嘘つき金魚にくちづけを

1/18
前へ
/41ページ
次へ

嘘つき金魚にくちづけを

01. 雨上がりの金魚  雨が上がった。  階段のすぐ横に置いてある小さな水槽の水が、窓から見える満月を映してゆらゆらと揺れている。その中で泳ぐ一匹の金魚が尻尾をひらひらと揺らす度に水面の月も一緒に揺れて、それは不思議な紋様のようだった。  裸足で狭い階段をとんとんと下りて、一階の居住空間と店舗の間でサンダルをつっかけながらひょいと中の様子を窺うと、思ったとおり叔父さんは真っ暗なスタッフルームの机でノートパソコンにかじりついている。 「叔父さん、今レジ誰もいないだろ。ちゃんと仕事しろよ」  ため息交じりに声をかけると、その背中はこっちを見ようともせず返事をした。 「今ノってきたとこなんだ、邪魔しないでくれ」 「せめて電気くらいつけなよ」  すぐそこの壁にある電気のスイッチをパチンと切り替えると部屋が明るくなり、今日も相変わらずぼさぼさ頭をした叔父さんがようやくこっちに振り向く。 「そうだ、拓海。ちょうどいい、お前レジに立っててくれ」 「ええ? やだよ、俺もう寝たいんだけど」  俺が言い終わるより先に叔父さんは立ち上がり、こっちにずかずかと歩いてくる。あわてて家の中に引っ込もうとしたけど時すでに遅し、叔父さんの手が背中をぐいぐいと店の中へ押し出してしまう。  蛍光灯の明かりで煌々と照らされた店内には、客は一人もいなかった。 「悪い、そこに立ってるだけでいいから! 頼む」 「いやいやいや、だから無理だって。店のシステムとかもまだ覚えてないし」 「客が来たら叔父さんのこと呼んでくれればいいよ。奥で作業してるから、なっ?」 「あっ、ちょっと……!」  有無を言わさぬ俊敏な身のこなしで、叔父さんはまたスタッフルームに消えた。  叔父さんがオーナーを務めるこのレンタルビデオ店の二階に転がり込んで、早一ヶ月。俺がここへ来たのと入れ替わるように、それまでここで働いていたバイトの子が突然バックレてしまってからというもの、こんなふうに店の留守番を押しつけられることが増えた。  一階はレンタルビデオ店、二階は住居になっていて、そこに一人で暮らしている叔父さんに代わって家事をすることを条件に置いてもらっている手前、臨時的とは言え無給で店番をさせられても強く文句を言えないでいる。て言うかこれ、本部にバレたら普通にヤバいと思うんだけどな。  まあ、立ってるだけでいいって言われてるし、客もいないみたいだし、それにどうせあと少しで閉店時間だ。それほど広くない店の中を見渡して、あと数分で訪れる閉店時間までに誰も来ないことを祈った。 (……あれ)  誰もいないと思っていたのに、奥の棚の陰からひょこっと誰かが出てきた。そのまま、また隣の棚の陰に消えていく。  おかしいな、さっきは確かに誰もいなかったはずなのに。いつからあそこにいたんだろう?  何もすることがなく、ついその姿を目で追うように探してしまう。あのあたりって確かAVのコーナーだよな。そろそろ閉店だってこと教えてやった方がいいかもしれない。  店に立つ時は身に着けるよう言われているエプロンを忘れてたけど、今日は叔父さんの勝手に付き合ってやってるんだし、このくらいは目を瞑ってもらわないと割に合わない。レジを出てさっき人影が消えた棚の方へ歩み寄り、奥を覗き込んでぎょっとした。  白いYシャツの袖を肘までまくり、そこから覗く白くて細い腕。ネクタイを結ぶのが下手なのかそれともわざと緩めているのか、開いた襟の下で結び目がだらんとぶら下がっている。特徴的なタータンチェックのスラックスは、同じものを着用している子をこの町に来てから何度か見かけたことがある。校外でサボったりしていると一発でどこの生徒なのか分かってしまいそうだと、少し不憫に思うほど目立つデザインだ。  そこにいたのはどこからどう見ても男子高校生、つまり未成年だった。  この店の閉店時間は日付の変わる時刻のはずなのに、こんな遅くまで何やってるんだ。ここは寂れた町だから若い子供自体がほとんどいないところだけど、いわゆる不良とか非行少年みたいな子は少なくとも俺がここに来てからは見たことがない。  その子は俺の方をちらりとも見ず、ただ熱心にAVのタイトルを目で追っている。 「ちょっと、君」  意識して少し低めの声で威圧的に呼びかける。  明るい茶色の前髪から覗く大きな目がこっちを見たけど、すぐにふいと逸らされてしまった。俺のことなどまるで無視して、また真剣な表情でAVのパッケージを見ている。  ついイラっとして、さっきよりも強めの語気で呼びかけてしまった。 「おい、聞こえないのか?」  するとその子はようやくこっちに顔を向けた。そのままぽかんと口を開けて、呆けたように俺を見ている。 「……え、オレ?」  まるで今気が付いたようなその言い方に、ついカチンときてしまう。 「他に誰がいるんだよ、当たり前だろ」 「あ、はあ……」 「こんな夜遅くにこんなとこにいるもんじゃないよ。もう家に帰りな」 「……」  謝るでもなく反発するでもなく、ただ黙っていた。それでもその長いまつ毛に囲まれた大きな瞳は、じっと俺の顔を見つめたままだ。  なんだ、こいつ。  居心地が悪くなり、もう一度帰れと言おうとした時、後ろから叔父さんの足音が近づいてくるのが聞こえてきた。 「おい、何やってんだよ?」  振り返ると、叔父さんが頭をぼりぼり掻きながら眠そうな目でこっちを見ている。 「あ、ちょうどいいとこに。この子まだ未成年っぽいんだけど、一人で……」 「え? どの子?」  きょとんとして聞き返すその表情は、ふざけているようには見えなかった。 「いや、だからこの子」 「だから、どの子だよ」 「こ、この子だよ!」  俺のすぐ横に立っているその子を指さしても、叔父さんは相変わらず眠そうな目で俺をぼんやりと見ている。 「……なにお前、怖いこと言うなよ。シャレになんないからな」 「はあ? なに言って」  言い募ろうとしたけど、叔父さんの目に浮かんでいる微かな怒りのようなものに怯んでしまった。 「すぐそこに総合病院あんじゃん? だから、その手の話って冗談でも笑えないんだよね。不謹慎っつーか」 「……」 「もう寝ていいよ、閉店の時間だから。後は俺がやっとく」  何も言い返すことができない俺に背中を向けて、ひらひらと片手を振りながら叔父さんは去って行った。  ……なんだ、今の。  叔父さんに怒られたことはこっちに来てからは一度もないのに、なんでいきなりあんな。 「あ、あれ」  その時になって気付く。さっきの子がいない。  あわてて周りを見回すと、いつの間にか店の自動ドアの向こう側にあの茶色い髪が揺れているのを見つけた。向こうも俺の方を見ていて、その唇が三日月のようににんまりと笑っている。  ドアに駆け寄り、開くのを待つ間ももどかしく、半ば手で強引にこじ開けるようにして外に出ると、すぐそこに立っていたその子は俺を見ておかしそうに笑った。 「うへへ、怒られてやんの」  口元を細い指で隠して、さもおかしそうに笑うその仕草が男にしては妙に艶めかしく魅惑的で、思わずごくりと生唾を飲み込んでしまう。唇の端から覗く小さな八重歯が、何故か俺を誘って笑っているように見えた。  呆けたように突っ立っている俺をよそに、その子は突然駆け出して店の前の道路を渡ってしまい、そこからガードレールをぴょんと跳び越えた。 「あっ、おい!」 「ほらほら、こんな夜遅くまで一人でウロウロしてるDK、おにーさんみたいな大人がほっといていいの? もしオレがこの後に遺体で発見されたりしたら、夢見が悪くなんじゃねーの?」  明らかに俺をからかうような声が、湿った風に乗って道路を渡ってくる。 「ま、待て! ちゃんと帰る気だろうな?」 「さあー? 心配ならついてくれば?」  言うが早いか、その子はすぐそこの交差点を越えて坂道を駆け下りて行ってしまった。 「クソッ」  いつもなら放っておくけど、あいつが言ったとおりになったらそれこそ後味が悪いしたまったもんじゃない。交差点の信号が黄色にゆっくり点滅しているのを視界の端で眺めながら、俺はあいつを追いかけた。
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加