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シャワーを浴びた後に整髪し、ダークネイビーのスーツに着替えてリビングへ戻ると、奏は、まだ電子ピアノで演奏していた。
一体、朝から何時間弾いているのだろう? 彼女の集中力が半端ない事を初めて知った俺。
身体をしなやかに揺らしながら音を奏でている彼女は、先日エントリーしたピアノコンテストの演奏を彷彿とさせる。
俺は背後から近付き、奏が何を演奏しているのか、液晶画面に映し出されている楽譜を見やる。
画面左上には小さく『ブラームス ラプソディ 第二番』と書かれてあり、淡々とした三連符の刻みの上に、仄暗くミステリアスな旋律を紡ぎ出している。
腕時計で時間を確認すると、そろそろ十四時になろうとしていた。
****
「奏。そろそろ出発しないと」
「えぇ? もうそんな時間!?」
まだ弾きたいなぁ……と言いたげな彼女に、俺は穏やかに笑みを湛えた。
「仕方ないな。あと一回……いや、あと一曲だけだぞ?」
「やったぁ!」
言いながら、彼女が弾き始めたのはショパンのプレリュードで、胃薬のコマーシャルで有名な一分にも満たない楽曲だ。
最後の和音をしっとりと鍵盤に乗せた後、彼女は立ち上がり、お待たせ、と言いながらバッグを手にして微笑む。
「さて、挨拶に行くぞ? これは重要なミッションだからな」
俺は唇を綻ばせ、奏の手を取りながら玄関へと向かう。
そうだ。音楽一筋だった彼女の人生を、これから先、俺も隣で一緒に見たいと思ったのだ。
彼女が俺をそっちのけで電子ピアノに夢中になってしまうのは想定内であり、何よりも破顔させた面差しは可愛かった。
この先、夫婦になったら、彼女が試験やコンテストで集中しないといけない事が、幾度もあるのだ。
(こんな些細な事で半ば呆れたらダメだよな。俺の妻に相応しいのは奏だけなんだから……)
彼女と歩む人生に胸を躍らせながら、俺と奏は、新たな生活に向けての第一歩を踏み出した。
——La fine——
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