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◇◇◇
美冬は、冬の夜空が好きだった。黒をより黒に。透けるような寒さが、その色を清らかにするから。時刻は、夜と呼ぶにはまだ早い。東の空には薄っすらと細い月が浮かび、その上には藍色の空がゆっくりと、世界を包み込むように広がっていく。
冷たい風の中、美冬は喪服の上に着た黒いコートの襟に顔を埋め、大きな手提げを持って移動する。中には、母親の遺影、位牌――そして、骨壺が入っている。十五年にわたる長い闘病生活だった。なんとか抗ってきたけれど、最期は別の病であっけなく逝ってしまった。気が付けば、美冬も三十代の半ばに差し掛かり、母の死さえ冷静に受け止められるほどに大人になってしまっていた。
バスに乗り、椅子に腰を落ち着けるだけでほっと力が抜ける。荷物が思いの外重く、就職活動の為にと十年以上前に購入した安い革靴は、支える重量の分だけ足に食い込んでいた。こっそり靴から足を外し、窓の外を眺めると、少しずつイルミネーションの明かりが灯されていくのが見える。今日は、クリスマスイブ。街は、優しい空気に満ちている。
美冬は、通り過ぎる街並みを眺めながら、ぼんやりと今日のことを思い出していた。結局、生活費だけはと振り込んでくれていた父親も、母の葬儀に終ぞ顔を見せることはなかった。きっと、本当の家族に申し訳が立たなかったのだろう。参列者は、ごく僅かだった。最初から二人きりの葬儀にすれば良かったのかもしれない。亡くなった母親に、余計に寂しい思いをさせてしまったようで少し心苦しかった。
美冬の恋人の俊也は、とても焦った様子で葬儀の終了間際にやって来た。
二人が最後に会ったのは、数か月前。彼が――別の女性とカフェで楽しそうにお茶をしていた時だった。葬儀の後、控室で少しだけ話をした。彼は、困ったような顔をしながらも、取り留めもないことを一つ二つ話した後、美冬の母親のことに関しては「お疲れ様」と言った。美冬は、いつも通り静かに相槌を打って聞いていたけれど――その言葉を聞いて、「……私達、もう別れませんか?」と静かに尋ねた。口調とは裏腹に、衝動的に飛び出した言葉だった。彼は、何か言いたげではあったけれど、反論も抵抗も見せずに「わかった」と一言で応じた。その時の気持ちが落胆なのか、安堵なのか、後悔なのか……彼女自身にもよくわからなかった。
バスの中で、美冬は携帯電話を取り出して二人の歴史を遡る。気が付けば、もう5年以上の付き合い。どれだけ画面を流しても、出会った頃のやり取りは出てきてくれず、そっと全てを消去した。悔しいけれど、きっと、どうやったって気持ちの全てを伝えきることは出来なかった。
――次は、××。お降りの方は、お手元のブザーを鳴らして下さい。
バスが、目的のバス停に近付く。ブザーを鳴らし、停車と共に荷物を抱えてバスを降りる。そして、バスの後ろに回り、道の向こう側へ。その瞬間、バキッと音が鳴り足から力が抜けた。
足元を見れば、使い古した靴が遂に壊れてしまっていた。ただ美冬は、そんなことよりも手放してしまった荷物の中身が気に掛かる。荷物を掴もうと手を伸ばすと――……パッパーーーー! というけたたましい音と共に、視界に眩しい光が広がった。
そこからの意識は途切れ途切れ。強い衝撃を感じたかと思えば、一瞬の内に冷たい道路に横たわっていた。でも、不思議と痛みは感じない。はらはらと降り始めた白い雪が、道路に吸い込まれるように溶けて消えていくのが目前に見える。騒めく人々の声は遠く、美冬の心は静かだった。
(……寒い。それに、すごく、眠たい…………)
微睡む視線の先に、抱えていた荷物が見える。大切な分だけ重たかったそれを、そっと手放すように、美冬はゆっくり瞳を閉じた。
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