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この世界に来て二年経とうとした時……
その夜、唐突に嫌な予感がした。
呼び声が聞こえたのだ。
場所はおそらく、この王国より西にある――魔王城からその呼び声が聞こえる。
魔王が遂に、“悪魔の神”である私を呼ぼうとしているのだろう。この世界を征服するために。
……いや、魔力貯蔵庫のような役割のつもりで呼び出そうとしているだろう。悪魔としての勘がそう告げる。
「……」
だが、まだだ。まだ呼び声には応じない。
放置してはいけないことだ。それは悪魔としての慣わしを破る行為であり、なにより“因果”とやらにも影響してしまう。これが本当に『悪魔』である分、厄介なところだ。
それでも、まだ応じない。
何故なら、まだ。
「……」
まだ、クロアのそばにいたいから。
いきなり消えてしまったら、クロアがまた困惑して、泣いてしまう。
思い浮かべるだけで、胸が苦しくなる。
ようやく笑うようになったのだ。ここで投げ出すようなことをしたくない。
……この二年で随分彼女に絆されてしまったが、言うほど嫌なものではない。
生まれて初めて、『楽しい』と思うことが多かったからだ。彼女にとっても、初めての体験ばかりで、とても『楽しい』と心の底から思い、言ってくれる。
ちょいちょい現地調達してきた食材を使って料理を作ったりもした。
昔、配下の一人が料理にハマったとかでよく振る舞っていたのを覚えていたので、こっそり料理を練習していたのだ。それを上手く魔法を駆使して、料理と呼べる物をなんとか作ったことがある。
不味いだろうな。どうだろうか。そんなことを考えていたら、肝心のクロアは「とても美味しいよ」って言ってくれた。なんだか嬉しくて、わしゃわしゃに頭を撫でまくったことがある。
親と妹に内緒で、こっそり外へ出たこともあった。
……と言っても、彼らはクロアを離れに一人留守番させて、このシェルハル王国一美しいという森林へキャンプしに行きやがっただけだが。それを逆手にとって、その森林へ転移魔法で向かったのだ。
それも観光地として有名なところではなく……もっと奥の、誰にも行かない秘境へ移動して、そこで思いっきりキャンプを満喫した。秘境にある泉に棲みつく精霊たちには驚かせてしまったものの、諸事情を話せば意外にも話が通じる精霊たちで良かった。その精霊たちの力でふかふかの草のベッドで眠ったり釣りを楽しんだりしたのは、良い思い出だった。
こっそり魔法を教えていた時に、これを誰かを傷つけるために使ってはならないと、丁寧に教えた。
かつての私のようにならないようにと。いつか大事な人を守るために使うようにと。
そう言ったら、クロアは「大事な人はしーちゃんだけだよ!」と嬉しいことを言ってくれて。その反動で、彼女の右手に展開していた炎魔法が暴発して、私の顔面に着火してしまったのだが。
まあ、人間程度の魔法では傷つくことはなかったので怪我はなかったものの、クロアは泣き目で慌てまくっていて。大丈夫だほら無傷だぞーって、安心させたものの前髪が若干ちじれっ毛になってしまったのを見て、二人して吹き出してしまった。こうなってはダメだぞーって言って、撫でながら。
そうして過ごして、気が付けばぽっかりと空いていた『穴』が、ようやく埋まり始めていた。『幸せ』であることが、こんなにも『楽しい』と思えるなんて思いもしなかった。
そう考えていると、離れのドアが開いた。
「ただいまー。しーちゃん」
なるべく小声でそう言って、クロアは入ってきた。
「ああ、おかえり。クロちゃん」
そう返して手を差し伸べれば、クロアは嬉しそうにこちらにきて抱き付く。抱き付いた彼女を優しく抱っこして、あやすようにさする。これはもう二年も過ごしてきて、完全に慣れた動作だ。お手のものである。
もうこの離れは彼女にとって第二の家も同然だ。部屋だってより住みやすい構造になり、心の拠り所として成り立っている。
ここまでくるのに、わざわざ本邸の二階にある自室の窓から降りてきてしまうのは心配だが……
そうこうと考えていると、クロアが言った。
「しーちゃん……誰かに引っ張られてる? どこか遠くにいっちゃうの?」
って。
「……どうしてそう思う?」
動揺してしまったが、そこはポーカーフェイスでなんとか表情に出ないようにして問うた。
まさかとは思っていたが……と、彼女の返答を待つと、予想通りの答えが返ってきた。
「なんか、黒い線がしーちゃんの尻尾とか、翼とかに絡んでて……一番遠くの方へ引っ張ろうとしてるの……
でもしーちゃん、そっちに行かないようにしてるの?」
「……」
ああ、やはり。
この子は魔法をそういう形として見えるのか。
何回かそんなことを言う節があったが、これで核心を得た。得てしまった。誤魔化しなんて効かない。
はぁ、と思わずため息をつき、クロアを下ろして目線を合わせた。
「正直に言おう……私はそろそろ、行かなければならないらしい。ずっと遠くのところへ、な」
「それって、どれくらい遠く? いつ、帰ってこれるの?」
「……それは分からない。でも、私がいつまでもここにいては、いろんなところに悪い影響が出てしまう」
「っ……出ちゃったら、どうなるの?」
「どんな影響かは様々だが、確実に言えることは……」
その問いに、一拍おいて答えた。
「もう二度と、私と会えなくなる」
これは確実だった。どう足掻いても、それは免れなくなる。
言ってしまうと、やはりクロアは泣きそうな顔になる。
「どうしても、ダメなの……?」
「……ああ」
ダメなものは、ダメ。
そう教えるように、クロアの頭を撫でた。
「……しーちゃんと一緒じゃ、ダメ……? しーちゃんと、離れ離れなんて……やだよぉ……」
なんて、本当にずるいことを言ってくる。
「……」
感情が揺らいで、表情に出かけてしまう。
こういうところは本当に年相応だな……あんな環境下にいれば誰だってそうなるのは確かだが。
そう思いながら、私は彼女の、溢れそうな涙を指で掬った。
「大丈夫だ。どれだけ時間がかかろうと、私は君の元へ帰ってくるよ。
約束だ」
そう言って、私は右の小指を出した。
古い昔の、別の世界の東の島に、こう言った約束の仕方があったのを思い出して、それをやってみた。
それを見たクロアは、戸惑いながら同じように右手の小指を出して、見様見真似で私の小指に絡めた。
「……これで、約束?」
「ああ。約束はこれで成立ってね」
安心させるように、にこやかに笑ったものの、肝心のクロアはどこか不満げだった。
それもそうかって考えていると、クロアは小指を絡めたまま離さずに言った。
「じゃあ、しーちゃんも約束して! しーちゃんがどうしても帰って来れなかったら、あたしが迎えに行くって!
絶対、ぜーったい、約束だよ!」
ぎゅっ。
可愛らしい小指で、必死に掴んで、そう宣言した。
(ああ。本当にこの子は)
健気で、愛おしい。
思わず、その小さな体を抱き締めた。
「わふっ!」
彼女からそんな声が出てきたので、なんとか苦しくないように力を調節して。
「――ああ、約束しよう。でも、無理はしないでくれ」
「……うん!」
そうして約束した日。
それが、クロアと一緒に過ごした、最後の日となった。
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