FEED

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 澄み渡るほどに青々とした空の下。ゆうゆうと泳ぐ渡り鳥によって、校庭に生い茂る桜の緑に黒い影法師が落ちた。窓ガラス越しにそんな光景を眺めていた私『天芽 結衣(あまめ ゆい)』は、静かな室内に粛々と響く教壇からの声をぼんやりと聞いていた。 「――――ですから、私達は自分の感情を適切な形で相手に伝え合うことができるようになりました。田中くん、この装置の名前は?」 「顔面装着型感情表現補助装置。Face-attachment Emotional Expression Device。通称FEEDです」  「良くできました」と微笑み頷きながら、先生は手にした教科書へと目線を戻す。歴史の授業は嫌いではないけれど、私の好奇心は四角く切り抜かれた外界の景色を優先していた。職人たちの手によって丁寧に色塗りされたコンクリートの整った色彩よりも、青や緑、黒や茶色が入り乱れた自然な形のほうが好みだから。 「FEEDは、装着者の脳波から感情を読み取って数値化し、表情や声色に反映させることで意思伝達をより円滑に行うための装置です。新生児や未発達児が家族に適切な感情を伝えたり、外的要因等で大きな負の感情を抱いた際の異常数値を検知し、政府から救護部隊の派遣要請を行うことができます」 「時の政府がFEED普及に求めた目標は、いじめ・虐待による被害者の撲滅です。FEEDの普及により、効率的なコミュニケーションが可能となりました。被害者は当時の1割未満まで減少した他、副次的な効果として就業率が向上し、経済回復や生活満足度の向上にも大きな効果を齎したと言われています」 「当初の政府では、新生児が成人するまでの期間、政府負担にてFEEDを装着することを義務としていました。しかし、先程言った通りの効果が認められ、政府はこれを拡大。今では全国民が生涯FEEDを身に着け続けることが義務となっています」 「政府の掲げる理念は一貫して変わっていません。『すべての人々の幸福』です。FEEDはその目的を達成するために必要不可欠な存在として、社会に深く浸透し愛されています。今の私達があるのも、全てはFEEDの恩恵だと言われています」  先生は次々に生徒達に質問を投げかけながら授業を進めていく。あっ、空を舞う渡り鳥の一匹がこちらへ遊びに来てくれた。冷たいガラス越しにそっとそのくちばしを撫でる。白い羽毛と黒い翼に、喉元の赤いコントラストがとても綺麗な子だ。とってもかわいい。 「それでは、次に。天芽さん――――」  この子は随分人馴れしてるみたいだ。透明な板を一つ挟んでいるとはいえ、手で好き放題触っても逃げる様子がなかった。窓を開けて直接撫でられないかな。そんな事を考えていると、可愛らしい来訪者は突然に、パタパタと慌てた様子で仲間たちの輪に戻って行ってしまった。 「天芽さん、あなたの小さな動物への愛情はとても素敵ですね。ですが、授業も疎かにしてはダメですよ?」  声がした方に振り返ると、私の新しいお友だちを笑顔で見送りながらこっちに教科書を向けている先生が立っていた。クラスのみんなも、急いで羽ばたくあの子を眺めながら、手を振ったり「またねー」と声を贈ってくれている。えへへ、と笑いながら「ごめんなさい、もう一度お願いします」と尋ね返すと、先生は教壇に戻りながら私に問いかける。質問の内容は、最近何かと話題になる、とある社会問題についてだった。 「新生児の中には、何らかの理由で出生の申告が行われず、FEEDを着けることができなかった子も居ます。また、後天的な原因でFEEDが外れてしまうことも有り得ます。そう言った可哀想な人々は『面無し』と呼ばれ、政府の保護対象になります。面無しは日に日に増え始めているとも、面無し達が一つの集団として組織化しているとも言われています。こういった自体に対して、政府は何らかの政策を講じる必要性に迫られています―――― 「ねぇねぇ、ユイちゃん。『トリックスター』って知ってる?」  すべての講義が無事に終了し、一緒に帰路についていた幼馴染『柄本 鶫(えのもと つぐみ)』がそんな事を聞いてきた。三つ編みと丸っこいメガネがとっても愛嬌があり、すっごく頭がいい。テスト前にはいつも一緒に勉強してくれる、私にとって知恵の女神様なのだ。お勉強同様にニュースや噂話といった、色んな情報に耳がない情報通でもある。普段はとってもおしとやかで敬語を絶やさないんだけど、私と話すときだけはこんなふうに砕けた口調で接してくれるのが、実はちょっと嬉しかったりする。 「うーん……? ごめんね、ツグミちゃん。聞いたこと無いや」  ツグミちゃんはおしゃべりが好きで、表情がコロコロと変わる。「教えてほしいなー?」という興味津々な瞳を向けると、「待ってましたぁ!」と言わんばかりに表情を輝かせながらいろんなことを教えてくれるのだ。可愛いなぁ。 「最近一部で有名なミュージカル劇団の名前だよ! 表立って公演とかしてないから、世間的にはそこまで知名度は無いかも知れないけどね。何ていうか、言葉にするのが難しいくらいすごい演者さんが揃ってるんだってさ!」 「へぇー、そんなにすごい人たちなんだ」  「それなら、どうしてちゃんと公演しないの?」と尋ねると、可愛い幼馴染はちょっと俯いて、何かを考えてるみたいに黙っちゃった。うん、付き合いの長い私にはわかっちゃうよ、ツグミちゃん。もったいぶってるんでしょ。よっぽど不思議な何かがあることは疑いようがない。こういうときはちゃんと続きを聞いてあげると、すっごく嬉しそうに続けてくれるんだよね。「ねぇねぇ、教えてよー! 私とツグミちゃんの仲だろー?」と続きを強請って見せると、ふふんと怪しく笑いながら私の耳に手を当ててヒソヒソと話し始めてくれた。 「それがね……『トリックスター』は面無しだって、もっぱらの噂なの。表立って公演すると捕まっちゃうから、他人の公演をでっちあげたり、舞台をまるごと奪って好き放題に公演しちゃうんだとか」  「『トリックスター』の舞台が終わったあとには、治安維持部隊が派遣されて大騒ぎなんだってさ!」と、ケラケラと面白そうに教えてくれる。なにそれ、超面白そうなんだけど! 「へぇー! いいなぁ、その舞台。面白そう! ミュージカル自体もすごいんでしょ? その後の大捕物とかまで含めて一つのプログラムみたいになってたりして!」 「あはは、あり得るかも! これまで何度も『トリックスター』の公演は行われてるみたいだけど、一度も捕まったっていう話は出てないもん。全部が全部、計算ずくでも可笑しくないかも」  優雅な曲が流れて流暢に演じられるミュージカルの演技を堪能したあとに、ドッタンバッタン大騒ぎのリアルな大捕物が起きるなんて、とっても贅沢なアミューズメントに感じちゃう。人生に一度は見てみたいなぁ―――― 「――――ところで、ユイちゃん。ここに、その『トリックスター』が現れるであろう、と言われている舞台のチケットがあるとしたら、どうじゃろな?」  そんな私の内心を見透かしたかのように、いたずらっぽく笑う親友は、ショルダーポーチから一組のチケットを取り出してみせた。「おぉっ」と食い入るように、簡素ながら綺麗にデフォルメされたキャラクターがプリントされたチケットを見つめる。けど―― 「あぁん、残念。この日はバイト入ってるんだ。それも、お世話になってる先輩が体調不良だからっていう代役なの」  携帯端末でカレンダーを確認して……うん、間違いない。チケットに書いてある日は、地獄のワンオペタイムが待ち受けているのだ。ツグミちゃんは「ありゃま」とでも言いそうな顔をした後、自慢げに勝ち誇った顔で胸を張り、私のことを見下ろそうとする。私のほうが身長高いから、今の彼女の靴じゃどう頑張っても無理なんだけどね。 「じゃあじゃあ、感想戦を楽しみにしてることだよ、ユイちゃん」 「うん! どんな感じだったか、私にも解るように懇切丁寧に教えてよ!」  ツグミちゃんは賢くて教え上手だからその点は心配してないけど、とは言わず。私達は自宅に続く交差点で別れを告げる。笑顔で手を振るツグミちゃんの姿が、青信号で走り出す自動車の影に飲み込まれるのを確認して、私もルンルンで帰路についた。 ――――――――――――――――  薄灰色の雲がお日様を隠す、ほんの少しだけ生憎な空模様の中。私は一人、都心部から離れた商店街の中を歩いています。お昼時にも関わらず、薄っすらと錆びついたシャッターが降りた建物がまばらに立ち並び、塗装が剥げかけた看板の前で元気よく呼び込みをする店主さんの声だけが響いていました。新しいストリートが駅近くに作られて以来、そちらに店を移したところが多いのでしょう。あ、ここのお惣菜屋さんも移転しちゃったんですね。コロッケが絶品で、ユイちゃんと一緒に良く食べていたのを思い出します。一度だけ、本当に揚げたてのものに当たったことがあって、ユイちゃんがいつも通りかぶりついたから、余りの熱さに泣きそうな顔でベロを出していたっけなぁ。  目が少しだけ切れ長で、思ったことをハキハキと喋り、小さな動物に瞳と頬を緩ませる、小さな頃から一緒に育った大好きな親友。本当は、一緒に見に来たかったけど……仕方ないよね。彼女はご両親からの仕送りに頼ること無く、自立を考えてアルバイトを頑張ってるんだもん。そんな、尊敬に値する幼馴染のために私ができることは、これから体験する演目をしっかりと記憶して、感想を正しく伝えて楽しい時間を共有することだけです! たしか、ここを左に曲がったところに劇場があったはずですが……あっ、ありました!  商店街を抜けて開けた土地に聳え立つのは、古き良さを残した町並みの中でも、とりわけ時代を感じさせる荘厳な建築物です。西洋の建築技術が取り入れられ始めて間もない頃、地価の安いこの辺りを買い取った好事家が作らせたという煉瓦造りのホールは、後になって都心部に設立された巨大なコンサートホールに、多くの顧客を奪われました。しかし、件の劇場にはないオープンステージ形式の舞台の強みを活かし、長い時を経た今でも細々と運営が続けられているそうです。  私は、手にしたチケットへと目線を落とします。演目名は『仮面』。演者となる劇団は、最近活動を始めたばかりの新人だと言われていますが、私の下調べでは該当する劇団の情報は一切手に入れられませんでした。にも関わらず、チケットの売れ行きは目覚ましいもので、完売に至るまで一晩かからない程だったとか。突如現れた新人の、得も言われぬ人気の高さから、この新人劇団は十中八九『トリックスター』によるでっちあげであり、治安維持舞台の目を眩ませる隠れ蓑の一つではないかと囁かれています。  エントランスでスタッフにチケットを手渡し、記されていた席へと向けて足を進めていきます。このホールは4階建てで、中央に開けた舞台が設置されている形式です。四方から舞台を眺めることができるアリーナステージという設計で、中心にある舞台を大きく作っている分、多くの客を収容できるように高さを利用しているようですね。私の席は『4・19』、最上階の壁際という、なんとも言い難い席になるようです。席には程よい弾力のクッションが敷かれていて、座り心地は上々です! 私の席のすぐ後ろには、藍色をした厚めのカーテンで閉ざされた、大きな窓が位置していました。  開演時間5分前となり、ほとんど全ての客席が老若男女様々な顔ぶれで埋まっていきます。見渡す限りの人、人、人。寂れた商店街の外れにポツリと佇む古びた劇場の中だとは、にわかに信じがたい光景です……! 人混みに少しだけ圧倒された私は、隣の空席に目線をそらします。ユイちゃんが居たのなら、きっとこの光景に大興奮して私に話しかけてくれたのかな。いつか、一緒に見に来たいなぁ。そんな事をぼんやりと考えている内に、ビーーッというブザー音が鳴り響きました。あたりの照明がバチンッと落とされ、中央の舞台へとスポットライトが照らされていきます。 「いつか、この『仮面』を剥がせる日が来るのでしょうか――」  仮面を付けた女性がそんな口上を述べるところから、この演目は始まりました。どうやら、中世を舞台にした農村の青年と貴族のご令嬢の物語のようです。ご令嬢は、家の仕来りで顔を覆い隠す『笑い顔の仮面』を身に着けていました。住民たちは、その姿を気味悪がっているようですね。ですが、青年だけは違うようです。ご令嬢の振る舞いや、その優しさに触れて、心から惹かれていきます。ご令嬢も、自分を受け入れてくれる青年に、少しずつ心を開いていきます……! お互いがお互いに惹かれ合って、とても、とっても幸せそうな笑顔です――――けれど、家の都合で引き裂かれてしまって…… 「どうして、こんな事になってしまったのだろうか――」  青年の演者さんの表情が、身振りが、声色が。私が今まで見たことも聞いたこともないような、言葉にできない色を帯びています。片膝を付いて蹲り、眉尻を下げ、肩と声を震わせて……なぜでしょう、胸がチクリと痛むような気がします…… 「でも、僕は君を諦めない――」  立ち上がり、顔を上げ、唇をキュッと強く結び、自分を強く鼓舞しています。声色は強くなり、ぐっと足を踏みしめ、青年は女性が住んでいるお屋敷へと歩み始めました。すごく、応援したくなってきました! 青年は知恵と勇気を振り絞って、お屋敷の中を進んでいきます。使用人や家主に見つかりそうになってしまい、その場にあるものに身を隠して息を殺すシーンは、コッチまでハラハラドキドキしちゃいます! 「迎えに来たよ、マイレディ――」  ついに、青年がご令嬢と対面を果たしました! 再開を喜ぶ、とっても綺麗な笑顔です……! でも、女性はふるふると首を振って、青年を遠ざけようとしています――――あっ、『仮面』を外し……!  「これでもまだ、私を愛せるのですか?」  会場から、小さく悲鳴が上がりました。私も、思わず口に手を当てて言葉を失ってしまいます。『仮面』を外した女性の顔は……ありとあらゆる傷――切り傷、打撲痕、火傷の痕……酷く化膿しているものもあります――が付けられた、非常に醜いものでした。でも―― 「やっと、素顔を見せてくれたんだね。そんな作り物じゃなく、心からの笑顔を見せてくれないか?」  青年が、そう告げました。全く曇のない瞳で、そっとご令嬢を抱き寄せて、とても、優しい声色で――ご令嬢は、ポロポロと涙を零しながら、口角をゆっくりと持ち上げて、目尻をどこまでも優しく緩ませて………… 「きれい…………」  思わず、口から溢れました。二人の表情が何を物語っているのか、どういう感情を胸に秘めているのか、私には正しく言語化できる自身がありません。ただただ、二人の姿が、どこまでも素敵で。ユイちゃんがここに居たら、どう感じるんだろう。不意にそんなことが脳裏を過りました。鼓動が早くなり、頬が熱を帯びるのを感じます。心地よい熱に浮かされるように、私はぼんやりと眼の前の光景を見つめていました。  そんな夢見心地な空間を、バンッという乾いた音が引き裂きます。「何が起きたの?」「何の音だ?」と、会場も少しずつざわざわとしてきました……音がした方へと目を向けると、あまり馴染みのない制服に身を包んだ一団が立っていました―――― ―――――――――――――――― 「それで、どうなったの?」  なんとか終末の――ほんとに死ぬかと思った週末ってこと――シフトを乗り越えた私は、次の日の下校中に早速感想を聞いてみた。よっぽど楽しかったのかなぁ、ということは解る。なんというか、いつも以上に表情とテンションが豊かなのだ。観劇の帰りに買ったっぽい小難しそうな本を小脇に抱えて、我が親友はぴょんぴょんとはしゃいでいる――かと思えば急に押し黙って俯いてしまったり……失礼ながら、一言で申し上げると情緒不安定なのだ。 「それから、治安維持部隊が演者さん達を相手に大捕物が始まったんだけど……『トリックスター』は訓練を受けた彼らの動きをものともしない感じで、こう……シュバッ! シュババッ! ってね」  うん、やっぱりテンションが高いぞ、ツグミさんや。普段ならもっとお上品に言葉を選んでわかりやすく教えてくれるじゃないかえ。でも、見てるコッチまで楽しくなってくるぐらい無邪気なボディランゲージに勤しむツグミちゃんなんて初めて見るかも知れない。めちゃくちゃ可愛い。 「それでね、真ん中の舞台に居たのにあっという間に私の席がある4階までやってきて、窓をバーンって開いてね――――」  あっ、俯いちゃった。思い出してるのかな、なんかモジモジしてる? 顔も赤いような気がするし、なにか印象深いシーンでもあったのかなぁ。茶化して良いのかな? あっ、ジト目で睨まれた。こわーい。 「窓を開いて、ご令嬢と青年が手を取り合ってね……二人で一緒に飛び降りたの! その時、ご令嬢がナレーションとして言ってた言葉が凄く印象的でね……」  モニョモニョしてるツグミちゃん、ハムスターみたいだなぁ。それはそれとして、4階から飛び降りたの!? 大丈夫だったのかな。 「えっと、ヘリコプターが待機してたみたいで、そこから垂らされた縄ばしごを手に取って颯爽と飛び去っていったんだよ」 「怪盗か」と思わずツッコんじゃったのが面白かったのか、ツグミちゃんがクスクスと笑い始めた。あ、ジワッてるやつだ。ちょっと、釣られるから、やめてほしい……ふふっ………… 「ところで、ご令嬢はなんて言ってたの?」 「……ないしょ!」  むぅ、これは本当に内緒にしたそうな顔だ。あんまり突っつくと噛みつかれるかも知れない。噛まれてもふにゃってした甘噛程度にしかならないような気もするけど。わぁ、そんな怨めしそうな目で見ないでってばぁ。 「楽しかったんだね、すっごく。私も行きたかったなぁ」 「うん、とっても楽しかったよ! また『トリックスター』が現れそうな舞台を探すから、見つかったら一緒に行こうね!」  わぁ、お日様みたいな笑顔だ。ツグミちゃん、『トリックスター』の観劇をしてから、明らかに変わったなぁ。今までも百面相かっていうくらい表情豊かだったけど……何ていうか、うまく表現できないんだけど、色んなツグミちゃんが見れて嬉しいな。  そんな事を話していると、随分と時間が経ってしまっていたみたい。ツグミちゃんと分かれる交差点までやってきてしまっていた。「もっとお喋りしたかったなー」とボヤく親友のほっぺたをペチペチして、「また明日ね!」と笑って見せれば、つられてはにかんでくれる。本当にいい子だなぁ、なんて、呑気なことを考えながら、私も帰路についた。 ――――――――――――――――  「只今帰りました」と、玄関の照明を点けながら、力なく呟きます。ほのかに燻る空腹感を募らせながら、私はよたよたと寝室へ向かい、倒れ込むような姿勢でベッドに横たわりました。ボーッとする頭で、今日一日のことをぼんやりと思い返しています。私は、一体どうしてしまったのでしょうか。『トリックスター』の演目を観て、青年が表現する得も言われぬ表情を観て、ご令嬢が零した素敵な涙を観て。胸の奥にある泉に小さな石を投げ込まれたような、ゆらゆらとした波紋が心の奥で揺蕩い続けているのを感じます。  無意味にはしゃいで空回りして、かと思えば何故か目を合わせにくくなって俯いて、それでも一緒になって笑えると、凄く、すごく嬉しくて。もっと色んな私になりたい。色んな私を見てほしい。ご令嬢の涙を浮かべた微笑みの様に、どんな私より綺麗な私を見せたい。そんな度し難い欲求の蕾が、どんよりと空を覆う雲が晴れ、花開く日を待ちわびているようで―――― 「――っ! やめましょう、やっぱり変です、私!」  また熱を帯び始めた頬にピシャリと一喝し、優しい夢に誘おうとする羽毛の塊をボスボスと足蹴にして跳ね起きます。変な妄想で貴重な時間を無駄にするわけには参りません。ユイちゃんと一緒に『トリックスター』の演目を見るという約束をしたのですから、神出鬼没な彼らの動向を探らなければなりません!  幾分冷静さを取り戻して軽くなってきた体を動かし、座り慣れたデスクへと腰掛けてパソコンの電源を立ち上げます。ユイちゃんに情報通とまで言わせた私の頼れる相棒です。『トリックスター』の存在は、少しずつ表舞台でも知名度が上がり始めており、得られる情報も多くなってきています。ですが、私に言わせればそんな表に浮上する有象無象の中に彼らは居ません。むしろ、そう言った表立って流れる情報をすべて取り除いていき、最後に残された可能性を洗い出すことで、彼らの次の動向を知ることができるはず。  カタカタと響く音と、程よく沈み込む硬質な指触りに心地よさを覚えながら、私は『トリックスター』に関する情報の海を隅から隅まで泳ぎ尽くそうとしていました。そんな私が、この記事にたどり着いてしまったのは、必然だったとしか言いようがありません。 「『トリックスター』の輝かしい演技の秘密、教えます……?」  そんな『如何にも』なタイトルのウェブサイトを前に、私の指が立ち止まりました。胡散臭い。気味が悪い。碌なものではない。私の中にある正常な感性が、これに触れるのを避けさせようとしています。 「彼らの舞台を一度でも目にしたあなたなら、『どうしてあんなに美しいのだろうか』と考えたことがあるのではないだろうか――」  こんな得体の知れない記事に時間を浪費している場合ではありません。彼らの次の公演がいつ、どこで行われるのか。いち早く突き止めることができなければ、二人分のチケットを手にすることが難しくなってしまいます。私は忙しいのですから。 「なにか特別なトレーニングを行っているのか? 特別な生まれがあるのか? 持って生まれた類まれなる才能が齎す奇跡か? 否、そのようなことは決して無い。彼らは至って普通の人間だ」  前回のチケットも、あまり良い席であったとは言い難いです。少し舞台から遠すぎましたので。全体を良く見渡せたという点では及第点ですけれども。やはりユイちゃんと一緒に見るなら、生演目ならではの迫力を味わいたいものですし。可能であれば2階の中央あたりを抑えたいですね―― 「そう、彼らは誰よりも“普通の”人間だ。そして、誰しもが彼らと同じ様に光り輝くことができる―――― その偽りの『仮面』を引きはがすことで ――――――――――――――――  黒く滲んだ町並みを照らす街灯の下を全力で駆け抜ける。全力疾走なんて体育の時間以来だった私は、ぜぇはぁと無理やりな呼吸をなんとか続けながら目的地へと急いだ。きっかけは一本の電話だ。発信主はツグミちゃんだったが、携帯端末から聞こえてきた声は低く、掠れて、震えるような、酷く聞き取りにくいお粗末なものだった。ツグミちゃんとは似ても似つかない酷い声の主が、彼女の電話から私に連絡を取ってきたのだ。正直、何を言ってるのか全ッ然わからなかったけど、普通じゃない状況だということだけは私にもわかった。  前に遊びに行ったときに15分かかった道のりを、おおよそ9分程度で駆け抜けて玄関扉の前に立つ。正確には、膝に手をついてうなだれてるけど。あぁ、もう。こんな事ならダイエットついでにジョギングとかやっとけばよかった。首をぶんぶん振って、顔に張り付いてくる前髪を払い飛ばす。インターホンは目の前だ。人差し指でやや強めにボタンを押すと、「ピンポーン」とちょっと間の抜けた音が玄関外の私にも聞こえてくる。 「……? ツグミちゃん?」  ガタンッという物音がかすかに聞こえた気がしたけれど、一向に出てくる様子がない。わけが分からず、インターホンをもう一度鳴らしてみた。せっかくだからリズミカルに。小学生の頃、ツグミちゃんの実家でやったら彼女のお父さんに笑いながらおでこを叩かれたなぁ。懐かしい。  そんな事を考えていれば、少しずつ物音がコッチに近づいてくるのが聞き取れた。普段の彼女であれば『トテトテ』といった擬音がふさわしいんだけど、今聞こえてくるのは『ヨタヨタ』とでもいえば良いのかな。元気がないのは明らかだった。 「ユイ、ちゃん…………?」  壁を隔てているからだろうか、聞こえてきた声に小さな違和感を覚えた。小首をかしげつつも「うん、私だよ!」と伝えると、扉がゆっくりと押し開かれて――――私は、数秒間固まっていたと思う。 「……………………誰?」  部屋の主は、思考停止した私の手を引いてリビングへと誘導した。その後、玄関に駆け出してガッチリと施錠する音がここまで聞こえてきた。その間、私は通された部屋をぐるりと見渡す。室内に満ちているのは、彼女が今の学部に入った頃から愛用している、フローラル系のシャンプーの香りだし、棚に飾られた渡り鳥のぬいぐるみは、ツグミちゃんの誕生日に私が作ってあげたやつだ。私が部屋を間違えている、ということは無いらしい。  ゆっくりとコッチに帰ってきた部屋の主は、地面と水平なんじゃないかっていうくらいに俯いている。うーん、このままじゃ埒が明かないなぁ。ツグミちゃんの部屋に居るということは、我が親友と関係のある人物だと思うけれど。あっ、ゆっくり顔を上げてくれた。まじまじと顔を見てみるけれど、うーん、やっぱり私の知っている人物ではないと思う。 「えっと、はじめまして、だよね? ツグミちゃんとはお友達?」  とりあえず、挨拶は大事だよね。向こうは私のことを知ってたみたいだけど、コッチはそんな事無いはずだし。ん? なんかすっごい驚いてる? えっ、目が潤んで……えっ? 「私だよ……? ユイちゃぁん…………」  ワタシちゃん……? いや、そんなわけ無いよね。流石にご両親のネーミングセンスを疑っちゃう。だとすると、この娘は……ん、なにか取り出して……っ! その眼鏡は!? 「もしかして……ツグミちゃん、なの?」  肯定のかわりに私に縋りつき、瞳に溜めていた雫をポタポタと漏らし始めてしまった。とにかく宥めようとして、空いた右手でこの娘の髪の毛をそっと梳かしてみる。ふわりと、私がよく知っている、私が好きな優しいお花の香が漂うのを感じた。本当に、この娘があのツグミちゃんなの……?  しばらく泣いて少し落ち着いたのか、彼女は腕の中で遠慮がちに顔を持ち上げる。うーん、こうしてみると面影はある気がする。でも、うまく言葉に出来ないけれど……全体的にしょんぼりしちゃったように思う。 「ツグミちゃん、なんだよね? 一体何があったの?」  とにかく現状を確認するのが大切だと考えた私は、目をゴシゴシして鼻をすする彼女が落ち着いた頃合いを見計らって話を聞こうとした。急に問いかけられて驚いちゃったのか、肩をビクリと震わせてしまう。「ごめんごめん」と頭を撫でると、今度はくすぐったそうに肩を揺すっている。でも―――― 「FEEDを…………外したの」  次に肩を震わせることになったのは私の方だった。今、なんて言ったの……? 「人類に課された偽りの仮面を引き剥がせば……」  そこから先は聞き取れなかった。彼女の言葉が、何かを憚るように尻すぼみになったから。ううん、私自身の理解が追いつかなくなったからかも知れない。 「どうして……そんな事したの? FEEDを着け続けることは法令で決まってる事くらい、私でも知ってることだよ? ツグミちゃんがそんな事、知らないわけ無いよね?」  事実を確認したかったのだけど、彼女は押し黙ってしまった。あんなに頭の良いツグミちゃんが、こんな一般常識の基礎の基礎を知らないわけがない。もしかしたら―――― 「誰かに無理やり剥がされたの? 面無しが押し込んできたとか? とにかく、すぐに治安維持部隊と救護部隊に――」 「ッ! だめ、待って!!」  一転、彼女は聞いたこともないような大きな声で私を遮った。むぅ、やっぱりツグミちゃんらしくないぞ。なんというか、鋭さ? みたいなものが言葉に籠もっていた気がする。かと思えば、今度はまた肩を震わせ始めてしまった。なんでだろう、胸がチクチクする………… 「でも、そのままにして置くわけにはいかないでしょ?」  なんとかこの娘を落ち着けたくて、今度はコッチから手を引いて肩を包む。うん、効果はてきめんだ。震えは少しずつ収まってるみたい。心なしか、頬も少しだけ緩んだ気がする。ずっと、顔が石膏で固められたみたいに強張ってたもの。  しばらくそうしていると、ツグミちゃんは口をキュッと結んで、光の点った目で私をまっすぐ見据えてきた。その瞳が、私の心臓の奥の奥に突き刺さるような気がして―――― 「ユイちゃん……これからもずっと、ずっと一緒に居てくれる?」 「……何言ってるの。当たり前でしょ?」  考える必要もない、本当に当たり前の質問だったから、ちょっと拍子抜けしちゃった。私にとってツグミちゃんはかけがえのない親友なのだから。私の答えを聞いて、親友は、とても私の語彙では表現できないような顔を見せてくれた。瞳には目いっぱいの涙を溜めているのに、その頬はとても柔らかで、安っぽく言ってしまえば幸せそうな――――  『ピンポーン』という気の抜けた音が、次いで『ドンドンッ』という重い音が、静かな部屋に響いた。私の胸元に顔を埋めていたツグミちゃんから「ひぃっ」という小さな悲鳴が上がり、震えながら部屋の隅にあるソファの影へと逃げ込んでしまった。一体何事だろう。 「FEEDを外したとき、アラートが鳴ったの……! 『FEEDが解除されました……法令7条に則り、直ちに救護部隊が派遣されます』って…………もし捕まったら、私…………!」  理由は良くわからないけれど、ツグミちゃんの声は、震えて、やけに弱々しく、なんとか耳を澄ませなければ聞き取れなかった。言われてみれば、そんな法令もあったかも知れない。そもそも外すことなんて考えもしなかったから、すっかり忘れていたけれど。 「助けて、ユイちゃん! このままだと、私……」 「大丈夫、大丈夫だよ、ツグミちゃん。私に任せて。さっきも言ったでしょ? 私も、ツグミちゃんと、ずっと一緒にいたいもん」 できるだけ優しく、なだめるような声色でそう伝える。物陰から、今度ははっきりと聞き取りやすい声色で「うんっ!」と返してくれた。そう、これからもずっと一緒にいるためには―――― ―――――――――――――――― 「――――どう、して…………?」  「ツグミちゃんを、よろしくお願いします」と、ユイちゃんは招き入れた救護部隊にペコリとお辞儀をして見せています。スーツ姿の男の人が3人、私が潜んでいるソファの影へと歩み寄ってきて―――― 「やだ……嫌ッ! 助けて、ユイちゃん! なんで、どうして!」  恐怖のあまりソファの影から飛び出し、玄関へと駆け出そうとした私は、あっけなく取り押さえられることになりました。無理もありません。足はまともに動かず挙動はバラバラで、視界は涙でぼやけて役に立たず、そもそも、特殊な訓練を受けた人間が3人も、この狭い部屋の中に押しかけているのですから。 「助けてくれるって! 一緒に居てくれるって、言ったのに……!! なんで! ねぇってば!!」  お腹の底から、ユイちゃんへと叫びます。わかってくれるかも知れない。思い直してくれるかも知れない。こんなにも、こんなにも、ありのままの自分としてあなたの隣に居たいのに。何度も、何度も、何度も。必死になって叫び続けました。そんな姿が煩わしかったのでしょうか。救護部隊の面々は、私の口に手を当てて黙るように告げました。嫌に決まっています……! これが、ユイちゃんと一緒に入られる最後のチャンスかも知れないんですから……!!  周りの景色に目もくれず、暴れ、藻掻き、叫び続ける私の頬に、柔らかい熱が伝わってきて……私も、私を引き摺る腕も止まりました。大好きな人の手のひらが、私の頬を優しく撫ぜました。 「大丈夫だよ、ツグミちゃん。無事に治療が終わって、ツグミちゃんが帰ってくるのを、私、ずーっと待ってるから」  そう告げた最愛の人の微笑みを前に、細いガラス管――光ファイバーの素材のような――に力を加えたような、か細く乾いた音が響いた気がしました。体中の血液がすべて抜けていくような、氷水を張ったプールに押し込まれたような、そんな、心持ちです。「何でわかってくれないの」「どうして助けてくれないの」「どうして」「なんで」「どうして」「どうして―――― 「そっか…………解るわけ、無いんだ…………」  人間というのは、不思議なものです。現状に対して心の底から失望してしまったとき、最後に残るのは、自分自身を客観的に観察する理解力なのですから。私は、あの日の帰りに手に取った本の内容を思い出していました。記されていた内容は眉唾ものでしたが……いざ自分が経験してみれば、もう信じる他ありません。こんなにも苦しくて、つらいから。私達は、『仮面』を被って醜い感情を覆い隠してきたんですね。  私にできることは、ただただ泣くことばかりでした。心の底から、この身が枯れるくらいまで、ただ、ひたすらに。この雫を拭ってくれる人は、きっと、もう、居ないのでしょうね。今の私は、社会から隔離され、今後の一生を施設で過ごす『面無し』なのですから。でしたら、せめて――――――――  涙と鼻水でグズグズに汚れた顔を持ち上げて、目いっぱいに目を開いて、ほっぺたを緩めて……これで、良いのかな。鏡を見たら、あまりの酷さに吹き出しちゃうかも知れないな。でも、今の私にできる、精一杯の笑顔を、ユイちゃんに覚えててほしいから―――― 「バイバイ、ユイちゃん」 ――――――――――――――――  じっとりとした雨がパラパラと降り続ける空の下。私は、隣の空席をじっと見つめてる。ツグミちゃんが政府に引き取られてから、一ヶ月が過ぎていた。アルバイトが入っていない今日、いつものように帰路についている。 「ねぇねぇ、『トリックスター』って知ってる?」  少しずつ雨脚が早くなり、高架下で少しの間雨宿りしていたとき、そんな声が私の耳をくすぐった。声がした方に目線を向けてみると、同じく下校中の学生達が楽しげに噂話に興じているのが見えた。チクリ、と。何かが軋むような痛みを感じた気がする。そういえば、まだ演目を観たことなかったな。あんなに観たいと思ってたのに。なんでだろう。  なんだか良くわからないけど、無性に気分を変えたくなった私は、ポケットから無線イヤホンを取り出して耳に突っ込む。元気で明るいアイドルポップが、ねずみ色の空模様の中に響き始めた。急いで帰っても別段やることがあるわけでもないし、雨が落ち着くまでここでゆっくりするのも良いね。  元気でハツラツとしたお気に入りナンバーのアウトロがフェードアウトしていき、少ししっとりとしたバラードへと移り変わる。この曲、ツグミちゃんが好きだったっけなぁ。カラオケだと、いっつもサビ前にある複雑な音階のとこで躓いてちょっとずれるんだよね。あははっ。 「―――――――――――――――――――」  元気にしてるかなぁ、ツグミちゃん。ちゃんとご飯食べてるかな。施設での治療が終わって、完全に回復したら帰ってこれるらしいけど……早く良くなったら良いなぁ。 「す――――、ちょ―――――――しょうか」  うん? 誰だろう、この人。私に話しかけてるのかな。両耳イヤホンだったから気が付かなかった。そそくさとイヤホンをしまい「なんですか?」と尋ね返してみる。 「天芽結衣さん、ですよね。少しお時間よろしいでしょうか?」  「はい、そうですけど……」と答えつつ、相手の姿をまじまじと見る。年の頃は20代後半くらいかな? 身なりはすごく整ってて、上等そうなスーツを着こなした、とても上品な人だ。ただ、顔を覆うような『仮面』みたいなものを着けてるのが、少し気になるけど。男性は丁寧にお辞儀をした後に言葉を続けた。 「実は、柄本鶫さんの件でお話があります」 「それで、その……話ってなんですか? そもそも、あなたは誰です?」  男性に言われるまま、近くの喫茶店へと足を運んだ。小洒落た内装で、同級生からも人気の場所だったはず。「ドーナツが甘々なんだよー」と顔を緩ませた親友の顔が浮かんだ。 「そうですね、僕のことはロキと呼んでください」  「どこの国の人間だよ」というツッコミを飲み込んだ。偉いぞ、私。今はそんな些細なことより、ツグミちゃんに関する話というのを聞かなきゃいけないからね。「はぁ……で、ロキさんですよね。ツグミちゃんに関する話って何なんです?」と、慣れた調子で話の続きを促す。 「単刀直入に申し上げます。このままでは、あなたと鶫さんは二度と再会することはありません」  言葉を失う。お店の屋根を叩く雨音が、意識の外に弾けて消えていく。え、なんで? だって、施設で治療して、回復したら大丈夫だって…… 「あなたが鶫さんと再開するには、施設から彼女を助け出す以外に方法はないでしょう。僕は、そのお手伝いをしに参上したということです」  ついていけない。理解が追いつかない。この人は何を言ってるんだろう。施設から出てこれない? 助け出すしか無い? 大体、何でそんなことがあなたにわかるっていうの。そう呟くと、目の前の男は、自分の顔に貼り付けている『仮面』を外してみせた。 「僕も、その施設出身の人間だからですよ。この世に生まれ落ちたときからの『面無し』です。そのまま一生を施設で過ごすところを、とある人に救われて今があります」  「その人が居なければ、最後まで飼い殺しにされていたでしょうね」と言って、ロキと名乗った男は笑った。笑っているように見えた。口角を上げ、眦を下げ、けれども、黄昏れるように眉根を寄せていて。私の知る『笑顔』とは少し異なっていた。 「救護部隊に拾われた『面無し』は治療を受けます。場合によっては、後天的にFEEDを装着して社会に戻ることができるかも知れません。ただし、鶫さんの場合はそれが非常に難しい」  何で、この人はさっきから『全部知ってるふう』に話すんだろう。話の内容も、ロキ自身のことも、何もかも全く理解できない。聞いてるだけで胸の奥がチクチク傷んで仕方ない。 「FEEDとは、『人間のネガティブな感情を抑制する』装置です。その装着のためには、対象が感じているネガティブな感情をすべてリセットする必要があります。さもなければ、感情の操作が円滑に行われず、最悪の場合暴走してしまうでしょう。ですが、鶫さんの場合は受けた負荷があまりにも大きすぎました。回復は絶望的でしょう」  今度はFEEDについてまで知ってるように語り始めちゃった。『ネガティブな感情』ってなに? と問いかけそうになって、ツグミちゃんの部屋にあった本の内容を思い出す。『人間は、ポジティブな感情とネガティブな感情を併せ持つ生き物だ』と。そして、『ネガティブな感情』に含まれる『怒り・恐れ・不安・悲しみ・失望・羞恥心・罪悪感』などといった言葉の羅列に、一切の心当たりがなかったことを。  心の内を吐き出すように荒らげた声も、震えながら必死になって私に縋りついた腕も、全てに諦めて光をなくし涙を蓄えた瞳も、全部。私は、ツグミちゃんのことを、何もわかってなかったの……? 「彼女を救えるのは、あなただけなんですよ。結衣さん。」  最後に見た、ツグミちゃんの顔がフラッシュバックして離れない。ポロポロと頬から溢れた涙をこぼしながら、一生懸命に頬を緩めて、私にも解る様に笑顔を作ってみせた、あの顔が。 「助けたいですか、彼女を」  眼の前に座る男の言葉が、あの日胸に突き刺さった小骨を鷲掴みにして、私の何かをえぐり出そうとしているみたいだ。痛い。苦しい。もう、やめて―――― 「柄本鶫に、会いたいですか?」 ……ッ! 会いたいに、決まってるでしょ!!! 『負の感情が許容量を超過しました。法令9条に則り、直ちに救護部隊が派遣されます』  あぁ、うるさい! バンっとテーブルを叩き、目の前に座っている男に食って掛かる。胸がざわつく。沸騰してるみたいに、熱い。今私が感じているのであろう感情は、けれども、私の頭にまで届かない。心の底から湧き上がった『なにか』が、喉元で強烈に押さえつけられるような、そんな不愉快な感覚。もう、どうしたら良いのか解らない。  他のテーブルについていた客たちは「なんだなんだ?」と、遠巻きにコッチの様子を見てるみたい。だけど、そんなの気にもならない。何もかも知ったようなつもりでいる、コイツのことが、心の臓から気に食わない。そんな私の激情まで見透かしているように、スッとテーブルを立って勘定を済ませてしまう。待ちなさいよ……! 「もうしばらくすれば、お迎えが来ます。彼らは鶫さんと同じ場所に、あなたを案内してくれるはずです。その後のことは、こちらから取り計らっておきましょう。あなたは、ただ、彼女を連れて逃げ出すことだけを考えてください……それでは」  席においていた『仮面』を付け直し、わざとらしく深々と頭を下げて見せる。いい加減にしなさいよ……! そう思い、掴みかかろうとした寸前のことだった。様子をうかがっていた野次馬の一人が呟いたのだ。『トリックスターだ……!』って。  予想外の単語に気を取られた一瞬の内に、ロキと名乗った男の姿は煙のように消えていた。入れ替わるようにやってきた救護部隊の男たちに、私はそのまま、車に乗せられて政府の施設へと護送された―――― ――――――――――――――――  「お早うございます」と、私は蚊が鳴くような声で呟きながら体を起こします。あれから、どれだけの時間が流れたのでしょうか。もう、時間の感覚も、自分の状態も、外界への関心すらも、何もかもがどうでもいいとさえ感じてしまいます。お父様は、お怒りでしょうか。お母様は、嘆き悲しんでおられるでしょうか。うふふ、そんなことはありえませんね。『怒り』も『悲しみ』も、あの人達は感じることができないのですから。  自虐的な笑みを浮かべつつ、私は用意された食事を口に含みます。あぁ、懐かしい味がします。私が一人暮らしを始めるより前、お母様がよく作ってくれた、さつまいもの甘煮の味です。ここに連れてこられて初めて口にしたときは、涙が止まりませんでしたね。あんなにたくさん泣いたのに、そう簡単に枯れないものだと、可笑しくなって笑ってしまいました。  食事を済ませたら、次は入浴することになっています。私のスケジュールは政府指導の元に管理されており、これらも全て治療の一環だそうです。以前と変わらない日常に身を置き続けることで、凝り固まってしまったネガティブな感情を和らげる目的があるとか。こんな事をして、何になるというのでしょうね。  同じ時間に食事を取り、同じ時間に入浴し、同じ時間に勉学に勤しみ、同じ時間に体を動かし、同じ時間に就寝する。私という存在は、箱庭の中でゼンマイを回す模型のようなもの。誰一人として、私という存在が箱から取り出されることを望む人は、いません。  「いっそのこと、この命を絶ってしまえば」なんて考えたことも、一度や二度ではありません。そういえば、FEEDが生まれるまで、この国の死亡率で最も上位だったのは自殺だったというお話でしたね。納得です。せっかく世界が色づいて見えたというのに、こんな無彩色な世界に閉じ込められるというのならば、はじめからモノクロームの世界にいることを自覚したほうが幸せでしょう。  ですが、私はFEEDを引き剥がした事を悔やんではいません。私が世界で一番大好きな人に、私の人生の中で知った、一番素敵な表情を…………ちゃんと、見せられていたら良いな。願わくば、もう一回だけ、なんて。夢を見ることだけは、今の私にだってできるから。  小さな違和感を覚えたのは、「次は、5分後に授業開始ですね」と、すっかり慣れてしまったスケジュールに則って部屋を移動しようとしたときです。本来であれば『教室』というプレートの扉以外は閉じているはずなのですが…………  私は、ぽっかりと開いたままになっている『出入り口』と記された扉を見つめていました。私にまだ正常な思考が残っていれば、「ここから出られるかも知れない」という淡い期待を抱くのでしょうか。 「―――――――――――――!!」  ……? いま、何か……? 大きく口を開けた深淵の世界から、硬質な壁材の合間を反響するような、そんな音が聞こえてきた気がします。なんだろう、と。耳をそばだててみれば、カッカッという硬いものを打ち鳴らすような音が、一定間隔で聞こえてくることがわかりました。一体、何が起きているのでしょうか。 「ツ――ちゃ――――――――!!」  もう一度、聞こえてきました。鼓膜を揺するその音に、目頭が熱を帯びるのを感じます。おかしい、です、ね。今度こそ、とうの昔に、枯れちゃったと、思った、のに。 「ツグミちゃーーーーーーーーん!!」  なんで、とか。どうして、とか。そんな疑問は、どうでもいい。そんな事を考える前に、私の脚は、動き出してたから。 「ここ、だよ……! ユイちゃん!!」 ――――――――――――――――  『出入り口』と書かれた扉へと駆け込むと、コツコツという音を響かせながら、向かいからコッチに駆けてくる人影が目に留まった。真っ白な入院着のような布に身を包んだその人物は、私がよく知るメガネをかけた女の子だ。 「ツグミちゃん!!」 「ユイ、ちゃぁん……!」  自然と頬がほころぶのを感じる。よかった、また会えた。久しぶりに、ツグミちゃんの顔を見ることができた。嬉しいな。ツグミちゃんは、涙目で私に体を埋めてくる。うーん、違うシャンプーを使ってるのかな。いつものお花の香と違う気がする――――違う、違う……! そうじゃないの!! 「ぐすっ……えぐっ…………ユイ、ちゃん?」  安らぐ、嬉しい、また会えた、ありがとう、愉快、これから頑張ろう、大好き――――違う、違うの! 私は、私は…………! 「えっ……!?」  私の顔から、耳を塞ぎたくなるような音が響く。しっかりと接着された分厚い皮を、力任せに引きはがすみたいな。ベリ、ベリって、そう言う音。痛みは全然ない。 「ユイ、ちゃん……なんで…………!!」  ドクン、と。胸の奥にある心の、更に奥底から。鋼鉄の鎖に打ち込まれた楔を引き抜いたような感覚。ちっぽけな私なんかの小さな心の檻には到底収まらないほどに、大きく、どこまでも大きく膨れ上がっていた何かが、私の全身を一息に飲み込んでしまうような。 「ユイちゃん、ユイちゃぁん……! しっかりして!」  震えてる。脚が、肩が、体が。ううん、きっと、心が。ツグミちゃんが居なくなってから、今日を迎えるまで。私が感じていたものが蓄積した煮凝りが、一度に押し寄せてきてるんだ。 「ユイちゃん…………」  私よりちょっとだけ小さな体が、暖かく、優しく、柔らかく、支えてくれる。だから、ちゃんと伝えられる。 「ツグミちゃん…………ごめんね」 「…………えっ?」 「私、なんにもわかってなかった。わかるわけがなかったの」  FEEDという仮面を引き剥がして、押し寄せてくる感情の濁流に飲み込まれて、初めてわかった。ネガティブな感情の恐ろしさが。 「分かってもらえないのが悔しくて、悲しくて。どこに連れて行かれるのか怖くて。これからどうなっちゃうのか不安で。もう逢えないかもしれないって、望みを失って…………そういうの、全部、わかって無くて! 私、ツグミちゃんを裏切って……!」  ありのままを、全部、自分の言葉でツグミちゃんに伝えたい。マイナスなことも、プラスなことも。そのために、私はここに来たんだもん。 「でも、でもね、ツグミちゃん……そんなの全部、どうでも良くなっちゃうくらいにさ…………いま、ツグミちゃんにまた逢えて、すごく、すっごく、嬉しくて…………」  「うん、うん……」と頷きながら、全部をまっすぐ受け止めてくれる。ツグミちゃんは、これを一人で抱え込んでたんだなって思うと、心の底から尊敬する。あぁ、だめだ。もう、言葉にできないや。泣きたいのはツグミちゃんのはずなのに。私はこの娘に酷いことをしたのに。もっともっと、謝らなきゃいけないのに。そんなに優しく抱きしめられたら、私が泣いちゃいそうだよ…… 「あのね、ユイちゃん……」  必死に我慢する私をあやすみたいに、ツグミちゃんは髪に指を通して優しく撫でてくれる。こんな事されるのは初めてで、なんだか気恥ずかしいけど……なんだろう、すっごく落ち着く。 「辛かったよ」 「苦しかったよ」 「怖かったよ」 「悲しかったよ」 「寂しかったよ」 「でも、でもね……」 「私も、そんな事、全部、なんてこと無いよ」 「いま、わたしね。とっても幸せだよ」  ――――あははっ、だめだ。もう、泣くの、我慢、できないや。 ―――――――――――――――― 「ごべんね、ヅグミちゃん……」 「あはは、まだ鼻詰まってるよ、ユイちゃん」  暫くの間、泣きじゃくるユイちゃんを抱き寄せていました。私も、ユイちゃんも。こんなにいっぱい泣いた経験なんて、今まで一度もありませんので、少し新鮮で可笑しいです。生憎とハンカチやポケットティッシュの類は手持ちにありませんので、お鼻ズビズビのユイちゃんを助けてあげることができません。じゅるるっと、ちょっと嫌な音を立てて鼻をすすり、なんとか喋れる様になったユイちゃんは思い出したように言いました。 「とりあえず、ここから出なきゃ。入り口以外に出られそうなところって無いかな?」  どうやら、流石に通常の出入り口からというのは難しいそうです。うーん、心当たりがあるとすれば……あ、一箇所だけ、寝室には大きな窓がありました。 「それだよ、ツグミちゃん! 窓から逃げれば良いんだよ!」  ユイちゃん……ここ、4階だよ? 流石に落ちたら死んじゃうんじゃないかな…………? どうしたの、ユイちゃん。そんなにドヤって胸を張って。 「いいから、案内してよ。私に任せなさいな!」  ふふんっと鼻を鳴らして上機嫌だぁ。我に秘策あり、とでも言いたげな顔してる。えへへ、こういうときのユイちゃんは本当に頼もしいんです! 「こっちこっち!」と、ユイちゃんの手を引いて歩き出した、その時でした。けたたましいサイレンが鳴り響き、室内の照明が警戒色に染まります。なっ、何事でしょう!? 「あぁん、もう。何が『その後のことは取り計らっておきましょう』よ。バッチリバレてるじゃないの!」  ガルルッと喉がなりそうな唸り声を上げながら、誰かに対して悪態をついているみたい。こんな時だけど、その人の声真似をしたのか、少し低くてキザっぽい喋り方をするユイちゃん、すっごくかっこいい……! 「ツグミちゃーん? ぼーっとしてる暇はないよ!とにかく、早く寝室にいかないと!」  はっ、いけません。煩悩退散、です! 今はとにかく、ユイちゃんと安全なところに避難しなければ、ですね! わわっ、ユイちゃんってば、私よりずっと足が速いから……手を引かれて……! エスコートされてるみたい…………って、違う、違います!  ドタバタとしながら、私が閉じ込められている寝室へとやってきます。ベッドのすぐ脇に、半楕円形をした大きな窓があり、そこから街の様子が一望できる様になっています。けれど、この窓……開く構造がありません……! ど、どうしよう、ユイちゃん……? なぜ、備え付けられた椅子を持ち上げているんでしょう!? 「えぇい、今更引けるかー! 離れててね、ツグミちゃん! おりゃあああぁぁぁ!!」  あっ…………とんでもない破裂音とともに、窓ガラスさんが一名、お亡くなりになられました…………ふ、ふふっ…… 「あ、あはは……ちょっと、ツグミちゃん、クスクス、笑わないでよ、つられ、あはははっ!」 「「あはははははっ!」」  あぁ、可笑しいです。ユイちゃんが一緒にいると、どんなことだってできちゃう気がします。怖かったり、辛かったり、不安になったり、絶望したり――――これから、いろんなことを経験すると思います。でも、だからこそ、それ以上の楽しい、嬉しい、幸せが待っている気がします。 「あっ、ほら! みてみて、あそこ!」  ユイちゃんが嬉しそうに指さした先から、1機のヘリコプターがまっすぐ向かってくるのが見えました。あれ……? なんか、見覚えがある光景です……? 「さっすが、『トリックスター』はやることが違うよねぇ」  へ? どういう事? 何でユイちゃんの口から今、『トリックスター』の名前が出てくるの? えっ、えっ? わわっ、ヘリから縄ばしごが……! これって、あのとき観た演目みたいです! これに掴まれ、ということでしょうか。何やら後ろからは何組もの足音が聞こえてくる気がします。迷ってる時間はありません……! 「あっ、ねぇねぇ、ツグミちゃん。結局さ、例の演目のとき、ご令嬢はなんて言ったのさ?」  いま、そんな事聞いてる暇あるの!? ユイちゃんらしいといえばそうだけど…………ユイちゃんには、まだないしょ! 「えぇー! むぅ……けち!」  怒ったようにぷくっと頬を膨らませて、ちっちゃい子みたいな悪口を吐き捨てました。ユイちゃんのこういうところ、とっても可愛くて大好きです。「また今度、絶対教えてあげるから、ね?」とあやすと、「しょうがないなぁ、もう」と言って頬を緩めてくれます。きっと、私も釣られて笑っているのでしょう。 「「それじゃあ、行こっか」」  私達は二人で手を取り合って、お互いに空いた手で縄ばしごをつかみ、閉ざされた箱庭から飛び立ちました。これから、私達はどこへ向かうのでしょうか。何が待ち構えているのでしょうか。ギュッと、ユイちゃんの手を握りしめます。そんな私の小さな不安をかき消すように、優しいぬくもりが私の手に返されました。  今は、これだけでも十分に幸せです。ですから、ユイちゃんには、まだ内緒なんです。だから、これは心の声。ただの、ナレーションに過ぎません。 作り物の笑顔は剥ぎ取られ、醜い素顔のすべてを知られてしまいました。けれど、この素顔の下には、もう一つだけ。大事に、大切に温めた想いを隠してあるのです。いつか、この『仮面』を剥がせる日が来るのでしょうか―――― 「ロキ、首尾はどう?」 「抜かりはありませんよ、マイレディ。先程の二人も、我々の組織へとご案内済みです」 「ご苦労さま。その調子でお願いするわ」 「ときに……一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」 「手短にね」 「なぜ、わざわざ『面無し』を作り出しては逃し、集めるのです? 政府の方針と矛盾しているのではありませんか?」 「すべての人々の幸福のために……その理念に揺らぎはないわ」 「では、理由を拝聴しても?」 「簡単なこと。そもそも人間という生物には、普遍の幸福など存在しないわ。彼らは常に変化を求めるもの。感情を抑制し、制御下に置くというのは暫定的な処置としては非常に効果的だけれど、いつかは破綻するものよ」 「では、『面無し』はその『変化』を起こす起爆剤である、と?」 「概ね正解よ。成長したわね」 「もったいないお言葉です」 「ゆくゆくは、『面無し』が席巻する時代がやってくるでしょう。あるいは、政府の方針に反旗を翻し、すべての人間の仮面を剥がすように働きかけるかも知れないわね」 「そうなれば……元の世界に戻ってしまうのでは? 非生産的ないじめ・虐待などといった行いが横行し、社会性の低迷、経済の衰退が再び起こり得るのでは……」 「それなら対応は簡単なことよ。それらはすべて『ネガティブな感情』が引き起こすもの。であれば、負の感情を抑え込み、争いをなくすことができる甘美な餌を与えれば良いだけ」 「FEED、ですか。最高に皮肉が効いていて、私は好きですよ」 「お褒めいただいてありがとう、ロキ。これからも、よろしくね」 「「すべての人々の幸福のために」」
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