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7・名前のない靴工房
(……ど、うして、こんなところに? 一体、何が……っ)
慌てて立ち上がり、辺りを見回す。幸い、満月が足元を照らしてくれていた。
けれど、森の中であるということ以外、わかることはない。
大きく風が吹き抜け、森が騒めく。
エステラはその音に驚き「きゃっ……!」と声を零し、恐怖に身を竦めた。
疲労、緊張、恐怖――色んな感情が綯い交ぜになり、瞳にじわりと涙が浮かぶ。
どうしてこんなことになっているのだろう。
すると、背後から幼い子供の声が聞こえた。
「……人間? どうして、ここに……」
男の子の声だった。振り返ると、木々の合間に人影が見えた。黒いマントを身に纏い、フードは背中に流して、飴色の瞳と不揃いのヘーゼルナッツ色の髪――そして、同色の猫の耳を持つ十歳前後の少年が、驚きの顔でこちらを見ていた。
「ここは危険だ! それも、そんなに目立つ格好で――早くこっちに!」
「え……?」
鬼気迫る声に、エステラが問い返そうとしたその時。
脇の森から――バキバキバキッと木をなぎ倒す音が聞こえた。見れば、人の数倍はある大きな蛇の頭が、チロチロと赤い舌を覗かせながら木々の合間から姿を現した。
恐怖で固まっていると、男の子の声が耳に届く。
「――……走れっ!」
その声ではっと我に返り、弾けるように走り出した。
少年が先導するように前を走る。
大蛇の視界から逃れるように草木を潜り、右へ左へと蛇行しながら進むが、大蛇はようやく見つけた餌だと言わんばかりにしつこく追いかけて来る。
(……胸が……痛い、肺が破れそう……!)
気を抜けば、冷たい汗をかく背中に悪寒が走る。
ふら付く足を叱咤して、それでもなお走ろうとするが、エステラは木の根がせり出ていることに気が付けなかった。
「……きゃっ!」
体が地面に崩れた。慌てて起き上がろうとするが、土に手が滑り中々上手くいかない。それに――もう走れそうもなかった。
「……っ! くそっ……」
少年は、躓いたエステラを助ける為に肩に掛けていた弓矢を素早く構える。そして、瞬時に狙いを定め、大蛇に放った。弓矢は綺麗な弧を描き、大蛇の左目に命中する。
――……ギィアアアアアアアアア!
大蛇は、甲高く咆哮を上げ、のたうつように首を大きく左右に振り、尻尾で何度も地面を叩いた。その隙に、少年はエステラに手を伸ばす。
「今のうちに! 早くっ!」
エステラは、少年の手を取ろうとするが、大蛇の方が一歩早く持ち直し、口から何かを吐き出した。それがジュッと音を立て、少年の腕を翳める。
「……ぐぅっ……」
「……っ!」
エステラは、痛みに蹲る少年を庇おうと、咄嗟に地面を蹴りその頭を抱きしめた。すると、同時に別のところで力強い声が響いた。
「――――――……伏せろっ!」
腕にぐっと力を籠め少年ごと地面に伏せる。
ぶわっと勢いよく、頭上を風のように何かが通り過ぎた。
大蛇の咆哮は聞こえなかった。ただ、飛沫があがる音やバキバキと木々が倒れる音、ズズンっと地面を揺らす振動が伝わり――やがて森は静かになった。
エステラは、男の子を抱きしめたまま恐る恐る顔を上げる。
目の前には、少年と同じような黒いマントを身に纏い、雪のように白い髪を持つ男性が立っていた。知性を感じさせる細い頬、丸い眼鏡の奥には氷のような色の切れ長の瞳が見える。彼は、長い剣に滴る血を分厚い草で拭って捨てた。闇夜に浮かぶその姿が、まるで一枚の絵のように美しくて、エステラはただ視線を奪われた。
男性は、素早くエステラと少年の前に屈みこみ、二人に声を掛ける。
「……怪我はっ⁉」
エステラははっと意識を取り戻し、大きく首を横に振った。
涙ながらに強く訴える。
「私は……、この子が! 蛇が何かを吐いてっ……!」
「――っ、」
男性は、少年のマントをたくし上げ腕の傷を診る。少年は顔色も悪く、苦悶の表情で呼吸も荒い。
「魔獣〝セリペントス〟の毒は全身に回る。今なら腕を切り落とせば命は助かるかもしれない……」
「そんな……!」
男性は苦い顔をしながらも、少年の腕を切り落とそうと冷静に剣を構える。エステラは、とても見ていることは出来ず、目を瞑ってただ強く祈った。
(ごめんなさい、私の所為で……。私に『毒の耐性』なんて必要ない。お願い、どうか、この子を助けて……!)
すると、エステラの体がじわりと発光し、白く淡い光が辺りを舞う。
男性は、目を剥き一歩下がった。
「…………これはっ……」
息を飲む声が聞こえ、エステラも目を開ける。
驚いている内に、光は少年の体へと集まり――次第に吸い込まれるようにして消えていった。気が付けば、少年の顔に血色が戻り、呼吸はすやすやと穏やかなものに変わっていた。エステラが呆けていると、男性は安堵の吐息と共に剣を腰に収める。
「……どうやら、腕を切り落とす必要はなさそうですね」
「え……?」
「立てますか? もう少し進めば、工房があります」
「……工房?」
男性は、少年を背負いながらエステラに手を伸ばす。
エステラは、咄嗟にその手を握り立ち上がった。
「ええ……〝名前のない靴工房〟。僕は、そこの店主です」
男性の表情から険しさが消え、どこか優しく、どこか悪戯な色を含んだ笑顔に変わる。エステラは、繋がれた手を放すのも忘れ――導かれるままに歩き始めた。
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