6・痛む足

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◇◇◇  夜――青白く光る丸い月が、室内まで明るく照らす。全ての予定が無事終了し、エステラはベッドに身を横たえた。コルセットも外し、素足を投げ出す。   (足が、重たい。体も……でも、なんだか目が冴えてる)    夕餉の席での会話を思い出す。〝私の気持ち次第〟――それを考えると、心が震えた。そんなにも重たい決断を、自分が下して良いのだろうか。  ずっと蓋をしていた罪悪感が首を(もた)げる。自分は、本物の〝エステラ″ではないのにと。 (……お母さん)  暗い部屋を眺めぼんやりしていると、不意に〝美冬″だった頃の感覚が心に蘇る。母を失った悲しみに浸る間もなく、こんな訳の分からない状況になってしまって、最近はただ疲れて泥のように眠るだけだった。 (…………『お母さん、大丈夫? 喉、乾いてない?』)  そんな風に、心の中で独り言ちて目を閉じる。  それは、毎日のように口にしていた言葉。その言葉を告げる時だけ、美冬はほんの少し心が満たされた。  孤独ではないのだと言う安堵と、誰かの役に立てているのだという希望。    そんなことで満足してしまうちっぽけな自分が、今や考えているのは一国の未来だ。  このちぐはぐな状況を俯瞰してみてみると、微かに笑いさえ零れてくる。    ――『美冬はさ……良くも悪くも、何もないんだよ。空っぽの、まるで人形みたいだ』    いつの日か、恋人だった俊也に言われた言葉。  当時は、それなりにショックだった。自分なりに懸命に日々を過ごしてきたつもりだったから。  でも、もしかしたら、その言葉は真実だったのかもしれない。 (…………私は、どうしたい?)  目を閉じたまま考える。思い浮かぶのは、この世界で得た家族の笑顔と優しい温もり。    ――『……怖かったわね、エステラ。大丈夫よ。お母様も、お父様も、ついていますからね』  それは、この世界に来て初めてリュセルダに掛けられた言葉。  一人ではないと、繰り返し告げられることがどうしようもなく嬉しかった。 (……私は、誰の枷にもなりたくない。出来る事なら守りたい。……後悔は、したくない)    眠気はやってこない。  エステラは、明日の予習でもするかと身を起こす。    ベッドの足元には、室内だと言うのに磨き上げられた美しい藍色のパンプスが置かれている。けれど、履けばきっとまた痛みがぶり返す。   (少し本を取って来るだけだから……良いよね)    素足のまま足を下ろせば、毛足の長い絨毯の感触が伝わる。  思っていたよりもずっと、滑らかで気持ちがいい。  白いネグリジェの裾を払い、感触を楽しみながら本棚に向かう。  本を数冊手に持ち、ベッドに戻ろうとしたところで――ふと、姿見が目に入った。   (……光ってる?)    月の光が反射しているだけかと思ったが、違う。  まるで、遠浅の海の底を見ているようだ。  白い砂浜に写る、波打つ光。    本を置き、鏡に近付けばそれが確信に変わる。  テラテラと光る鏡にそっと手を乗せれば、じんわりと温もりを感じた。   (……温かい。でも、どうして……)    その瞬間、ぐんっと腕を引っ張られた。「わっ……」という叫びも空しく、体は傾き、驚きで目を閉じる。  身をぎゅっと固くし、地面に膝を付けば――ざくっと冷たい草の感触が伝わってきた。涼しい風が肩を翳(かす)め、チリチリと鳴く虫の声が間近に聞こえる。  そっと目を開け、辺りを見て愕然とした。   「……こ、こは……?」    ――エステラは、気が付くと深い森の中にいた。
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