32人が本棚に入れています
本棚に追加
4 おかえり
すごい勢いでわたしの腕を引っ張って歩く人。
後ろ姿だけでは誰だかはっきりとはわからなくて、もしかしてこれって誘拐!?とか思ってみたり。
でもすぐに、さっき義母たちに向かってわたしや暁の名前を口にしたことを思い出す。ということは、よく知っている人、なはずで。
背がわたしよりだいぶ高くて、スラリとしている。
豪快に刈り上げた後頭部にふわりとかかるサラサラマッシュのショートボブが、歩くたびに軽やかに揺れる。そのすぐ下に見える顎のラインは細い。
黒いスキニーパンツに黒いカジュアルジャケット。襟のところに見えているのはワイシャツでもブラウスでもなくて、黒のタートルネック。黒づくめではあるけど全然フォーマルではない。
お別れ会の参列者、というわけではないのか。
「あの……」
歩くスピードが速くて息が上がって、そういう意味でも止まって欲しくて声をかけた。でもなかなか止まってくれない。
エントランスを出て、公園のような広場を通り過ぎて、車道に面した大きな門を出る。ぐい、と曲がって少し歩いて、会場の建物が完全に見えなくなったところで、ようやく足が止まった。
普通に考えたら、ここで振り向いて自己紹介、か、再会の挨拶。もしくは強引な言動の詫びを入れるか。そう思ったのでそれを待とうとしたのだけど、気づいたらわたしの視界は真っ暗に塞がれていて、それがその人のハグによるものだとわかるまで少しかかった。
「遅くなってごめん」
頭部をその人の腕でほぼすっぽり囲まれているので、音がくぐもって聞こえる。
でも、もうわかっている。
もしかしたら、と思っていた。そうであって欲しいとも願っていた。
だから、その言葉を聞いて、やっぱりそうだったとわかって、心臓を素手で握られたみたいに胸が詰まった。
「すぐに来れなくてごめんね」
いや、違う。
本当はもうとっくにわかっていた。最初に声を聞いた時に気づいていた。暁のことを「暁ちゃん」と呼ぶのも、その人だという証拠。
ただ、もし何かの間違いだったら、と思ったら怖くなって、すぐには認めることができなかっただけ。
どうしてこんなに遅くなったの、とか、なんで一度も返事くれなかったの、とか、言おうと思えばいくらでも言える。
でも、今は、言うべきことはひとつだけ。
「ハル、おかえり」
「うん。ただいま」
ふいに強まった腕の力に、苦しいとは思いつつ同じくらい安心して、身を預けられる場所を強制的に指定されたような感じがしたけどなぜか嫌ではなかった。
暁のとは全然違う、ギチギチに圧迫感のあるハグ。
「ハル、なんかすごく大きくなってない?」
「奏は小さくなった?」
「なってないよ、ハルがデカくなったんじゃん」
10年ぶりに会ってすぐの会話が、こんなどうでもいいことなんて。でも、それが、離れていた間の溝を埋めてくれているようだった。
ハルが高校生の時に別れて、その時はわたしよりほんの少し大きいだけだった。それが、こんなに、10センチ以上かと思えるほど差がついてしまうなんて。
「なんかね、ハタチくらいまでジワジワ伸びちゃったんだよね」
他人事のようにハルは笑った。
変わらない。昔と全然。相変わらずの、のんびりマイペース。
「食べ物とか環境が変わったからかなぁ」
ハグが緩んだので、そっと身体を離して、ようやく正面からハルの顔を見た。
すごく大人になった。10年も経てば当然だけど、やっぱりわたしの中のハルは高校生のあの頃で止まっていて、そのイメージと目の前の人を擦り合わせるのに少し手間取った。
ハルが生まれた時からずっと知っている。家族のような存在。久々に見た彼女はちょっと思ってたのと違う成長をしている気がするけど、大切な、可愛い妹のような存在であることに変わりはない。
話したいことがいっぱいある。離れていた10年間の、ハルのこと。わたしのこと。暁のこと。
イタリアでの生活はどう?
どんな仕事をしているの?
パパとママは元気?
わたしの仕事のことも話したい。暁と結婚した話も。あと、暁がいなくなったことも。それから……
気持ちばかりが逸って、却って言葉が詰まる。焦っても仕方ないのに。まだ再会したばかりで、ここは斎場で、こんなところでせっついてもどうしようもない。仕事でもしょっちゅうやらかす失態。せっかちなのかな。
頭の中でそっとジングルを入れる。強制リセット。気持ちを切り替えて、乱れた流れをぶった切る。それから、即席で台本を構成して、話の流れを想定。ストレスを感じにくいテンポと言葉遣いで、無難に、冷静に。
言葉を扱うプロとして、こんなことはお手の物。
「ハルはいつまで日本にいるの?」
「はっきりとは決めてないけど、とりあえず今月中は」
よし。持ち直した。大丈夫。
「滞在は、ホテル?」
「祖父母が住んでた家、ずっと誰も住んでなかったの、そこにしばらくいる予定」
わたしも何度か遊びに行ったことがある、ハルのおじいちゃんとおばあちゃん家。子どもの頃はバスに乗って15分くらい移動した記憶がある。古いけどとても丁寧に手入れされていた印象。まだあるんだ、あの家。
「おばあちゃんが亡くなって誰も住まなくなってからだいぶ経ってたから、先週帰国してからひたすら掃除してた」
「先週!? 帰ってきてたんなら連絡くれればよかったのに」
「……あー……うん、そうだね、ごめん」
なんとなく歯切れの悪い返答に、胸の中でコロコロと弾みたがっていた期待感が、スッと落ちて温度を下げたような気がした。
そうだ。10年もの間、一度も返事をよこさなかった。何かあるたびに連絡をしたのに、全てスルーされた。過去にこだわっているのは自分だけか。こちらが思っていたほどは、ハルはわたしのことを懐かしんでいない可能性もある。
モヤモヤと、得体の知れない不安が膨れそうになるのを、なんとか理性で抑え込む。余計なことを考えるのはやめよう。今日は色々あって疲れている。感情の制御がいつまでちゃんとできるか自信ない。
そういえばさっき、ハルに今日の祭壇の写真を送ったらもう終わりにしよう、と決めたばかりだった。そこまで諦めたのだ。今さら、多くを望んでも迷惑がられるだけだ。今の現実を生きなきゃと、これからの生き方を考えなきゃと、決意したばっかりだったのに。
「今夜って、このあともしかしてみんなで会食とかあったりする?」
しまった。考えすぎて、ボケッとしていた。
会食。何か、あったっけ。ああ、そうだった。あったな。
「あるけど行かない。嫌だけど仕方ないから行くつもりだったけど、さっきの聞いちゃったらあんな人たちと食事する気なんてもうないよ」
本当に仕方なく行くつもりでいたけど、もういい。行かない。
「妻が抜けて許されるもの?」
「妻だって言っても、今日わたしの家族が座らされたの、親族席の一番下座だよ。いらないってことでしょ。さっきの陰口からしても」
言い方がものすごく卑屈になって、自分でも嫌気がさす。最近、自分がやたらとひねくれて自虐的な思考になっている気がする。
いつからこんなふうになってしまったのか、と思うけど、答えはわかっている。ただ、それを自分でも認めたくないだけ。自分が醜くなっていくのを暁のせいにはしたくない。このまま気づかないふりを続けて、何事もなかったかのように元の自分に戻りたい。
……元の?
元って、どの時点での?
そもそも、わたしって元々どういうキャラだったっけ。
「じゃあさ、どっかご飯食べに行こうよ」
ああ、また。集中力散漫。今日ダメだな、やっぱり。
ハルとご飯、行きたい。行きたいけど。
「わたしこの服じゃ動けないから、一旦帰らなきゃ。着替えたい」
そりゃそうだよね、とでも言いたそうにハルは眉尻を下げた。こんな服、一刻も早く脱いでしまいたい。
「奏、今どこに住んでんの? 実家?」
「違うよ。暁と暮らしてたマンションにまだいるよ」
「引っ越してないんだ……」
「うん、まだ」
あの家を出るところまで思考が行き着いていない。まだ心のどこかに、全てが夢で間違いで実際には何も起きていないのかも知れないという期待が残っている気がする。頭ではわかっていても。
「ついて行ってもいい? 暁ちゃんと奏の家、見たい」
「……いいけど」
出がけにバタバタしていて、片付けしていなかったな、と思い出す。それどころか、ここしばらく何もやる気が起きなくて、日常で散らかした部分も全然片付いていない。でも、ハルならまあいいか。
使い勝手の悪いブラックフォーマルのバッグからスマホを出して時計を見ると、16時を過ぎたところだ。夕飯というには少し早いけど、一度帰って着替えて、と考えればちょうどいい時間かも知れない。
「奏は会場戻らなきゃだよね」
「どうかな。別にこのままいなくなっても誰も気づかないと思うけど」
会場内に置いてきた荷物もないし、紘太にでも1本連絡を入れればこのまま帰っても大丈夫そうだけど。
「私はさっき暁ちゃんのオカンに啖呵きっちゃったから、入りづらいなぁ」
さっきの威勢は見間違いだったのかと思うほど気まずそうな顔で、ハルはちらりと会場の方を見た。その視線に釣られてわたしも会場を見たら、エントランスにパラパラと人影が確認できた。
「あ……もう終わった? 終わったっぽいね。みんな出てきてる。ハル、ウチの家族と会う? 呼んでこようか?」
ほんの一瞬、ハルに雲の切れ間から陽が射すようにフワッと笑顔が浮かんだのだけど、よく見る前にまた曇ってしまった。小さい頃の笑顔の面影が見えたような気がしたのだけど。
「あー……うん、今日はやめとく。一応、式に顔出せたらと思って来てみたんだけど、暁ちゃんの親にまた会うのやだし」
「そっか。そうだね」
「今度改めて奏のお家に挨拶行くよ」
昔から暁の両親との微妙な隔たりをずっと引きずっていて、暁と結婚した時も不安はゼロではなかったけど、それでも暁がいてくれたからなんとかなっていた。その暁がいなくなって、しかもあちら側の本音を図らずも耳にしてしまって、これからも上手くお付き合いしていくとかそんな未来はもう見えない。無理だ。
心残りなんてない。自分に向けられたあからさまな敵意や悪意を受け止める義理はない。もうこれで終わりにしたい。
暁。ちょっと雑な終わり方になっちゃったけど、これでいいかな。
わたし、ちゃんと暁を見送れたかな。
ハルが来てくれたよ。
10年ぶりに、ハルに会えた。
本当は暁も一緒に3人で会いたかったけど、仕方ないね。
もう本当にこれで終わりにしたい。
良いかな?
もう返事をしてくれない暁の声がどんなだったかとか、わたしのわがままを受け止めてくれる時の暁の表情を忘れたくないなとか、ふとした拍子に思い出す暁の存在がわたしには不可欠で、大切だった。
それは単純に、結婚という社会的契約の相手としての信頼や依存も当然あったのだけど、それとは少し違うところでの、その、体裁的な、自分がこの現実社会で無難に生きていくためにどうしても必要な……
「奏?」
「あ、うん。ごめん」
しまった。また。ああもう本当に、今日だめだ。
暁の事故の報告を聞いてから、ついこうしてぼんやりと考え込むことが増えた。だめだな。周囲の人に迷惑をかける。もっとしっかりしないと。
「ごめん。ちょっと紘太に連絡だけ入れとくね」
よりによってハルに気遣われるなんて、格好悪すぎる。わたしの方が4つも年上なんだから、わたしがしっかりしないと。
『用事ができたから先に帰るね。お父さんとお母さんにも伝えといて』
紘太、頼む。何も言わずに見逃して。式は8割がた出席したからもう許して。
面倒な返信が来る前に、わたしはそれから逃げたくてスマホの電源を落とした。
「じゃあ行こう。とりあえず、ウチね?」
「うん」
「祭壇、見なくていい?」
「……うん。いい。見ない。私もまだちょっと完全には信じられないし」
暁の事故の報告について、連絡をしても何も返事をもらっていないので、ハルがどう思っているのかを何一つ聞いていない。
本当はそれを話すのは少し怖い。いくら幼馴染だとは言っても、今のわたしは昔と違って、何もかもを全て晒し出せる状態ではなくなってしまったから。でも、こうして食事に行ったりして一緒に過ごせば、その話題に触れないでいるのはきっと無理だ。
ハルはいつまで日本にいられるのだろう。それすら知るのが怖い。
こんなふうに再会して、懐かしんで色々話をして、また数日で離ればなれになって、再び一切連絡取らない関係に戻るのかもしれない。また、何を連絡しても返信が来ない日々に戻るのかもしれない。
それなら、表面上でだけ、上辺だけで、当たり障りのない会話だけで済ませて終わらせるのもひとつだよな、と思う。
やっぱりわたし、相当ひねくれてるな。我ながら、うんざりする。
いいや、考えるのやめよう。
久しぶりに会った友達として、思い出話をして、楽しく過ごせればそれでいい。そしてまた、今までと変わらない無難な日常に戻ればいい。
ただ暁がいないだけの、今までと変わらない日々に戻るのだ。
「そういえばさ、日本って電車乗る時、改札でクレジットカードまだ使えないんだね。びっくりした」
会場から逃げるように離れて、最寄りの駅に向かって並んで歩く。ハル、昔はわたしが手を繋いで引っ張って歩いていたけど、もうこんなに大人で、なんだか別人みたい。
「イタリアは使えるの?」
「うん。クレジット決済できる。アプリもあるけど。私、日本の電車のカード持ってないからさ、切符買うのめんどくさかった」
「そっかー。確かにいちいち買うの面倒だよね」
ほら。大丈夫。当たり障りのない会話。上手くできてる。
そうだった、わたし、当たり障りのない会話、大得意なんだった。その道のプロなんだった。
じゃあ大丈夫に決まってる。
問題ないじゃんね。
最初のコメントを投稿しよう!