第二章 江戸の狐の恩返し

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 それはもはや、思い出せぬほど遠い過去だ。  あの惨劇を目にしても。  旅の途上でひとり、絶望と孤独に震えても。  私は泣かなかった。  いや……違う。  私は、泣けなかった——。 「律、こうすれば、私からは見えぬから……」  碧葉は少し躊躇(ためら)いながら律の腕を取り、そのまま体ごと、そっと引き寄せた。 「……心が泣きたがるのなら、泣かせてやれ。泣けるうちに、涙の……出るうちに」 「碧葉、さ……ま」 「涙を押し込めて、心を抑え続けると……いつしか心が乾いてしまう。だから……」 「……」  鼻先を寄せる子狐のように、律は碧葉の肩下に頭をもたせかけ——やがてぽつり、ぽつりと(つぶや)いた。 「……碧葉様、僕は……僕は人になれて、嬉しいんです。碧葉様と話せることが、とっても……とっても嬉しい……」 「……」 「……だけど……人になったことが……碧葉様と話せることが、本当なら……。母さまが、もういないことも……お空の星にしていただいたことも、みんな……みんな……本当、なんだな、って……」  律の体が小刻(こきざ)みに震え、急激に熱を帯びる。 「だから、僕……僕は……う、うう……っ……」  律は碧葉の胸に顔を(うず)めて、まだ少し(おさ)えたようにすすり泣いた。 「……」  華奢(きゃしゃ)な背中に碧葉は指先で優しく触れる。  母がしてくれたように、ぽん、ぽん、と……幼い日の遠い記憶を辿(たど)りながら。 「……か、あ、さま……」  かすれた声で呟く律。  言葉に混じる涙が、徐々に増えてゆく。 「う……う、……、母、さ……ま、……母さま、母さまぁ……っ……っ!」 「……」 ——そうだ、それでいい、律。泣きたい時には、思い切り泣けばいい。  泣きじゃくる律の体を、碧葉は黙ったままじっと支えていた。  だが、やがて——碧葉の内側でも、次第に何かが揺れ始める。
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