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9・婚約者候補の彼
「……ねえ、ほんとにっ……こんなに締める必要が、あるの?」
春の朝日が差し込む中、エステラは自室でギュウギュウとコルセットを締められていた。こんなにも細い体に、何故そんなものが必要なのか。侍女のリュネットは、エステラの背後で力いっぱい紐を引きながら答える。
「はい! エステラ様の美しさを遺憾なく発揮する為です! お耐えください!」
「…………んっ! うぅ……」
エステラの口から、くぐもった声が零れる。ふと、下を見れば、レースの美しい白い靴が用意されているのが目に入る。〝名前のない靴工房〟を訪れてから、もう十日近くの時が過ぎていた――。
◇◇◇
あの日、夜が明ける前に帰った方が良いとセシルは言い、エステラは自室へと送り届けられた。
ヨルのことも気に掛かったし、聞きたいことは山のようにあったが、「また改めてお迎えに上がります」と言う彼の言葉を信じて、その場は素直に従った。ただでさえ疲れ切った体に、森でのことや、感情の激しい揺れ動きも加わり、頭は熱を持ち体は限界だった。
魔法で清められた元のネグリジェに着替え――気が付けば王城の部屋の中にいた。全てが夢だったのではと不安がよぎるほどにあっという間のことだったが、足元に残された靴が夢ではないと語ってくれていて――その後は倒れるように、ぐっすりと眠ることが出来た。
それから、日常は少し好転した。
足の痛みが無くなった為、背筋が伸び、礼儀作法が格段に良くなったと褒められるようになったのだ。ダンスは、技術的な面で覚束ないところはあるものの、及第点を貰うことが出来た。ただ靴を変えただけで――セシルの言葉の意味を痛感した。
伝えたいことも、話したいことも沢山あった。毎晩、眠りにつくまで鏡を見つめて待ち続けたけれど、鏡が光り輝くことはなかった。
◇◇◇
「とてもお美しいです。エステラ様」
今日は、ついにアルカディア帝国の第二皇子と顔を合わせる。
リュネットは当初、見覚えのない靴を訝しんでいたが、偶然ドレスルームで見つけたこの靴をとても気に入っているのだと重ねて告げる内に、この靴に合わせたドレスを選んでくれるようになった。
今日は、上質な白い絹をベースにした金青の差し色のドレス。腰から裾に掛けて繊細な意匠の飾りが取り付けられるが、ゴテゴテとした煩わしさは一切ない。露出は最低限に抑えられており、けれど、体のラインはスラリと美しく見え――一目で、高貴な身の上の女性だと分かる装いだった。
エステラは、鏡の中の自分を見て、その美しさに思わずほぉと溜息を零す。
――コンコン、と扉を叩く音がして、リュネットがそれに応じた。
「エステラ様。迎えの者が参りました」
エステラは、再度姿見の中の自分を見る。そこにいるのは、眩しいほどに輝く女性。
(……私は、これからこうして生きていくのね。コルセットを巻いて、美しく着飾って……)
〝美冬〟としての人生は、恐らくあの事故の日に終わった。いつまでも、この体は借りものだと遠慮していることもできない。どうしてこの体に入ってしまったのかはわからないが、人は、生きていかなければならないのだから。
(……でも、私は〝美冬〟なんだって……〝美冬〟として生きて来たんだって言葉に出来て、随分と気持ちが落ち着いたみたい。上手くできるかはわからないけど、精一杯やってみよう)
鏡は、今日も光らない。
どこかで期待している自分に区切りをつけて、エステラは呼吸を整え口元を微笑ませる。
「……お待たせして、ごめんなさい。行きましょう」
エステラは、リュネットを伴い、自室を後にした。
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