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7 成り行き
夕べ酔った頭で考えていた計画が全て台無しになった。
せっかく久しぶりに会えたハルのために、白米と味噌汁と漬物とだし巻き卵、みたいな純和風の朝食を作ってあげようと思っていたのに。そのために食材だってちゃんと買ってあるのに。
どのくらい一緒にいられるかわからないのに、今日だって夕方からハルは出かけることになっているのに。貴重な1日の計画が狂ってしまった。
あまり待たせては後が怖いからと、簡単に着替えて顔だけ洗って、スキンケアもそこそこにリビングへ行った。ハルには寝室で待ってくれと伝えて。
「あなた、休日はいつもこんな生活してるの?」
この人の口調は、言葉選びこそ丁寧で上品に聞こえるけど、実際にはものすごく冷ややかでフラットで、感情が全く乗っていない。どんなに悲惨な事件の原稿でも顔色ひとつ変えず淡々と読むアナウンサーのように、抑揚もほとんど付けずに言いたいことだけを迷いなく口にする。
わたしは子どもの頃からそれが怖くて仕方なくて、それこそ小学校低学年の頃は、逆らったら殺される、と本気で怯えていた。
婦人向け情報誌の元編集長だと言っていたけど、この口調で何人もの編集部員に淡々と指示を出す姿が容易に想像できる。そこから出版社の社長になったのだからやり手なのだろうな、とは思うけど、正直、一緒に働きたくはないタイプだ。
「いえ、あの……昨日、ハルと10年ぶりに会って、ちょっと……飲みすぎました」
しまった。昨日の話題を出したら、会食サボったことを何か言われるかもしれない。そう心配したのだけど、義母はそんなことは気にしていないようで、さっさと話題を変えた。
「でね、あなたには近々、ここを引っ越してもらいたいのだけど」
普通に、なんで、としか思えなかった。こういうの、青天の霹靂っていうのだっけ。あ、でも違うな。あれは、予想だにしなかったことが起きる。今のこれは、予想、全くしていなかったわけではないかもしれない。
暁がいなくなって一ノ瀬との縁が切れてもわたしここにいていいのかな、とは心のどこかで思っていた。ただ、それを表に出すと、そうでなかった場合でもそういう流れが生まれてしまいそうで、怖くて誰にも訊けなかった。
「暁とそういう話をしたことないんですけど」
「そりゃそうでしょう。暁だって自分がこんなに早く死ぬなんて思ってなかったでしょうから」
自分の息子に対してそんな言い方ができるのか。やっぱりこの人、怖い。
「まぁ、気の毒だとは思います。あなたもその歳で夫に先立たれて、これからの暮らしも不安があるだろうし、女性がひとりで生きていくのが大変だということはわかっています」
こういう言い方も、昔から嫌だった。絶対に自分が悪者にならない言い方をする。「ここを出て行ってもらいたい」とは言わず、「引っ越してもらいたい」と言ったり、同情するふりをしたり。相変わらず、小賢しい。
「でもね、こちらにも都合があるの」
いやこっちにもあるが。
「こちらの、瑠美さんね、あなた会ったことあるでしょう。暁のいとこよ」
暁の母親が、隣で黙って座っている女性を指して言った。
会ったこと、あったっけ。覚えていないけど、顔はなんとなく見たことがあるような気もしないでもない。
「瑠美さんがご家族でね、ここに住むことになったの」
ごく軽く、なんでもないことのように、元義母の口から既に決まった事実が吐き出される。
「……はい?」
「瑠美さん、旦那さんが秋から転勤になってご家族で長野から出てくることになったの。ちょうどいいからここに住まわせることにしました」
しました?
していいですか、ではなくて?
「え、あの……ここ、暁とわたしの家なんですけど」
ダメだ、顔が引きつる。手のひらにじっとりと嫌な汗をかく。
「あなたの名義ではなかったでしょう」
「それは……そうですけど……」
「ここは元々、暁の父親が持っていたマンションです。それを、結婚を機に暁に譲って名義変更したのを、最近になって暁と父親の共有名義にしてあったの」
話が見えない。何が何やら、言われること全て、初耳だ。
「だからあなたの持ち物ではないのよ」
「でも……」
「それにあなた、こないだ姻族関係終了届出したでしょう。それで、あなたにはもうこの家を守っていただかなくてよくなったということです」
ほら、また。そうやって言い回しを調整して、こちらの反抗心をそーっと潰す。
要するに、お前にはここに住む権利はないんだよ、と言いたいのだ。
「こちらの都合で動いてもらうのだから、引越しの費用はこちらで持ちますね」
恩着せがましい。有り難がれよ、というのか。
「え、そんな、急にそんなこと言われても」
「ご実家に戻られたら? ご実家、広いでしょう。子どももいないんだし、あなたひとりが帰られても何も困らないと思いますよ。ご両親も心配されてると思うので、安心させてあげたらどう?」
実家の心配まで。
「まぁ、そんなに急には無理なのわかります。でもあんまり遅いと瑠美さんのご家族が準備できないので、子どもたちの夏休みの間に引っ越したいの。できれば来月いっぱいくらいで動いていただける?」
追い出すことは決定事項で、あとは、出ていくタイミングくらいは譲歩してやってもいいぞ、という流れか。
「あの、それは……」
わたしに断れる余地がないことは明白。だから、わかりましたと言うしかない。わかっているけど、それにしてもあまりにも突然で身勝手で、その気持ちの持って行き場が見つからない。
でも、はい、と言うしかないことに変わりはない。
「……は」
「ちょうどよかったぁ!」
ちゃんと最後まで「はい」と言ったのだけど、語尾の方が背後からの声にかき消された。びっくりして振り返ると、寝起き姿のままのハルがリビングに入ってきていた。
「ハル!?」
なにやってんの。出てくるなって言っておいたのに。
「ね、タイミング良すぎ! ちょうど引っ越そうと思ってたの、費用出してもらえるなんて超ラッキー!」
「え、え? 引っ越……」
いったい何の話が始まったのかと、わけがわからず大混乱。
「私の祖父母が住んでた家、今もう誰も住んでなくて、私そこ使うつもりで今準備してるんだけど、奏も一緒に住むことにしたんですよぉ」
祖父母?
準備?
一緒に……!?
どうして、なんでそんな話に。
「ここ出てった後の心配までしていただいて本当にすみません、ありがとうございます!」
そうか。わたしが混乱しているのを見兼ねて、この場を乗り切るために適当な嘘をついてくれたのか。
また、助けられちゃったな。
「じゃ、そういうことなんで、こちらのことはご心配なく。引っ越しにかかった費用は後から請求させてもらいますね。話、終わりましたよね? ではお気をつけてお帰りくださいね!!」
ハルのあまりの勢いに、暁の母親と連れの瑠美さんは何も言わずに帰り支度をしている。
「Vaffanculo!」
あ、これ、昨日も聞いた言葉。もしかしてイタリア語かな。
昨日は機嫌悪そうに吐き捨てるように言っていたけど、今のはもっと、朗らかというか、勝利を勝ち取った祝辞みたいな高らかと褒め称えるような雰囲気。
意味が通じたのか通じていないのか、ふたりは憮然とした表情で黙ったまま荷物を掴んだ。瑠美さんはそのまま部屋を出たけど、暁の母親は一度だけ振り向いてわたしたちを一瞥して出て行った。
そういえば瑠美さん、一言も話さなかったな。自分がこれから住む家からまだ住んでいる住人を追い出しているというのに、本当に他人事みたいに、顔色ひとつ変えずにただ座っていた。
暁と結婚していたこの家での6年間をあの人たちが上書きしていくのかと思うと、なんとも言えない虚しさが襲ってきた。
「はぁ、もう。何だったんだ」
「あのさ、さっきの、イタリア語?」
2度も言ったのだからもしかしたらすごく大事な言葉なのかも、と思って知りたくなった。
「うん」
「昨日も言ってたよね」
「えーそうだっけ。言ったかな」
ごまかしているのか本気で忘れたのか、意図は読み取れない。
「どういう意味なの?」
「……まぁ、いいよ別に。知らなくて」
「えー。知りたい」
粘った甲斐あって、ハルは仕方なさそうに口を開いた。
「…………クソッタレとかクソ野郎とか、そういうの。英語で言うところのファッキューだよ」
そう言って舌でも出しそうなイタズラっぽい顔をして、ハルは笑った。釣られてわたしも思わず笑ってしまった。
クソッタレ、をあんなオペラのセリフみたいに嬉しそうに高らかと叫んだのか。口調と内容のギャップにさっきあの人たちの前で気づいていなくてよかった。
笑ったら、今までのモヤモヤが少し薄れた気がした。
「ありがとね、ハル。また助けてもらっちゃった」
思わず大きなため息が漏れる。
「うん……もう黙っていられなかったんだもん。マジでなんなん、あのオバサン。ほんっと、昔から見下してきてさ」
つい昨日、同じセリフを聞いたような。
「え、なに? なんで笑ったの?」
「いや、紘太と全く同じこと言うからさ」
「だってそうじゃん、そうじゃない? あれ、めっちゃバカにしてるよ」
ぷりぷりと怒っているハルを横目に、会話で一瞬だけ気持ちが和んだところでこの展開の事実は変えられないんだよな、と再びヘコむ。
「はーあ。もう。ほんと、どうしようかな……実家とか今さら無理だよ」
心の底から重たすぎるため息を吐き出してテーブルに突っ伏したところにハルが近づいてきて、向かい側の椅子に座った。
「え。だからそれは、祖父母の家に」
何言ってんの、というような顔をしたのは、わたしではなくハルの方。わたしはわけがわからなくて、たぶん間抜けな顔をしている。
「それは、ハルが、でしょ?」
「うん。だから、奏も一緒に」
「…………はい!?」
言葉の意味はわかったけど、それが具体的にどういうことなのかがピンとこない。何を言っているの。
「だってハル、イタリアに戻るでしょ? 向こうで仕事してんでしょ!?」
「仕事、独立したって言ったじゃん。私、フォトグラファーの事務所持ってるんだよ。私が代表なの。だから別にイタリアじゃなくても仕事あるし」
代表。そうか。独立したと言っていたっけ。
本当に頑張ったんだな、ハル。
「もちろんこの先ずっと一生日本にいるわけじゃないと思うけど、とりあえずは行ったり来たりになるかもだけど、日本で仕事する間の拠点としてはあの家使うつもり」
ハルの真っ直ぐな視線をまともに受けて、言葉での情報も次から次へと降りかかってきて、処理が追いつかない。
「数日滞在するだけならわざわざ面倒な片付けなんてしないでホテル泊まるよ。でも、これからもずっと使うつもりだったから、先週から毎日必死に片付けてたんだよ」
日本でも過ごす時間を作るの? これからも、ずっと? 本当に?
「奏が一緒に暮らすことになるってとこまでは想定してなかった。でも、この状況の流れ的にはそれがベストかな、って思うけど」
ハルが両腕をテーブルに突いて、少し身を屈めて、わたしを見上げるような体勢になる。そこから上目遣いでわたしをじっと見た。
「あの家、5LDKだよ。私ひとりじゃ広すぎるなぁ」
思わず目を逸らすと、ハルがわたしの視線を追って頭を移動させた。追いかけるように視界に入ってきて、甘えた口調で続ける。
「私、寝室と暗室で2部屋使うけど、それでもあと3コ空いてるなぁ、部屋」
空き……部屋?
「3部屋も空いてたら、防音ブースも作れるなぁ、余裕で」
ズルい。そんなネタ投入するなんて。だってそんなこと言われたら、いいね、それ!とか思ってしまいそう。
「あんな広い家にひとりは、ちょっと寂しいなぁ……心細いなぁ……」
だんだん言い回しがわざとらしくなって芝居がかってきた。
「誰か一緒に住んでくれないかなぁ」
「もう! わかったよ! わかりました。じゃあちょっと、そういう方向で色々考えてみる。まだ! まだ、確定じゃないからね!」
とうとうわたしが根負けした。そういえばハルのおねだりの威力、忘れていた。言い出したらきかないのだった。
でも、わたしが折れたからと言って全てにおいて、はいそうですかわかりました、と言えるものでもない。こんな大事なこと。
甘えるわけにはいかない。だってわたしの方が4つも歳上で、そんなわたしがハルに、甘える!?
そんなの無理だ。できない。
でもわたしには他に道を探す余裕が今はない。
「よし、じゃあこれからどうするか一緒に相談しよう」
「ん……」
まだ、確定ではない。そうだ、まだ決まっていない。考える時間はある。これからちゃんと考えよう。
寝起きで、ちょっと二日酔い気味で、想定外の来客とか、想定外の展開とか、もう本当に何が何やら全然頭が追いつかないのだけど、ひとつだけはっきりしていることがある。
大変なことになった。
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