32人が本棚に入れています
本棚に追加
8 トゲトゲ
暁がいなくなってもわたし自身の生活はあまり変わらなかった。
週5日ラジオの仕事に行って、その合間や週末に他の単発の仕事があれば収録をして、あとは適当に買い物や家事をするだけ。忙しくも暇にもなっていない。
元々、お財布は別々だった。水道光熱費や一緒に食べる食費は暁が出すことが多かったけどそれも決まり事ではなく、わたしは暁の扶養からも外れていたので保険や税金も自分で払っていた。
暁に出してもらわないと困る支出はないので、ひとりでやっていくのは難しくはない。
そもそも、生活の半分以上が別行動だった。連絡だって、暁が通信事情の良くない地域にいる時は数週間全然既読がつかないこともあった。いわゆるラブラブ恋愛期間を経て結婚に至ったわけではなかったわたしたちは、その付かず離れずの関係がしっくりきていたのだと思う。
困ることはない。ひとりでも、大丈夫。
だからこのまま、きっとこれからもずっと、ひとりで適当に生きていくのかな、と覚悟のようなものをしていた。
それが、ハルが帰国したことで大きく変わってきた。そして、マンションを出てハルと一緒に暮らすという話が出た。
自分の力では抗えないような大きな波に、わたしはどうやら飲み込まれたっぽい。
「最近なんか忙しそうっすね」
放送後の会議が終わって帰り支度をしていたら、ブースの片付けをしていたADのタツくんが話しかけてきた。
「ちょっとね。急に、引っ越すことになって、その準備とかがね」
暁の事故のことは職場の人たちも知っている。
さすがに報告したばかりの頃はみんな気の毒がって、誰もが気遣いオーラ丸出しで慎重に接してくれた。でも、当のわたしがいつもと変わらないで過ごしていたので、いつの間にか周囲も普段通りに戻った。
もしかしたら、夫がいなくなっても悲しい顔ひとつしないわたしのことを、冷酷だとか薄情だとか思う人もいたかもしれない。夫婦としてはもう破綻していたのだと邪推した人もいたかもしれない。
でもそんなことはどうでもいい。わたしと暁の関係をよく知らない人になんと思われようと、どうでもいいのだ。
「へぇ。引っ越し先、決まってんすか?」
「あー……まぁ、うん。とりあえず」
本当はまだわたしの中では確定ではない。でももうハルは一緒に住む気満々だし。
「え、とりあえずってなんすか。誰かんとこに転がり込むみたいに聞こえるんだけど」
「あ、そうそう。それ。そんな感じ」
冗談半分、でいい。そのくらいのやりとりがちょうどいい。
深刻にならず、深入りせず、でも上手くやって、無難に、当り障りなく。
「幼馴染がね、部屋空いてるからって居候させてくれることになって」
嘘は言っていない。ただ、100%合っているとも言えない気もする。
「家賃いらないっていうから、助かっちゃった」
わざと俗っぽい感想を述べてみたりして。
やっぱりわたし可愛げないな。素直じゃなさすぎる。
「気心知れた人と一緒なら安心っすね」
「ねー」
気心、本当はよくわからない。だって10年も会っていなかったのだし。
住む場所はともかく、必然的にひとり暮らしになることが決まっていた時には、気楽さ9割の片隅にチラチラと見え隠れする漠然とした1割の不安のような寂しさのようなものが確かにあった。でも、ハルと一緒に暮らすことに決まって、それはきれいに消えていた。
その代わりに、今度は別の、やっぱり漠然としたよくわからない不安が新たに生まれていることに気づいている。
幼馴染とはいえ、10年のブランクがある。再会した日から、何度も会って、食事をしたり今のマンションの片付けを手伝ってもらったりもして、よく知るハルの性格もたいして変わっていないことも実感している。
それでも、わたしの中には得体の知れない小さなトゲトゲの種みたいなものがいくつも存在していて、ハルとの同居生活について何か不安を感じるたびにそれらが転がってわたしの胸の内側をチクチクと刺す。
「あれ、なんか幼馴染って聞いて勝手に思い込んじゃったんすけど、その人って同性っすよね?」
「……そう、だね。女性だけど」
トゲトゲの種がボン!と弾けて、数が5倍くらいに増えた。
それらがびっちりと胸の内側を埋め尽くすように刺さって、クッソ痛い。
「そうっすよねー、良かったー。安心、安心」
なんで同性なら安心なの?
異性なら安心じゃなかった?
その安心とか安心じゃないとかって、具体的にはどういう心配?
フィジカルな心配? それとも、メンタル方面?
そもそもなんでわたしがあなたに安心してもらわないといけないの?
あなたの安心がわたしの生活にどう関係するの?
……やめた。
無駄だ。どうでもいい。
今ここでそんな議論をしても何の意味もない。意味がないどころか、色々とうまくいかなくなることが出てくる。
わたしができるのは、何事もなかったかのように笑顔でヘラヘラとこの場を去ることだけだ。
「じゃあ終わったんで帰りまーす。お疲れ様でしたー」
「あ、お疲れさまっした」
平気、平気。
大丈夫。
うまくやれた。今日も。何も問題ない。
明日からも大丈夫。きっと。
収録スタジオのエレベーターを降りて、エントランスでスマホを取り出す。電源を入れたら、メールやラインがいくつか届いた。
その中に、気が重くなる名前があった。
『びっくりしました。全然知らなかったから。言ってくれれば良かったのに』
『ハルちゃんは快く受け入れてくれてるの? 迷惑じゃないの?』
今朝、母に、あのマンションを出ることと、ハルの祖父母が住んでいた家でハルと同居することになりそうなことを知らせた。その返事が来ていた。
ハルが帰国していることは、暁のお別れ会の直後に連絡して伝えてあった。いつかハルちゃん連れて帰って来なさい、と言われたのだけど、忙しいからと言い訳をしてまだ帰らずにいる。
父と母は、暁がいなくなってから、あまりその事に触れないようにしているように思う。わたしに何か口出ししてくることはほとんどない。
それは、心配していないとかそういうことではないのだろう。
父と母は、わたしが幸せに暮らしていることが当然だと思っていたし、自分の娘が幸せでないわけはないと信じきっていた。現実はどうであれ、わたしはそれでいいと思っていたし、そう信じてもらえるために色々と取り繕ってさえいた。幸せな娘を演じて、幸せな生活をチラ見せし続けていた。
だから、その幸せなはずの娘が突然夫を亡くし若くして未亡人になってしまった、という話をすんなり受け入れられていないのだろうな、と想像できる。
自分たちの娘が不幸に見舞われたことを、たぶん、納得できていない。それで、わたしにどう接したらいいのかわからなくなっているのだと思う。
「あんたみたいに幸せな人はなかなかいないわよ」
今までさんざんそう言っていた手前、そこを修正する方法がわからないのだろう。
母からのラインは、ハルちゃんと帰っておいで、というメッセージで締めくくられていたけど、わたしは帰るつもりはない。余計な気を遣われるのもおかしな心配をされるのも嫌だ。
自分たちに都合の良い姿だけ見ていたいのなら、その幻想を大事に抱えて生きていけばいい。そのまま、幸せな娘を持った幸せな親として人生を終えればいい。それで、誰も不幸にならない。
『同居はハルの方から提案してくれたから大丈夫だと思う』
『仕事もプライベートも忙しくて落ち込んでる暇なんてないから大丈夫』
『特に困ってる事も嫌な事もないし、大丈夫です』
何度も、大丈夫、という言葉を使った。しつこいくらい使った。それがあの人たちにとっては一番いいから。
本当のことなんて、知る必要はない。知らなくても困らない。
いや、むしろ、知らない方がいいのだ。
母への返信を終えてから、もうひとつのメッセージに気づいた。
ハルからだ。
『今日、用事ないから夜そっち行こうかな』
『行ってもいい?』
『頂き物の焼き菓子あるから持ってくー!』
ハルはあの夜、次の日に人と会う約束があると言った。
わたしはそのことにはあえて触れなかった。意図的にスルーした。だから、ハルが誰と会っていたかは知らない。
それからも時々、予定がある、と言っていた。
誰かと会っているのか、会っているならいつも同じ人なのか、そういうことは一切聞いていない。
わたしにハルのプライベートを詮索する権利はない。ハルが誰かと会おうが、わたしには関係ないのだ。
『今、仕事終わった』
『来ていいよ』
『明日も早いから夜更かしはできないけど』
ハルとは、色々な話をした。
仕事のこと、イタリアのこと、美術学院のこと、ハルのパパとママのこと、暁のこと。でも、わたしの父と母の話はしなかった。訊かれたことだけには簡単に答えて、それ以上は突っ込まないでねオーラをメラメラと出し続けた。
それから、暁との結婚生活の事も、積極的には話せないでいた。
あの離婚届の話が宙ぶらりんになっていることはお互い気になっていても、わたしも話さないしハルもきっとものすごく遠慮して訊かないでくれている。
このまま忘れてくれないかな、と常に思っていて、そうなればいいけど、これから同居してそこに触れずに生活できるかというと、それもなかなか難しいのかも、とも思う。
『やったー!』
『じゃあ向かいまーす』
『何食べる?』
このライトなノリで、いつまでも楽しくやっていければいいのに。幼馴染として、女同士、仲良く。
ずっとずっと、末長く。
ふと、ハルはイタリアで誰か、恋人的な存在の人はいないのだろうか、と思った。そういえばそういう話はまだしていない。
日本で約束して会っている人がそういう存在でないとは言い切れない。もしかしたらその相手も今日本にいて、とか、いや、元々日本にいた人でハルとは遠距離だったけど帰国したので、とか、その可能性もゼロではない。
いやいや、もしそうなら、わたしがハルと同居する前にその人と一緒に住むことになるのが普通の流れだろうし、いや、でもそれでも、困った状況になったわたしを放っておけなくて仕方なくわたしに声かけてくれて、そうなるとまだ部屋も余っているからその人まで同居とかになったらどうしよう、とか。
妄想が捗る、捗る。
ダメだ、もう。頭、爆発する。
いいや。わたしには関係ないし。
いや、関係ある。関係あるよ。一緒に暮らすんだし。
今考えても仕方がない。
何食べようかな。そうだ。それが大事。その返信をしなきゃ。
収録スタジオから最寄り駅までのそれなりの距離を歩きながら、わたしはこれから何を食べたいか考えるのに全脳みそを使った。
考えたらお腹、空いてきた。
最初のコメントを投稿しよう!