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02. チェリーな幽霊
坂道を下っていくと、遥か前方に海が見えてきた。真夏の昼間には海水浴客や観光客で賑わっているんだろうけど、梅雨時の今は一日を通して人影もまばらだ。しかもこんな夜中ともなると、人影どころか人の気配すら感じない。
「はあっ、はあっ……」
こんなに全力疾走するのは何年ぶりだろう。大学で友達に誘われて行ったフットサルでもここまで息は上がらなかったのに。
俺の遥か向こうを駆けていくふわふわした茶色い頭は、さっきから少しもペースを乱すことなく逃げていく。
あいつ、一体どうなってんだ。いくら若いからって言ったって、こんなに長い間あのペースで走れるか普通?
べったりと肌にまとわりついてくるような湿った空気がひどく不快で、噴き出してくる汗のせいもあってTシャツが背中に張り付いているのが分かる。
「まっ……待て、って」
届かないと分かっているのに、ぜいぜいと荒い息遣いに混じって掠れた声で呼びかける。すると、あいつはぴたりと立ち止まった。俺の声が届いたのかと思ったけどどうやらそうではなく、あいつの行く手にガードレールが立っているのが見える。行き止まりだ。
最後の力を振り絞って一気に坂道を駆け下りると、立ち止まっているあいつとの距離はあっという間に縮まった。こっちを振り向いた目は少し動揺しているようにも見える。
「お前、ふざけんのもいい加減に……」
汗が顎から鎖骨の上へぽたりと滑り落ちた。それくらいわずかな時間の間に、あいつはガードレールに足をかけて、弾みをつけて大きく跳躍した。
「なっ、バカ!」
ガードレールの下には何もない。崖と呼ぶほど高い場所ではないけど、下の砂浜へ降りるには階段を使わないといけない程度には高低差がある。当然、生身の人間が落ちたら軽いケガでは済まない。
無我夢中で咄嗟に伸ばした俺の右手は、確かにあいつの手首を掴めたはずだった。それなのに俺の手は空を切り、あいつの細い手首をすり抜けてしまった。
「え……?」
茫然としている俺の目の前で、あいつの身体は宙を泳ぐようにふわりと浮いている。まるで水泳でターンをするように、逆さまになったそいつの目に俺が映った。
「あっは、バレちった」
喉の奥で笑うような声が、潮の香りと一緒に夜の空気を渡って流れてくる。
さっき叔父さんの家で見てきた金魚のように、そいつは淀みのない滑らかな動きで空を泳いでいた。
微かな夜風にふわりと揺れる茶色い髪の隙間から、いたずらっぽい大きな瞳が覗いている。
「やーごめんて。オレのこと見える人に会ったの初めてだったからさあ、ちょっと絡んでみたかっただけだって。でもずいぶん頑張ってついてきたよね、絶対途中で諦めると思ってたのに」
さっきまでの全力疾走で上がっている呼吸を整えるのも忘れて、俺はただそのありえない光景に目を奪われていた。夜の海と空の間で宙を泳ぐそいつの姿は、満月に照らされて言葉にできないほど幻想的だったからだ。
「お前……何なんだ?」
ようやく絞り出した俺の言葉にわずかに細められたその目は、抗い難いほどの魅惑的な妖しさを湛えている。その妖艶な匂いは普通の人間には到底醸し出せない、こいつは危険だと、俺の中で何かが警告を発しているような気がした。
「何だと思う?」
人間ではない、のは分かっている。
「……幽霊?」
「えへへ、そうともいうかな?」
さっきまでの魅惑的な雰囲気から一変して、そいつは無邪気な笑顔でにんまりと笑った。
*
「どう? 汗ひいた?」
遊歩道から砂浜に降りる石階段に座って、呼吸を整えている俺を隣から大きな瞳が見上げてくる。
「……だいぶ」
「おにーさんっていくつなの? 十代ではないよね」
「今年で二十七」
するとそいつは大げさにのけぞった。
「かっは、マジで! あのさあ、アラサーがDKの体力についてこれるわけないじゃん? 二十代だからまだ若いつもりで無理しちゃうのって、もしかしておにーさん世代だとあるあるな感じ?」
文字通り腹を抱えて笑っている。足をばたつかせて、さもおかしそうに。Tシャツの襟を指に引っかけてぱたぱたと扇ぎ、火照った顔に風を送りながらじろりと睨みつける。
「人をオッサンみたいに言うな」
「えー、そこまではっきり言ってないし?」
笑いすぎて目に涙まで浮かべながら、ようやく身体を起こして座り直している。さっきからそいつの足は落ち着きなく砂浜の上を動いているのに、その足元の砂は一粒も舞い上がってこない。
「……足、あるよな」
「え?」
つい考えていることが口に出てしまったらしい。そいつはきょとんとした目でこっちを見ていた。
「幽霊って、足ないんじゃないのか?」
「そうなんだ? 初めて知った」
「いや……自分のことだろ」
「そんなこと言われてもさあ。足がないってのも、生きてる人間が勝手に想像した作り話じゃないの? 現にオレ、ちゃんと足あるし」
ほらほらと言いながら、俺に向かって足を投げ伸ばしてくる。
「バカ、やめろ」
咄嗟に避けようとした時、そいつの足が俺の膝をすり抜けていった。
「あ……」
「まあ、触れないけどね。ってか、触れないどころか普通は見えないはずなんだけど、オレのこと」
「そう、なのか?」
「言ったじゃん、オレのこと見える人に会ったの初めてだって。春くらいからこのへんウロウロしてんだけどさあ、だーれもオレに気が付かないの。オレの方から何かに触ることもできないし、ただ見てるだけ。いい加減退屈で死にそうーって感じ?」
「死にそうって……お前、死んでるんだろ」
「え?」
不意に会話が途切れた。そいつはぽかんとして膝に頬杖をついたまま、俺の顔を真っ直ぐに見ている。見ていると言うより、ただ固まっているだけのようにも見える。
あれ、何か変なこと言ったかな。
「何だよ」
「あ、ああ……そーだね。あれか、ジョーブツ? できないってやつか」
ようやくそいつのフリーズが解かれ、またカラカラと笑いながら喋りだした。
どうやらこいつ自身、自分の身の上に起こっていることをいまいちよく理解できていないのかもしれない。もしかしたら交通事故か何かであまりに突然死んでしまって、自分が死んでいるということをちゃんと受け入れられていないのかもしれないな。俺の想像ではあるけど、そう考えるとこいつの全く悲壮感を感じさせない底抜けに陽気な振る舞いにも説明がつくような気がしてくる。
普通、幽霊ってもうちょっと暗い雰囲気を纏っているものだろう。今まで見たことないけど。
こいつはどうして死んだんだろう?
それは聞いていいことなのか、聞こうとしてふと思い留まる。多分こいつは聞けばすんなり教えてくれるとは思うけど、もし何か悲しい理由で死んでしまったのだとしたら。いくらなんでもそれは、ついさっき初めて顔を合わせたばかりのような奴に話せることではないだろう。
まだこんなに若いのに死んでしまったということは、普通に生きていればあまり起こらない何かがこいつの身に起こったと考えて間違いはないと思う。それがもし悲しいことやつらいことだったとしたら、わざわざそれをこいつに思い出させるのは抵抗があった。
「おにーさん? 何ぼけーっとしてんの」
そいつの声にはっとして我に返る。そいつは膝を抱えて、そこに片側の頬を押しつけるようにしながら俺を見上げていた。
「あ、いや……別に」
とにかく、死んだ理由について聞くのはやめておこう。小さく咳払いして、その大きな瞳をついまじまじと見てしまう。
「成仏できないってことは、この世に何か未練があるからなんだろ」
「未練?」
聞いてからしまったと思った。この質問じゃあ、死んだ理由を聞くのと大して変わらない。
あわてて訂正しようとしたけど、そいつは特に気分を害したような素振りも見せずに何かを考え込んでいる。夜の波打ち際をぼんやりと眺めているその横顔は、月明かりのせいなのか病的に白く見えた。
「えーっと……ああ! あるよ、未練」
「なんだ?」
そいつは、ぱっと高揚した表情をこっちに向けた。
「エッチしたい!」
開いた口が塞がらないというのを生まれて初めて体験した。
何も言えずにいる俺などまるで意に介さず、そいつはテンション高く言葉を重ねてきた。
「オレさあ、花ざかりのDKで人生これからって時に死んだんだよね。しかも童貞! まだ一回もエッチしてねーの! これ、どんだけ無念だったか分かる? ねえ!」
「うわっ、ちょ……寄るな触るな」
ぐいぐいと鼻息荒く俺に迫ってくるその顔を手で押し戻そうとしても、俺の腕は空を切っただけだった。実際に触っていないはずなのに、そいつは今にも俺に掴みかからんばかりの距離にまで近づいてきていて、その鬼気迫るオーラについ怯んでしまう。
「おにーさんはエッチしたことあんの?」
「え、そりゃあ……まあ」
そいつは大げさに頭を抱えて叫んだ。
「うっへえ~マジかよ! いいなあ……」
閉口しそうになるのを何とか堪えて、小さくため息をつく。
「そんなに興味あるなら、どんなもんか話してやってもいいけど」
「あーダメダメ、体験談なんて生きてる時にネットとか雑誌で死ぬほど読んだもん。やっぱ一回ナマで体験しなきゃ意味ないし、分かんないよ」
「俺も生ではしたことないけど」
「あーあーちょっとおにーさん! 今の青少年なんとか条例違反だし! セクシャルハラスメントだよ!」
「はいはい」
これだけ元気なら、そんなに気を遣う必要もなかったかもしれない。さっき考えていたことを少し後悔しつつも、こいつの気持ちは分からないでもない。
中高生くらいの年頃の子にとって最大の関心事と言えばその手の話題だろう、俺も当時はそうだった。いつか童貞を卒業できるその瞬間を何度夢想したか分からない。それを果たせず志半ばで死んでしまったとなれば、どれほど無念だったのかは想像に難くない。
実体験は童貞の妄想には勝てないという現実を教えてやろうかと思ったけど、それは経験した後だから言えることだろう。まだ一度も経験したことのないうちは、それは誰が何を言おうとも夢と理想だけで作られたまさに秘密の花園なのだ。
「要するにお前は、夜な夜なオカズを探しにAVコーナーをうろついてるってことか」
言葉にすると実に哀れだ。一度もセックスできずに死んでしまったせいで成仏できず、この世に留まってやっていることはこんな寂れた町のレンタルビデオ店でAVの物色だなんて、もし俺がこいつの親だったらいろんな意味で泣いただろう。
「ちげーし! 今日はたまたまAVコーナー見てただけで、普段は見てないっつの!」
「え、そうなのか」
「つーかさ、もし見たいのあっても見れないじゃん。オレ、何も触れないんだし」
言いながらそいつは手を伸ばし、俺の肩を何回もすり抜けてみせた。
「それじゃ、俺が今度うちで再生して見せてやろうか?」
絶対に喜んで乗ってくると思ったのに、意外にもそいつのリアクションは薄い。
「んー……いや、いい」
「なんで」
「オレさ、自分の身体も触れないんだよね。せっかくAV見ても抜けないんじゃ意味ないでしょ」
「ああ……そうなのか」
さすがに可哀想になってきた。そいつは両手を頭の後ろで組んで、そのままごろんと仰向けに寝転んでしまう。
「花のDKがEDとか、マジ笑えねーし」
「まあ、身体の感覚って結局は電気信号なわけだし、実体がないんじゃ何も感じられなくてもそれは仕方ないよな」
妙に冷静に分析してしまった。
「そうなんだよー、これじゃオレいつまで経っても成仏できなくね? なんかいい方法考えてよ」
「方法ねえ。誰か生きてる人間に乗り移って経験するとか」
「あー、それな。何回かやってみようとしたことはあるんだけどさ、これが全然できねーんだよな。あれって幽霊なら誰でもできんのかと思ってたけど、そういうわけじゃないみたい」
提案しておいてなんだけど、何気に結構えげつないことをさらりと言ってのけるな。結果的にできなかったから良かったものの、もし成功してしまっていたらこいつは本当に事に及んでいたんだろうか。
そんなことを悶々と考えていると、そいつはひょいと起き上がって宙へ浮かび上がった。
「あーあ、エッチしたかったなあ」
頭の悪さが全開の言葉とは対照的に、月明かりの中で宙をふわふわとたゆたうそいつの姿はあまりに現実離れした神秘的な妖しさを纏っていて、俺はまた言葉を失ってしまった。
そこには何もないはずなのに、そいつが泳ぐとまるでそいつの周りに揺らめく水が見えるようだ。ゆらゆらと揺れて、弾けて、水面に落ちていく雫が、そいつの細い身体の動きに合わせて、確かにそこにあるように見える気がする。そいつの肌の白さは少し病的な気配を孕んでいて、それが余計に人間離れした雰囲気をことさら強調している。少し強く掴んだだけで簡単に折れてしまいそうなほど細くしなやかな手首には骨が出っ張っていて、つい自分の手と見比べてしまい、そのあまりの違いに何故かどきりとしてしまう。
最近の若い子は食が細いと、ついこの間のネットニュースに見出しが出ていたのを思い出す。みんながそうというわけではないだろうけど、こいつの細さはやっぱり少し病的だと思う。もしかしたら、経済的な余裕のない家の子だったのかもしれない。
どうしてなのか、こいつが生前どんな人生を送っていたのか、どんな生活をしていたのか、考えだすと想像が止まらなくなってしまう。本人に聞けば済む話だと分かってはいても軽々しく聞くことはできなくて、それなのに知りたくてたまらない。
少なくとも、こんな真夜中の誰もいない浜辺で一人でいるような子ではなかったのだろうとは思う。だってこんなに綺麗な子が、そんな寂しい生活をしていたとは思えない。
満月を見上げながら夜空を泳ぐその姿は、水の中で尻尾を揺らして泳ぐ金魚のようだった。
「ん? なに」
ふと、そいつはこっちを振り向いた。
「えっ?」
「いや、なんかじーっと見られてるような気がしたから……」
「あ、ああ、そうか? 悪い」
俺、そんなにガン見してたかな。あわてて目を逸らしたけど、さっきまで見ていた幻想的な光景が瞼の奥に焼き付いて消えそうもない。揺らめく金魚の尻尾を、俺は確かに見ていた。
こいつの身の上話を聞いて、その境遇を不憫に思ったってのもあるけど、それだけじゃない。こいつには放っておいてはいけないような危うさが常につきまとっていて、どうしても目を離すことができないのだ。
何か力になれることがあれば助けてやりたいと思うし、なかったとしても話し相手くらいにはなれるだろう。
それに、自分でもよく分からないけど、俺はこいつがどんな理由で死んでしまったのか、どんないきさつであの店にいたのか、知りたいと思った。野次馬根性などではなく、純粋にその経緯について興味を抱いている、こいつのことを知りたいと思う自分を、否定する気にはなれなかったのだ。
「まあ、何だその……経験させるのは難しいけど、何か方法を考えるくらいなら協力してもいいよ」
「協力って?」
ゆっくりと立ち上がりながら、尻についた砂をパンパンと払い落とす。そいつは空から降りてきて俺の前に立った。
「成仏したいんだろ? その方法、俺も一緒に探すよ」
言った瞬間、そいつの大きな瞳がぱっと輝いた。
「マジで!? でも方法って?」
「分かんないけど、何か別の方法で成仏できるかもしれないだろ。俺にしか見えてないんなら、他に協力してくれる人もいないだろうし」
「やった! おにーさん超いい人じゃん!」
いきなりそいつは飛び上がり、俺に抱きついてきた。もちろんその腕は空を切るだけだったけど、そいつは俺にしっかりとしがみついている。何の感覚も感じていないはずなのに、何故かそいつと接しているところだけが熱を帯びているような気がして、急に鼓動が速くなっていく。
「バカ、離れろ」
「うへへ」
変な笑い方をしながら、そいつはふわりと俺から離れた。
「ありがと。あっ、名前! まだ聞いてないよね、教えて教えて」
そう言えばそうだった。
「磯辺 拓海」
「オレね、アヤト! 水島 絢斗っていうの、絢斗でいーよ」
言いながら、そいつは右手を差し出してきた。
「よろしくね、おにーさん」
どうしたものかと迷っていると、そんな俺を見てどうやら気付いてくれたらしい。
「あっ、そーだ。触れないんだっけ、えへへ」
少し恥ずかしそうに笑いながら手を引っ込める。その頬はほのかに赤くなっていて、胸の奥がこそばゆいような、とてももどかしいような、何とも変な気分だった。
少し安請け合いしてしまった感は否めないけど、この陽気な幽霊を成仏させてやる方法を探すのはそれはそれで少し楽しそうだと思っている自分がいる。
誰もいない夜の砂浜で、寄せては返す波の音だけが静かに響いていた。
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