7・名前のない靴工房

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◇◇◇  二人は急いで森の中を移動した。  途中、背負われていた少年の容体が変わり、熱を出し始めてしまったからだ。    草木を掻き分け森を進むこと数分――急に開けた場所に出て、エステラは目を(みは)る。  ぽかりと開いた頭上から燦々と月明かりが差し込み、湖の水面がきらきらと輝いていた。水が波打つ音と虫の囀りが耳に届き、足元ではふわふわと蛍が飛び交う。そこは、まるで夢のように穏やかな時間が流れていた。この深い森の中で、ここだけは安全なのだと肌で感じた。  そんな湖の(ほとり)に建てられた、一軒の洋館。  大きな扉の隣にあるアーチ状の窓の中には、磨き上げられた男性用の革靴が置かれている。壁に取り付けられたプレートには、この世界の言葉で〝名無し〟と書かれていた。   (こんな森の中にお店が……お客さんは来るのかしら?)  なんとも不思議な景色だった。    男性が扉を開けると、カランカランとベルの音が鳴り響く。  壁に並ぶ窓から、外の湖と森が見える。明かりは灯されておらず、月の光を反射した湖の影が、窓から差し込み揺れながら室内を照らしていた。  商品には布が掛けられ見えなかった。店と思われるスペースを通り抜けると、薄いカーテンで仕切られたその奥に古めかしい器材が並ぶスペースへと続いていく。壁際には、幾つもの資材が所狭しに並んでいた。  さらに奥に進み、扉を開けると、より広い空間に出た。高い天井、室内はやはり薄暗い。男性が手を振ると、壁に備え付けられたランタンに光が灯る。   (魔法……お城でも、あまり使っている人を見なかったのに……)    この世界の明かりは、自然光か蝋燭――もしくは、魔晶石と言う魔力を貯める石に頼っている。けれど魔晶石は、限られた魔法士にしか扱うことが出来ないとヴィオラスは言っていた。一体何者なのだろうと眺めていると、男性は「こちらで少々お待ちください」と言葉を残し、少年を上階の部屋へと連れて行った。  エステラは、身の置き場に困り、引き続き室内を見回す。    かなり広いが、ここはリビングダイニングという所だろうか。家具は、木のぬくもりが感じられる深い茶色と温もりのあるアイボリーのファブリックで統一されていた。ローテーブルを中心に、L字に並べられたソファーとくしゃくしゃに丸められたブランケット。側には、薪ストーブ。床には、数冊の本が無造作に積まれている。  後ろを振り返れば、パントリーの奥に小さなキッチンがあるのが見える。古めかしい流しには、まだ洗っていない食器達。ダイニングテーブルやイスの上にも、使用済みのカップが二つ不揃いに置かれていた。そして、筆記用具と何十枚と広げられた用紙。用紙には、靴のデザイン画が描かれている。    それは、食事も仕事も綯い交ぜに――日々の暮らしが繰り返しここで営まれているのだという、何とも言えない生活感。 (…………私と、お母さんが暮らしていた部屋みたい……)  およそ四十平米のマンションの一室。この部屋ほどに広くはないけれど、お気に入りのカーテンとラグを用意して、それなりに楽しく暮らしていた。ダイニングテーブルにはそれぞれの定位置があって、同じようにお気に入りのカップをいつも並べていた。  エステラが思い出に耽り、ぼんやりとその景色を眺めていると、男性が階段を降りて来る。マントも外し、白いシャツに黒いパンツというラフな姿で、手には白い布らしきものを抱えていた。   「あの子は……男の子の様子は、いかがでしょうか?」  エステラが駆け寄り尋ねると、男性は安心させるようにニコリと微笑む。   「今はまだ熱がありうなされていますが、毒の効果は完全に打ち消すことが出来ているようです。単に体の回復の問題でしょう。熱冷ましの薬も飲ませたので、少し休めば元気になるはずです」    エステラは、ほっと息を吐く。同時に、酷い罪悪感が湧いて来る。   「私の所為で、本当にごめんなさい。何か出来る事があれば良いのですが」 「いえ……恐らくですが、彼が助かったのはあなた様のお陰です。僕はしばらく上に居りますが、扉の脇に浴室があり湯も沸いています。これはタオルと代えの服です。僕のもので申し訳ありませんが、まだ袖は通しておりません。調理台の脇には飲み物や簡単な食べ物も、……っと、すみません。男二人暮らしなもので、片付いておらず……」    気恥しく、申し訳なさそうに告げられる言葉に、エステラは慌てて首を横に振った。   「そんな……! こんな時間に、突然やって来た私が悪いんです。むしろ、何から何まで……本当に、ありがとうございます」  深々と頭を下げると、男性がふっと吐息で微笑む。そして、「すぐに戻りますので、どうか気兼ねなくお過ごしください」と言葉を残し、去ろうとした。エステラは慌ててその裾を掴む。   「あの……お二人を、何とお呼びすれば……?」  男性が目を丸くして足を止めた。すると、すぐに胸に手を当て、柔らかく頭を下げる。   「名乗るのが遅くなりました。彼はヨル。そして僕は、セシル。セシル・コードウェインと申します。しがない、靴職人でございます」    洗練されたその仕草に――エステラは、靴職人と言うよりまるで貴族や騎士のようだと、そう感じた。
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