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6 波乱のはじまり
冷蔵庫の中にほとんど食材と呼べるものがなくて、自分でびっくりした。
ハルのリクエストで会席料理をデリバリーしてくれるお店を選んだのだけど、それ以外にもちょっとしたおつまみくらいは、と思って準備しようと冷蔵庫を開けて、呆然としてしまった。普段そんなに料理をしないでいたのだっけ。
冷蔵庫の扉を開けたまま固まっているわたしを見たハルが、理由を知るために一緒に冷蔵庫を覗き込んで、同じように固まった。それからふたりで笑って、その後わたしは盛大に落ち込んだ。
「奏、働いてんだし。しょうがないよ」
慰めてくれたのだと分かっていても、さすがにヘコむ。
専業主婦だった母が管理していた冷蔵庫はいつも食材や調味料で満杯で、入りきらなくて困るほどだった。父が好きなお酒もいつも余計なくらいに入っていて、ストックが切れたことは見たことがない。
「ちょっと買い物行かない?」
ハルの提案を受け入れるしかない。本当に何もないのだから。
「さっき、駅前にでっかいスーパーあったよね。あそこならお酒もありそうだし」
お酒、と聞いて、動揺した。
あの泣き虫チビッコのハルが、お酒!?
でもよくよく考えたらハルももうとっくに大人で、お酒が飲める歳になってから何年も経っている。
「奏も飲める?」
「うん」
「よし、じゃあ買いに行こう」
頼んだデリバリーもファストフードではなく割と本格的な会席和食なので、一般的な店屋物のようにすぐには来ない。1時間から1時間半くらいかかります、と言っていたので、買い物に行く時間はたっぷりある。
ハルとお酒を飲む機会が来るなんて。我が子が二十歳になった時の親の気持ちってこんな感じかな、と思ってから、自分にはあり得ない仮定の話だな、と思わず苦笑した。
わたしが子どもを持つなんて、無理だ。
暁がいなくなったから。
それだけ?
もし、いつか再婚したら?
再婚したとしても。それでも、無理なんだよな。
だって、わたしは……
「行こ。早くしないと料理来ちゃうよ」
「あ、そだね、うん。行こっか」
しまった。まただ。本当に今日は……いや、今日だけじゃなく、やっぱり最近ぼーっとしているな。ダメだな。
「財布、財布〜」
わざとおどけて声を出して、胸の中に広がりかけた靄を取っ払った。
楽しく過ごすって決めたのだ。
「えーこれなんだろう、すっごい美味しいけど!」
「家庭料理とかけ離れすぎててもはや何の肉かもわかんないよね」
しっかり目的の買い物を済ませて帰宅して、買ってきたものをセッティングしていたら、ちょうどいいタイミングでデリバリーが届いた。
代金を支払う時に、当然ながら年上のわたしが払うつもりでカードを出したらハルも出すと言ってきかず、少し揉めた。それならわたしが3分の2を払うと言ったのだけどハルは譲らず、結局現金でほぼ割り勘にした。
年上ぶりたいとか偉ぶりたいとか、そういう気持ちがあるわけではない。ただ、久々に会った妹にご馳走してあげるような単純な感覚だったのだけど、ハルには伝わらなかったか。
昔はもっと、ハルの方もシンプルに甘えてきてたよな、と思うけど、やっぱりもうお互い大人で、あの頃の仲良し姉妹みたいな関係のままではいられないのかと少し寂しく感じた。
「暁ちゃんってお酒強かったっけ?」
「暁は強くないよ」
値段もそれなりでデリバリーにしては豪華すぎる会席料理はとても美味しくて、一緒に食べている相手がハルだということもあって、お酒が進む。
「え、そうなんだ。じゃあ一緒に飲んだりとかしなかったの?」
「んー……ふたりで飲みに行ったりとか家で晩酌とかは、ほとんどなかったかなぁ」
実はわたしもお酒を飲んだのがものすごく久しぶりだった。
暁が飲まないし、わたしも家でひとりで飲むことはほとんどなかった。
仕事がいつも朝からなので、声に影響が出るのが嫌で寝酒もしない。同じ理由で友達と飲みに行くことも極力避けていて、どうしてもの時はノンアルで済ませる。仕事が終わるのが午後の早い時間なので仕事終わりに誰かと飲みに行くこともほぼない。週末は色々と他にやりたいことがあって、やっぱり飲まない。
そんなサイクルなので、こうしてお酒をがっつり飲むのは何ヶ月ぶりかそれも覚えていないくらい久々だ。家系的に元々お酒には強かったけど、さすがに久々すぎて、酔っていることを実感する。
「奏は? お酒、好き?」
ハルもそれなりに酔っているようで、頬がほんのりと赤い。
楽しそうで何よりだけど、どうしても、あの小さかったハルがお酒を、という不思議な感覚が拭えない。
「お酒飲むこと自体は好きだよ。今の仕事してるとなかなかタイミング的に飲めないってだけで、前はたまに飲んでたし」
ハルと時間の経過に関する話をするのは、なんとなく気が進まない。前は、と言ってもそれがいつの頃の話なのかを考えるのも説明するのも億劫だからだ。その頃ハルは何していたのだろう、と考えるだけで気が重い。
モヤモヤと気分が濁ったので、わたしは意図して話題を変えることにした。
「ハルはイタリアでどんな仕事してるの?」
今までずっと何も教えてくれなかったからもしかしたら言いたくないのかも、と一瞬思ったけど、お酒も入っているし、気が緩んで話してくれるかと期待した。
「ハガキ、届いてた?」
「ハガキ?」
「あー、絵ハガキだね、写真の」
弾みで聞き返したけど、本当はすぐに何のことか思い当たる。
「ああ、うん。届いてた」
こちらからの連絡の返事にいつも送られてきた、コメントの何も書いていないハガキ。写真とハルの実家のアドレス以外に何も情報のない絵ハガキ。
「あれ私が撮ったの。ああいう写真撮る仕事」
あの写真、ハルが撮ったものだったのか。てっきり市販のものだと……いや、その市販の絵ハガキの写真を撮ったのがハルだということか。
そういえば数年前にハルのママが代わりに返事をくれた時に、ハルが撮影旅行に行ったと教えてくれたことがあった。その時はその撮影というのが仕事なのかプライベートなのかというだけでなく、写真なのか映像なのか個人なのかチームなのかも全くわからなかった。
「フォトグラファー、ってこと?」
「うん」
「どこかに所属してるの?」
「ウチのパパ、今も相変わらずインテリアデザインやってるんだけど」
ハルの家族がイタリアに移住したのはパパが向こうでインテリアデザインの仕事をすることになったからだと、引っ越すときに教えてもらった記憶がある。
「最初はパパの事務所でインテリアのカメラマンやってたんだけど、もっと他にも色々撮ってみたくて別のフォトグラファー事務所に入って、色々勉強して、今はね、独立した」
「そういえば高校生の時、写真部だったもんね」
そうだった。思い出した。高校生の頃から大きな一眼レフカメラを持っていたっけ。
「わたし何回かモデルやったよね」
写真展に出すから撮らせて欲しいとお願いされて、恥ずかしいからと断ってもなかなか引き下がってくれなくて、最終的には渋々引き受けたことが何度かあった。そしてそのうちの1度はちょっとした賞をもらったからと、一緒に展示会にも行ったこともあった。
「あのまま日本の美大に行きたいって言ってたからそうするんだと思ってたんだけど」
「イタリアの美術学院に進学して写真学んだんだよ」
住む土地は変わっても、初志は貫徹したということか。相変わらずブレないのはすごい。
「パパは私にもインテリアデザインやって欲しかったみたいだけど、私はどうしても写真がやりたくてさ」
ブレないし、流されない。自分の意志を貫く強さを、ハルは小さい頃から持っていた。それはわたしにはないもので、素直に尊敬する。本当にすごいな、ハル。
「そっか。頑張ってるんだね」
「うん。頑張ってるよ」
努力をして、その努力を隠しもしないのか。それもすごすぎて、卑屈なわたしは引け目すら感じてしまいそう。
「奏だってすごいじゃん。ラジオパーソナリティーとかさ」
「別にすごくないよ、ただのローカル局の小さい情報番組だよ。全然すごくないよ、わたしなんか」
しまった。出てしまった。卑屈発言。わたしの悪い癖だ。
ハルが一瞬沈黙して挙動停止した。
「……ん? どうかした?」
「いや、別に」
「そう? ……お酒、もっと飲む?」
「んーもうお腹いっぱいだなぁ」
あまりネガティブなことばかり言っていたらハルに呆れられるかもしれない。気をつけないと。
「今日、泊まっていくでしょ?」
「泊まってもいいの?」
ハルの表情がフワッと明るくなった。
「いいよ。暁の部屋、そのままにしてあるから使っていいよ」
「それは……暁ちゃん、怒んないかな」
せっかく華やいだ笑顔がスッと曇って、今度は心配そうな表情を浮かべた。
表情がコロコロと変わって忙しい。
「なんで? ハルなら平気でしょ」
「……私リビングでいいよ、ソファで」
今さら何を遠慮して、と思うけど、それが大人になったということなのか、それともやっぱり距離ができてしまったことを意味するのかと、こちらも一緒に不安になってしまう。
「空いてるんだから暁の部屋使えばいいのに。ちゃんと掃除してあるよ」
「ん……ありがとう」
結局、わたしが押し通す形でハルを納得させたけど、やっぱり完全に昔と同じようにはいかないのかと少し切なく思う。
これはこの先一緒に過ごす時間が増えれば緩和していくのかと期待したいけど、そういえばハルはまたすぐにイタリアに帰ってしまうのだと覚悟したばかりだった。そうだった、そうだった。
期待しないことにしたのだった。
「お風呂どうする? シャワー? わたしちょっと斎場の臭い付いてるから入るけど」
「じゃあシャワー借りようかな」
「着替えは……わたしのでいい? サイズ、着れるのあるかな……あ、暁の、出そうか?」
「いいよ。奏ので」
また遠慮か。
まあ仕方ないか。
「じゃあ先に入っていいよ。服出しとくから。ここ、わたし片付けとくし」
「……片付けくらい一緒にやろうよ」
「そう? じゃ、やろうか」
「うん」
つい、昔のノリで、世話してあげなきゃと思うしなんでもしてあげたくなる。でもなんとなくハルはそれを嬉しがってはいなさそうな感じで、調子が狂う。
いや、期待しないのだった。そうだった。
こうして並んでキッチンに立って、昔、子どもたちだけでおやつを作って食べたりしたことを思い出す。
「子どもの頃さ、よくみんなでおやつ食べたよね」
「ああ、食べたね。色々作ったりして」
「暁ちゃんがさ、やたら器用でさ。なんかなんでもできちゃってたイメージ」
「わかる! なんかサラッと嫌味なくなんでもこなしてたわー」
暁の話をこうして何の気なしにできるのが嬉しい。共通の思い出が、たくさんある。
「奏が一番年上なのになんか色々雑でさ、完成したのひっくり返したり食器割ったり色々やらかしてた記憶ある」
「え? そう? そんなだったかな」
「私はいつもオマケみたいな感じでたいしたことやらせてもらえなかったからさ、観察してたよ色々と」
いつも大きな目を見開いて好奇心旺盛に色々なものを見ていた小さなハルを覚えている。何にでも興味津々で、わたしと暁がやっていることは一緒にやりたがっていた。でもまだ無理なことも多くて、わたしの母やハルのママがいつもフォローしていた。
楽しかったな、あの頃。
「あーあ。もう3人で並ぶこともないのかな……なんかほんと、まだ実感わかない。暁ちゃんがいなくなっちゃったなんて」
いかにも残念そうにハルが言った。
「……帰って来ればよかったのに」
しまった。これは、言うべきじゃなかった。でも。
「ちょくちょく帰国して、みんなで集まればよかったのに」
「……うん、そうだね。今はほんと、そう思う」
「なんで帰ってこなかったの?」
ハルは答えない。相手が言葉に詰まるような質問を投げかけるなんて、配慮とか、気遣いとか、言葉のプロフェッショナルどこ行った?
責めるつもりなんてないのに、詰問じみた口調が止められない。
「連絡したのに。何度も」
「……ごめん」
マズい。酔っているな。なんか、不平不満ばっかり。嫌味ったらしい。
「会いたかったのに」
「……ごめんね」
帰ってこなかった理由は教えてくれないのか。
やっぱり、思いのベクトルが違うのかも知れない。
せっかく楽しく食べて飲んで、その締めがこんな愚痴ではさっきまでの楽しい時間が台無しだ。ハルも少し肩を落として、シュンとしている。
ここは年上らしく、冷静にいい空気を作らなければ。そして、この流れを作ってしまった側として、謝罪の意を込めて軌道修正。
「でも嬉しかったよ、本当に。式に出るつもりで帰ってきてくれて」
「……うん」
「ありがとね」
ずっと下を向いていたハルが顔を上げて、わたしの方をちらりと見た。
「助けてくれたのも、すごく嬉しかった」
あからさまにハルの顔がフワッと綻んだ。
ああもう、可愛い。本当に幼い頃と変わらない子犬みたいな笑顔。すぐにでもギュッとハグしてハルの頭を抱え込んで、くしゃっと撫でてあげたい。でも今そんなことをしたらハルの方が頭が上にあって、昔のようにはいかないんだよな。絶対にわたしの方がハグされる形になるに決まって……
うわ、何、それ。
なんでわたし、動揺した?
ハルが思っていた以上に大人っぽくなっていたから。そうだ。ハルの成長っぷりに、びっくりした。デカくなりすぎてて、驚いたから。昔みたいに簡単にハグしてあげることもできなくなってて、焦ったから。
そうだ、きっとそう。
それだけだ。
「よし、終わり。もういいよ。あとはやっとくからシャワー浴びておいで」
どうにもいたたまれなくなって、わたしはハルを早々にお風呂場に送り出すことにした。これ以上このままでいたら、焦りすぎてわけわからないことを口走りそうで。
ごめん、逃げさせて。
「タオルと着替え出してあるから適当に使ってね。スキンケアとかもあるものなんでも使っていいよ」
「うん、ありがとう。じゃ、入ってくるね」
「うん」
濡れた手をタオルで拭って去っていくハルの背中を、後ろめたい気持ちを抱えたまま見送る。
本当に、何してるんだか。
ずっと会いたいと思っていた幼馴染と再会できて、もっと純粋に楽しく過ごせるものだと思っていたのに。昔と同じように気楽に付き合えると思っていたのに。何が、変わってしまったのかな。
「明日もウチにいていいよ。夜、何か作ろうか」
「あ……明日はちょっと。夜に人と会う約束あって」
頭から水を被ったみたいに一瞬で酔いが覚めた。
「え。そっか。そうなんだ」
ハルが出たあとにわたしもシャワーを浴びて、流れで寝る支度も済ませた。疑うことなく、当たり前のように明日も一緒に過ごすつもりだった。
わたし、何を勘違いしていたんだろう。ハルが帰国して一緒に過ごす人は自分だけだなんて思い込んで。わたししかいないと。わたしだけだと。なんて烏滸がましい。恥ずかしすぎる。
他に会いたい人がいたって当たり前。ハル、社交的だし友達多そうだし、それ以外にも、会いたい人とか、いてもおかしくない。
「あー、ごめんごめん、勝手に決めちゃって。じゃあ出かける時間決まったら教えてね。朝食は食べるよね?」
「……うん、夕方頃に出かけるから」
「オッケ。じゃあおやすみ」
「うん。おやすみ」
どうして昔のままの関係を続けられるなんて勘違いしていたんだろう。会わなくなって、連絡も取らなくなって10年も経って、昔のままなわけないのに。
今日、一緒に過ごして、色々楽しくて調子に乗った。少しの違和感を見なかったことにして、また昔みたいに楽しく過ごせると思いたかった。
ああもう、カッコワル……。
しっかりしたお姉さんなんだろ。落ち着けよ。
インターホンが聞こえた気がして、でも急に訪ねてくる知り合いなんていないし、宅配も最近は何も通販していないから違う。じゃあ気のせいか、と、覚めかけた意識が再び簡単に眠りの中に引きずり込まれる。
一瞬細く開けた目には、もう明るくなった室内がぼんやりと見えた。
半分寝ている脳みそで今日の予定を必死に思い出す。
今日は休日なので収録はなし。それを承知の上で夕べ、お酒を飲んだ。
買い物には行くつもりだけど。なんとなく、何か忘れている気がする。なんだっけ。
あれ、そうか。
ハルが泊まってたんだっけ。
ハル?
ハル、なんで日本に?
ああ。そうだった。暁のお別れ会に出ようとして帰国してくれたんだった。
え? お別れ会?
暁、いないの? お別れ?
そんなはずはないと思うんだけど。
だって暁、まだいるよ?
まだここにいるよ?
わたしの背後にちゃんと、温かい人の気配があるもん。
いつもは寝室別々だけど、わたしが落ち込んだりした時にはいつもこうやって狭いベッドで手を繋いで一緒に寝てくれて。
ほら、ちょっと動いてみても人の身体があることがわかる。温かい。
……え? なんで?
人の声がする。人が話している。
え、だってここにはわたしと暁が住んでて、そのふたりがここにいるのになんで玄関の方から人の会話が聞こえるの?
ハルが話しているのかな。
あれ、でもハルは暁のお別れ会に来て、暁はここにいて、でもハルもいて……あれ? なんで? どういう……
突然、ものすごい叫び声がして、強制的に夢現つから引きずり出された。
ぎゃあ、でもなく、ひゃあ、でもなく、なんとも説明できない、文字で表せないような声。
それが部屋のドアの辺りから発せられたのははっきりわかって、しかもその声は日常的に聞き慣れた声ではない。
「な、なに……!? な……」
自宅の中であり得ない状況が展開されていることはなんとなくわかった。
慌てて起き上がろうとして、でも身体が動かないことに気づいて、ますます混乱した。
「あなた……どういうことなの!?」
ああ、なるほど。これは、あまりよろしくないパターンかもしれない。
でも、どうしてこの人がここにいる?
「暁がいなくなったからってこの家に男連れ込むとか、一体どういう神経してるの!?」
いや、ちょっと。何が何やら。
男?
連れ込む?
誰が……?
いやいやいや、それよりどうして暁の母親がここにいるのか、そっちの方が意味がわからない。
っていうか連れ込んでねーよ男なんか。
わたしが寝室に男なんか連れ込むわけがない。あり得ない。そんなこと。
完全にパニックで、今がいつなのか、どういう状況なのか、本当に何もかもがわからない。
このままでいるわけにもいかないので身体を起こそうとして、動けない原因がようやくわかった。背後にいる人の腕が、わたしに巻きついている。
「……ん、なに……うるさぃ……」
ああ、そうだ。
これ、暁じゃない。
「えー……もう朝ぁ?」
なんでここにいるの、ハル。昨夜、暁の部屋を使わせたはずなのに。
「…………げ」
背後で、おそらくドアのところにいる人物を確認したらしいハルが、ものすごく不愉快そうな声を出した。
「ちょっとあなた、ちゃんと説明しなさい。男連れ込むなんて、こんなことして、どういうことなのかちゃんと話していただける? あ、あなた、まさか、暁が亡くなる前からこんなことしてたんじゃないでしょうね? 暁がいつも長期で家を空けてるからって、あなた」
この人の怖いところは、これだけの内容を矢継ぎ早にまくし立てている割に、口調が激昂しないところだ。その冷酷な感じがかえって恐ろしい。
こちらには全く非がないし、ちゃんと説明しなければ誤解も解けないな、と思って渋々起き上がろうとしたら、背後のハルが先に声を上げた。
「ちょっと待って、おばさん、あの、私。私です。波留可です」
「……へ?」
「柏木波留可です」
「……柏木、え……あら」
勝手に勘違いして乱入してきた勢いは一瞬で消沈して、面白いほどあっさりとおとなしくなった。
「あなたもしかして、昨日、暁の葬儀場に……」
独り言のように漏れた言葉に、ハルが小さくため息をついた。
「気づいてなかったんか……」
「まぁいいわ、ちょっと話があるから起きてちょうだい。リビングで待ってるから」
そうだった。この人は周囲の出来事に流されない人だった。とにかく人の話を聞かない超絶マイペースな人。相談とか議論が意味をなさない。いつでも。
こちらの言い分が通らないことを覚悟して、わたしは仕方なくリビングへ行くために起き上がろうとした。それで、まだわたしに巻きついているハルの腕の存在に気づいた。
「……ハル。なんでここにいるの」
首だけで振り向くと、わたしの背中におでこをくっつけたままじっとしているハルが見えた。まだだいぶ眠そうだ。
「ん、ごめん。なんか夜中起きちゃって、寂しくなった」
相変わらずの子犬感にときめきそうになる。
いや、ダメだった。今は少しでも早くリビングへ行かないと。
「もおーびっくりした!」
「ごめん。っていうか私もびっくりした。なんであの人勝手に入って来てんの? いつもそうなの?」
「いや、初めて」
暁と暮らしていた頃にこんなことは一度もなかった。鍵を渡してあった記憶もないのに。
「えーなに、こわい」
「わたしも怖いよ。なんなの、もぉ……」
リビングに行きたくなくて、できることなら二度寝に突入したい欲望を素直に受け入れたくなる。背後でくっついているハルが温かすぎる。
それにしても、ハルをわたしが連れ込んだ男だと思い込むなんて。
夕べ、出しておいたわたしのTシャツはやっぱりハルには小さくて、結局、暁の服を出し直してあげたのだった。体格やら髪型でただでさえ性別が曖昧に見えるのに、男物の服を着ていたから余計勘違いされてこんな修羅場になったのだ。
「はぁ……放っといたらこのまま帰ってくれないかな。まぁ無理か」
「私どーしたらいいかな。ここにいた方がいい? 一緒にリビング行く?」
「……わかんないよ」
全くもって、どうしたらいいかわからない。
義母がドアから離れる時に、義母の後ろにもう一人誰かがいるのが見えた。なんとなく見覚えがあるけど、でも誰だかは覚えていない感じの人。
もう嫌な予感しかしない。良い知らせな気が1ミリもしない。
ああもう、本当に嫌すぎる。
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