5 かくしごと

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5 かくしごと

(あき)ちゃん、もう帰ってこないのかなぁ……」  誰に言うでもなく小さく呟いたハルの言葉が、ひとりで暮らすには少し広すぎると思っていた3LDKのリビングの空間に虚しく吸い込まれた。 「ね。実感湧かないよね」  形だけのお別れ会も終わって、でも遺体もないから遺骨もなくて、仏壇やお墓はどうなるんだろう、とずっと思っていた。一ノ瀬からもそういう話は一切なくて、なんとなくこちらからも訊けないでいる。  玄関のドアを開けて、最初に入ったリビングがいきなり散らかっていて焦ったけどもう手遅れで。でもハルは取り立てて気にする様子もなく、見たいと言っていた通りにわたしと暁が暮らしていた部屋の中をゆっくりと見て回った。  暮らしていた、と言っても、実際には暁は一年の半分以上を海外で過ごしていたし、仕事の時間も全く合わないので寝室も別。ダイニングで一緒に食事をとったことも数えるほどしかなくて、家族として一緒に暮らしたというよりは、ルームシェアのような感じだった。 「ごめんね、ほんと。最近ずっと忙しくて全然片付いてなくて」  忙しかった、というのは本当だけど、片付ける暇がないほどではなかった。ただ、片付ける気にならなかっただけなのだけど。 「こっちこそごめんね、急に来て」 「いいよ、平気。ちょっと適当にその辺に座って待ってて」  これから食事に行くために、着替えに戻った。何を着ようか、と思って、最近仕事以外でまともな私服を着ていなかったな、と思い出した。おしゃれをしたい、とか、着飾って何かをしたい、という気が完全に消え失せている。  夕飯を、という話だったけど、どんなところに行くのか、それによっては着る服が多少変わってくる。 「どこか行きたいお店とかあるの?」  リビングに向かって声をかけたら、すぐドアのところまでハルが来ていてびっくりした。こちらを向かず、わたしに背を向けるようにしてドアの外側に立っている。肩だけが少し見えた。 「まだ決めてないけど」  しまった、着る服を選ばないうちに礼服を脱いでしまった。 「(かなた)の部屋も見ていい?」  キャミソールとストッキングという絶妙に恥ずかしい格好で、なんと答えたらいいか迷う。 「あ、うん、いい、けど、ちょっと待って」  慌てて無難な服を選んで、キャミソールとストッキングを剥ぐように脱いで着替えた。悠長に選んでいる余裕もなくて本当に無難な服になったけど、ドレスコードとか大丈夫かな。 「ちょっと本当にめっちゃ散らかってるけど、それでもよければ入っていいよ」  予定外のことが起こり過ぎていて、色々な細かいことを気にかける余裕がない。床に脱ぎ散らかした下着や礼服を拾い上げるのがやっとで、そんな情けない姿を見られるのも嫌なのにどうすることもできない。 「あ、の……ホントに、散らかってて……」  謙遜ではなく本当にそうなのが痛い。 「わ……すごい。これ、仕事の?」  ハルが、部屋の片隅に作られた簡易録音ブースを見て言った。  ホームセンターで買った吸音板を貼ったパネルで囲われた半畳程度のスペース。パネルのない面に取り付けられた吸音カーテンが開いていて、中にある小さなデスクに設置された宅録機材が見えていた。  これを見て「仕事の」と言ったということは、わたしが声の仕事をしていることはちゃんと覚えていたのか。就職の報告に返信がなかったから、もしかしたらちゃんと伝わっていないのかも、と思っていた。 「うん。録音ブース、暁が作ってくれたの」 「そうなんだ。すごいねぇ、機材。プロっぽい」 「あはは、プロなんだけどね」  ハルに報告したのは、本当に声の仕事を始めたばかりの頃、たぶん、大学を卒業して最初に声優事務所に所属した8年か9年前、それと、演技の仕事があまり向いていないことがわかってMCやナレーションに特化した事務所に移籍した7年くらい前。  最近ローカルラジオ局でパーソナリティの仕事をしていることは、まだ伝えていない。 「今ね、ローカルのラジオ局で平日週5の番組1本持ってるんだよ」 「えっそうなの!? すごいね! っていうかラジオ? ラジオパーソナリティってやつ?」  急にはしゃいだその雰囲気が、昔のハルと重なって、胸の奥がソワッと疼いた。 「すごいなぁ……奏の声、すごい良いもんね」 「そう? そっかな、うん、ありがと」 「小さい頃さ、奏がよく絵本読んでくれて、なんかすごい覚えてる。あれ、私大好きだったんだよね。ママが読んでくれるより全然好きだった」 「そんな昔の声と今の声、もう変わっちゃってるよ」 「変わってないよ。昔も今も、奏の声、好き」  照れもせず思ったことを直球でぶつけてくるのは、ハルの良いところでも悪いところでもある。心構えもなしにそれを受け止めるのは、内容によってはなかなかしんどかったりもする。  仕事にしている声を褒められたのは純粋に嬉しいけど、同じくらい照れもあって、なんとなく愛想笑いだけして話題を変えることにした。 「ごめん、もうちょっと出かける支度したいから、ちょっとその辺に適当に座ってて」  ベッドを指差してから、ベッドの上もしっかり散らかっていることに気づいて、自分で引いた。だらしなさすぎる。 「ごめん、なんか邪魔なもの適当に()けといて」 「謝ってばっかりだねぇ、奏。私が急に押しかけたんだから奏が謝ることないのに」  ハルの朗らかな表情と声に癒される。  昔と変わらないハル。懐かしくて、このところずっとチリチリと荒んでいた心をそっと(なだ)められた気がした。でもすぐに、やっぱりこれも今だけのことでまたすぐに失うかもしれないんだった、と思い直して、その空気に甘えるのを回避した。 「いや、でも、さすがに汚な過ぎて申し訳ないんだけど、気にしないで座ってて」  慌てて気持ちを立て直したわたしの言葉にハルは仕方なさそうに従って、言われた通りにベッドにそっと腰を下ろした。 「……あ! ごめん、なんか踏んだ……すごい音したね、なんか潰したっぽい」  そう言いながらハルがお尻の下から引きずり出したものを見て、一瞬、思考が止まる。  それから、しまった、という焦りと、座っていいなんて言わなきゃよかった、という後悔と、これでやっと捨てられる、という安堵と、いろんな感情がごちゃ混ぜになって湧きあがってきた。でもハルがそれを手にすることまでは気が回っていなくて、気付いた時にはもうハルはその音の出所を探り当てて手を突っ込んでいた。 「あ、の……」  止めようとしたけど、全然間に合わなかった。わたしが手を伸ばしたその先で、ハルはグレーのパーカーのポケットに入っていたクシャッと潰れた紙を手にしていた。 「…………これ、は」  突っ込まないで。お願い。  気づかなかったフリして。 「………………そうだよね、やっぱり」  見ないでそのままゴミ箱へ。お願いします。 「いや、あの……」  開かないで、そのまま捨てて欲しい。お願いだから。  自分でももう何日も開いて見ていないから、もしかしたらわたしが思っているのと違うものかもしれない、と思い込もうとして。でもやっぱりハルが手にしたものはわたしが何週間もパーカーのポケットに突っ込んだままにしていたあの用紙だ。  だいたい、こんなもの、その事態に遭遇した人だけが見て知っていればいいものなはずなのに、やたらとドラマや映画で劇的なアイテムとして出てきてビジュアルが知れ渡っているから、ハルみたいにそれと無関係の人まで一目で気付いてしまう。 「や、待って、ちょっと」  見られる前に取り返そうとハルに寄ったら、スッとその手を上げられた。中途半端に立ち上がって中腰になっていたから届くと思ったのに、すぐにしっかり立たれてしまって、身長差と手の長さ的に、全然届かない。 「返して」 「……なんでこんなもの持ってるの?」 「返して。お願い」 「…………どういうこと?」  腕を真上に上げたまま、そっとその用紙を開こうとしている。 「ちょっと、もう、返して!」  わたしのお願いを聞き入れる様子はなくて、ハルは黙ってその用紙を頭上で広げた。 「……なんでこんなことになってんの」 「ハルには関係ない」  本当に、ハルには関係ないのに。  勝手にひとりで役所に取りに行って、自分の欄だけ勝手に書き込んだ離婚届。わたしと暁の間でだけ意味のある紙。ハルには、関係ない。 「これ、暁ちゃんは知ってたの?」 「……言ってない」 「言う、つもりだったの?」 「…………それは、まだ……」  答える義理もないのに、と思うのに、ハルの尋問に逆らえない。  いつの間にか、頭上に伸ばした両手の手首をハルに握られていて、ハルが持ったままだったグシャグシャの離婚届の用紙が手首の皮膚に地味に刺さる。 「私が聞いたらダメな話?」  そんなこと、今までひとつも返事よこさなかったくせに。何を伝えても、全部スルーしていたくせに。わたしのことなんて全然どうでもよかったくせに。今さら、何を知りたいというの。 「別に、何もないよ。暁とは何も、問題なかったし。これはちょっと……どういうものか書いてみたかっただけで、ただの興味本位で」  どうせ、今だけ。これが終わったらまたすぐ、ハルはイタリアに戻って、きっと連絡は来ない。今だけやり過ごせれば、ハルの記憶の中のままの頼りがいのあるお姉さんでいられる。 「……暁ちゃんと奏のこと、聞かせて」 「うん、いいよ。じゃあご飯食べながらでも、いろいろ話そう」  弱みなんて見せられない。  大丈夫。取り(つくろ)える。わたしがしっかりしなくてどうする。 「そうじゃなくて、そういう話じゃなくて」  わかっている。暁とわたしの日常のたわいない話を聞きたいんじゃなく、わたしが離婚届に名前を書いて持っていた理由を知りたがっている。わかっているけど、でも、その話はできない。 「さ。早く準備してご飯行こう」  強引に話を逸らしたわたしを、責めるようにじっと見下ろしてくる。黙っているのが威圧感があって、少し怖い。 「手、離してくれる?」  ピントがギリギリ合わなくなりそうなほどの近さで、少しもブレることなく、射るように見つめられる。  その目線の高低差に、今まで感じたことがないような被虐的な感覚を覚えて、焦る。なんだろう、これ。 「ハル。離して」  あまり良くない雰囲気なことは確かで、とにかくこの状況を終わらせないといけないことだけはわかる。なんだか、気分が悪い。 「ね。出かけようよ」  ハルは少しの沈黙の(のち)に小さく口を開く。 「このままご飯食べに行って普通に食事なんてできないよ」  わたしの手首を頭上で握ったまま、目線もだいぶ上方からで、それなのに口調は今まで通りに穏やかなままで、そのギャップにこちらが焦ってしまう。 「今日は外行かないでこのままここで話したい」  少し甘えるような言い回しがやっぱり昔と同じで、また、感情が引っ張られる。 「奏。お願い」  突然、それまで強気でいたハルの眉毛がキュッと歪んで、見開いたままの大きな目からボロッと涙が落ちた。 「え、は、ハル!?」  あまりに前触れがなさすぎて、予想外の展開で、本気でびっくりした。 「なに、なんで、どうしたの」  一応我慢はしているのか、口元に力が入って見事なへの字口。でも、溢れる涙は止まる気配はない。 「もー……なんでハルが泣くの」  ハルは顔を隠すこともしないで子どもみたいにボロボロと泣いた。小さい頃によく泣いていた姿と全然変わっていない。  掴まれていた手を少し引いたら、簡単に外れた。握られていた離婚届の用紙も、軽く引っ張ったらすぐに取り返せた。そのままそっと腕を下げて、ハルの頭を抱え込むように抱き寄せる。  昔は、泣いているハルを抱き寄せたらハルの顔がわたしの胸のあたりにきて、服が涙や鼻水でべしゃべしゃになっていた。でも今はハルの顔の方がわたしのそれより上にあって、服を汚されることももうない。 「ほらもう、泣かないの。大丈夫だから」  自然に口から出た言葉が昔と変わっていなさすぎて、思わず笑いそうになる。 「かなたぁあ……」  ハルの泣き方も昔と同じで、可愛くてもう笑いが我慢できない。  良かった。何も変わっていない。  さっきは上から見下ろしてくるハルに少しびびったけど、こうして泣きついてくる姿は本当に昔のままだ。ただ、わたしが抱っこして慰めるというよりは覆い被さられてのし掛かられている気もするけど、まあいいか。 「ほら、分かったから。じゃあ外行かないで、何かデリバリーでも頼んで、ここで食べながら話そう」  背中をそっと摩りながらもう片方の手で頭をポンポンと撫でたら、ハルが小さく頷いた。それからハルは、ひょろ長い腕を伸ばしてベッド脇のチェストに置いてあるティッシュを取って、涙を拭いた。  ハルが知りたがっていることを話せるかと言えば、それはまだわからない。でも、とりあえず今はハルを泣き止ませることが最優先で。  何やってんだよ、と、正直思う。もう子どもでもない幼馴染のワガママに付き合って、本当は誰にも知られたくない自分のプライバシーをこれから晒すことになるかもしれなくて、それでもわたしはハルを適当にはあしらえない。  大事だから。  妹のように大事だから。  大切な、大好きな幼馴染だから。 「じゃあわたし、片付けたらそっちの部屋行くから、ハルはリビングで何食べたいか考えといて」 「ん……」  そっと身体を離して、まだ少し涙が浮いている眼を見上げる。恥ずかしそうにティッシュで鼻を隠したまま、ハルもわたしを見た。  だいぶ格好良くなった感じがするけど、それでもやっぱり可愛い。 「和食にする?」 「……うん」 「和食だと、寿司か、定食系か、丼モノか、あとは居酒屋系もあるよ」  ほんの少しの間くらい、せっかくわざわざ帰国してくれたハルのワガママを聞いてあげよう。暁の話をいっぱいして、懐かしい話もして、帰国して良かったと思って欲しい。  わたしと暁の本当の関係なんて何も知らないままイタリアに戻って欲しい。  そしてできることなら、いつかまた日本に帰りたいな、と思っていて欲しい。  どうか、普通に、楽しく過ごせますように。
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