92.少しばかり欲が出た

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92.少しばかり欲が出た

 アスターと呼ばれる主人公は、出てこない。アスカは侍従としての作法を習い、貴族名鑑を必死に暗記している。そこまで記し、コルジリネは筆を止めた。冒頭から読み返し、眉根を寄せる。  これでは仕事の報告書と変わらないな。先ほどまで仕上げていた書類を視線の端に捉え、悩んだ末に机の上のベルを鳴らした。顔を見せた侍従に、婚約者への手紙を出すから便箋を用意するよう命じる。花柄の便箋がありますと返され、大きく頷いた。  味気ない報告書でも、カレンデュラは気にしないだろう。理解しているが、やっぱり寂しい。互いに愛情があるのは間違いないのだから、ここは恋人同士の振る舞いが足りないのだと判断した。平民のように街でデートしたり、一般貴族のように互いの家を行き来したりすることはない。  皇族と隣国の公爵令嬢で、出会いは政略結婚だ。貴族同士なら珍しくもないが、そこから愛情を育んだ。カレンデュラの苛烈な一面は嬉しい驚きで受け止めたし、あの美しさと優雅さは見惚れる。何より歯に衣着せぬ性格と、賢く立ち回れる頭脳も惹きつけられた。  はっきり言えば、嫌いな場所がない。そんな彼女に宝飾品やドレス、花は贈った。手紙もまめに書いているが、何かが違う。前世の日本での話が出て、記憶が鮮明になったことで……欲が出た。結婚前にもう少し、恋人気分を味わいたい。  皇室の紋章が入った便箋では、その雰囲気が出ないだろう。届けられた花柄の便箋をじっくり眺め、ふと気づいた。 「これは誰が使っている?」  宮殿内にあるなら、誰かが普段から使用しているのか。尋ねたコルジリネに、侍従は一礼して答えた。 「皇妃殿下がお使いです」 「わかった、ご苦労だった」  労って侍従を部屋から出し、並んだ十数種類の便箋を吟味する。カレンデュラのイメージなら薔薇か? だが一般的すぎる。可憐な小花を眺め、鈴蘭に目を止めた。毒がある植物だが、見た目は愛らしい。これにしよう。  他の便箋を端に寄せ、鈴蘭の便箋に愛を綴る。会いたい、一緒にいたい、早く結婚式を挙げたい。そんな想いを幾通りもの言葉に置き換えた。びっしりと四枚ほど書き上げると、満足して封筒に合わせて折る。  先ほどの報告書のような手紙と一緒に押し込んだ。ふっくら厚みのある封筒に蝋を垂らし、スタンプを押す。紋章がくっきりと残る封蝋に、笑みが浮かんだ。彼女は便箋の違いに何を思うだろう。  今日は良い夢が見られそうだ。浮かれながら部屋を出た。双子の騎士が室内を点検し、兄アリウスが照明を落とす。彼が追いつくのを待って、二人を連れて自室へ戻った。  当初は窮屈で面倒に感じたが、今では護衛の双子がいるのは日常だった。常に誰かの目があり、注目される日々も悪くない。日本での記憶が薄れるほど馴染んだこの世界が、平和なまま幕を引けるよう。  これ以上物語が関与しないことを祈りつつ、コルジリネは眠りについた。
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