食べるのが恒例になっていた。時々そこに紘太と夕が加わって、まるで学童クラブのような賑やかな時間はわたしたちにとっては当たり前のものだった。  ずっと、みんな一緒にいられると思っていたのに。大人になっても、ずっと一緒に楽しく笑っていられると思っていたのに。おじいちゃんになってもおばあちゃんになっても、ずっと、一緒にいたかったのに。  みんな、バラバラになってしまった。 「実感わかねぇなぁ」  参列者が次々と焼香をしていく後ろ姿を眺めながら、紘太が呟く。配偶者のわたしが実感わかないのだから、無理もない。  お別れ会というからもっとイベント的に企画されて司会がいたりとかそういうのを想像していた。でも実際は、ちょっと規模の大きなただのお葬式といった感じで、少し拍子抜けした。  祭壇の派手さや遺影の大きさが異様に目立っていて、一ノ瀬家の見栄がそのまま形になった式だな、と思う。  遺体がないので棺桶もない。そんな花と遺影しかない祭壇に向かって焼香などして何の意味があるの、と、非情な感情がジリジリと湧き上がる。会場も大きいし、参列者も多い。でも、どこか空々しいような違和感が充満していることに誰もが気付いていて、そしてその誰もがその事を口にはしなかった。  暁が亡くなったといわれる状況をどこまでの人が知っているのだろう。この会場内で『暁の死』を難なく受け入れることができた人はどのくらいいるのだろう。  ぼんやりと会場内を見渡すと、列席者の先頭にいる一ノ瀬の家族が見えた。  久々に見る義理の両親は、想像していたほどは落ち込んでいる様子はない。  暁の事故の知らせを受けて一緒に現地へ飛んだ時以来、ずっと会っていない。役所関連の手続きは全て一ノ瀬が手配した専門家たちが済ませた。わたしが受取人になっている生命保険の手続きも郵送で済ませたし、その他のやり取りも電話かメールで事足りて、その手軽さがわたしと一ノ瀬家との関係の希薄さと比例しているように思えた。  この会場に着いた時に我が家族と対面した時の挨拶も、婚姻で繋がった親戚とは思えないほど他人行儀で、びっくりしたし呆れてしまった。わたしと暁の関係までも軽く見られているようで、なんとも虚しい気持ちに押しつぶされそうになる。  息子の葬儀の場だというのに母親は涙ひとつ見せず、喪服にしては目立ちすぎる洒落たデザインのアンサンブルに身を包み、背筋をビシッと伸ばしてキリリと前を向いていた。父親に至っては、参列者と談笑までしていて、いくら事故からひと月以上経ったからといってもさすがにそれはどうなの、と思わざるを得ない。 「強い方たちなのねぇ」  母がそっと呟く。  そういう母の方が明らかに気落ちしている様子で、それが母自身の単なる悲しみによるものか、配偶者を亡くした娘への同情的なものなのかは、今はわからない。ただ、母も暁を小さい頃から知っているので、ここは両方だと思いたい。  在宅でフリーの仕事をしていたハルのママと専業主婦の母は気が合って、ふたりでよくランチに行ったり買い物に出かけたりしていた。父親同士も遊びに行くことまではなかったけど会えば楽しく会話をして、家族ぐるみの付き合いはうまくいっていた。  そこに暁の両親があまり入ってこないことを暁はどう思っていたのか、なんとなく子ども心にも触れてはいけないような気がして、確認したことはない。  暁と結婚することになった時、わたしは密かに、自分の家族と暁の家族との間にある微妙な距離感を察して、どちらの親も結婚には反対するだろうな、と思って覚悟していた。でも実際にはあからさまな反対はどちらの親からもなかった。  結婚して数年経ってから、母に訊いてみたことがある。 「あのさ、わたしが一ノ瀬の家の人間になって心配じゃなかった?」  娘からされたら嫌な質問だったかな、とか、返事に悩ませたら悪いな、と思ったけど、予想外に母は即答した。 「暁くんがあんな人なんだもん、心配なんて全くしてなかったよ。あちらのご家族と同居なんかになったら心配したかも知れないけど、暁くんとふたりなら大丈夫だと思ったから。実際、大丈夫だったでしょ」  なんでそんなことを訊くの、とでも言いたげに母はあっさりと答えた。  実際、本当に大丈夫だった。問題はなかった。だって、頑張ったから。大丈夫に見えるように頑張ったから。親のために、夫のために、夫の親のために、頑張ったのだ。  あんなに頑張ったのに幸せじゃないように見えてたまるか。 「あんたみたいに幸せな人はなかなかいないわよ。あんな優しい旦那さんがいて、いっぱい働いて稼いでくれて、適度に距離持って暮らしてくれて、あんたが働くことも許してくれて、あちらの両親とも別居で。あんたみたいに恵まれてる人はいない。私の時なんか大変だったんだから」  母はいつも、わたしを幸せものだと断言した。自分が亭主関白や嫁姑問題で苦労した体験談を挙げて、それとわたしの状況を比較した。確かに、母の言う条件は結婚生活を送る上では重要なポイントで、それが揃っていればなかなかに優等な理想的な夫婦像だと言えるのかも知れない。  でも、と、わたしはいつも心の中で口ごもる。  母は、わたしの、わたしたちの真実を知らない。わたしと暁の本当の結婚生活を知らない。ただ取り繕って見せている上辺だけをそのまま信じていた。  それでも良かった。父も母もわたしを幸せだと信じて安心してくれている。余計な干渉をしないで、遠くでそっと見守ってくれている。それで構わなかった。だからそのまま、わたしはいい人に嫁いで行った幸せな娘を演じ続けた。 「良かったわぁ、暁くんみたいな人と一緒になれて」  その言葉を聞けば聞くほど、わたしは幸せものを演じることにさらに躍起になった。苦しくても辛くても、わたしはいつまでも幸せな妻を演じた。  暁の穏やかさだけが救いだった。優しくしてもらって、大切にしてもらって、それだけが日々を生きていく支えだった。でも、本当のわたしたちは、幸せで何の問題もない夫婦なんかではなかった。少なくともわたしはそう思っていた。  では、暁は?  暁はどう思っていた? 自分たちの関係を、どう思っていた?  それを確認したくても、もう暁はいない。  訊けないのだ。    余計なことを悶々と考えていたら、自分がここで一体何をしているのかがわからなくなって、混乱した。  息苦しい。空気を、胸の奥まで吸い込むことができない。  居心地が悪すぎて、どうにかしてここから出られないかと周囲の様子をそっとうかがう。  大きな式でもお経は普通の葬儀と何も変わらない。木魚のリズムも並、という感じで取り立ててリズミカルでもない。退屈な、どうってことないお葬式。費用によって僧侶のランクが変わることってあるのかな、とか、どうでもいいことを考える。高い葬儀にはベテランのお坊さんが来て、安いところには新人が行くとか。ないか。どうでもいいけど。  暁はこんなの、喜んでいるのかな。  暁、どう? 嬉しい?  やっぱりどんなに呼びかけても返事はなくて、自分と暁の間に絶対に取っ払えない分厚い仕切り板のようなものが設置されてしまったのだと思い知る。  どうにもいたたまれなくなって、参列者がもうほとんど焼香を終えるのを見計らってそっと席を立った。  葬儀場の裏はちょっとした林になっていて、正面側の公園のような広場とは違うひんやりとした空気が気持ちを鎮めてくれた。  誰もいない林の中に立ち入ると、都会のど真ん中とは思えないくらいの緑と土の匂いに圧倒された。マイナスイオンだとかフィトンなんとかだとか、よく知らないけど感覚的に感じる何かは確実に存在していて、その物理的な刺激が苛立った感情をそっと(なだ)めてくれるようだった。  どのくらい時間が経っただろう。会場を出てくるときに時計を見ていなかったのでわからないけど、体感的には15分か20分くらいか。少し身体が冷えたので、仕方なく会場に戻ることにした。  式がどのくらい進んだか知らないけど、どうせわたしが居ても居なくてもきっと一ノ瀬にとってはどうでもいい。いっそこのまま帰ってしまおうか。わたしがいつの間にか消えていてもあちらの人たちは誰も気づかないかもしれない。  状況が許せばもう帰りたい、そんなことを思いながら会場のエントランスに向かうと、正面玄関の自動ドアのあたりで立ち話をしている声が聞こえた。  嫌な予感。  この声は、暁の母親だ。  しかも、口調があからさまに陰口や噂話をする時のアレで、嫌な予感は増す。  相づちやガヤの厚みからして、取り巻きはおそらく3〜4人。いわゆる井戸端会議的なノリだけど、その会話の内容は聞き捨てならないものだった。 「そうなのよ、本当に。子どものひとりも産めなくて参っちゃったわ」  あと数秒気づくのが遅かったら、わたしはこの大きな柱の陰から彼女たちの輪の前に踏み出していたかもしれない。でも、ギリギリ踏みとどまった。それが吉と出るか凶と出るかは、この後の会話の流れ次第。 「暁があんな子だったじゃない? (かなた)さんなら年上だし割とアクティブだし押しが強いと思ったから期待してたんだけど、全然だったわ」  これは、どっち?  続きが聞けて吉?  それとも、嫌な話を聞いちゃって凶? 「草食系だったもんねぇ、暁くん。残念ねぇ」 「ほんと、期待外れ」  どっちでもないな。聞けてよかったとも聞かなきゃよかったとも思わない。ただ、とにかく胸くそ悪いだけ。ただそれだけだ。  これ以上聞いていたらきっと、仮面が剥がれる。良い嫁、良い妻の仮面が、もう()たない。 「せめて子どもがいればこれからも一ノ瀬の嫁として色々やってあげても良かったんだけど、いないんじゃねぇ……何の役にも立たないもの」  立ち去らなきゃ、ここから離れなきゃ、と思うのに、足が動かない。このままでは、何か良からぬことを口走ってしまいそう。何年も、何十年も蓋をした心の奥底に溜まって積もり積もった何かが、出てきてしまいそう。  どうしよう、去らなきゃ。 「失敗だったわぁ。暁も物足りなかったんじゃないかしらねぇ」  ああ、もう、喉元まで出かけている。  これ言ったら全てが終わるな、と思えるほどの汚い言葉が。  誰か来て。お願い。  お父さんとお母さんはやめておいた方がいい。これからもご近所さんなのだから余計ないざこざはない方がいい。じゃあ、紘太。紘太ならもう実家を出て別の土地に暮らしているし、大丈夫かも。バカなわたしの口から暴言が飛び出す前に、止めに来て。お願い。  助けて。 「…………い、ン!?」  いい加減にしろや、クソが!  と、言おうとしたのだと思う。脳みそはもうすでに暴言モードだったし、現に、言いかけた。  でも、その言葉は出てこなかった。厳密に言えば、出かけたのを途中で(さえぎ)られた。わたしの口元を覆う大きな手に封じ込められて。  大きな飾り柱の陰から飛び出て言葉を吐き出そうと息を吸い込んだところで、後ろから伸びてきた手に止められた。  良かった。紘太、間に合ってくれたんだ。 「暁ちゃんは幸せだったと思いますよ。それなりに」  え?  紘太の声ではない……!? 「奏以外には暁ちゃんを幸せにできる人なんていなかった」  振り向けない。  背後から抱え込まれるようにして口元を押さえられている。犯人が人質を羽交い締めにするみたいに、ガッツリと。 「なんにも知らないくせに勝手なこと言わないでください」  知らない手。  知らない声。 「Vaffanculo!」  今度は、知らない言葉。  目の前で唖然としている義母やその取り巻きに反論させる隙を与えず、わたしの背後にいる人はホールドを解くとそのままわたしの腕を掴んだ。 「行こう」  何が起こったのかわからないまま、されるがままに、わたしはその人に手を引かれて会場のエントランスから出た。  何だったっけ、これ。  どこかで見たことがあるような。  ああ、あれだ。あの、昔の映画の。結婚式のクライマックスに元彼が乱入してきて花嫁を連れ去る、っていう。  いや、違うか。違うな。  これは結婚式じゃないし。  しかも、元彼なんかでもないし。  全然違った。  でももう、わたしの立場とか責任とか、そういうもの全てがどうでもよくなっていたところだったので、この展開はよくわからないけど少し胸がスッとして、救われた。あのさっきの義母たちのアホみたいなびっくり顔はきっとずっと忘れられないだろうな、と思った。  ばーか。ばーか。ざまーみろ。
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