嘘つき金魚にくちづけを

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03. 夢の原動力 「悪い拓海! 叔父さん、ちょっと今から劇団の人たちと打ち合わせ行ってくる!」  階段の方からドタバタと落ち着きのない足音が響いてくる。開け放してあるドアから顔だけ出してそっちを見ると、ノートパソコンを抱えて階段を駆け下りていく叔父さんがいた。 「明日の朝飯は?」 「いらない! 戸締まり頼むな!」  一階の玄関ドアがバタンと閉まる音が響くと、家の中はしんと静まり返った。  やれやれ、またか。  まだ風呂から上がったばかりで濡れている髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、ひとつ小さくため息をつく。  叔父さんの本業はこの家の一階にあるレンタルビデオ店のオーナーではあるけど、副業として小さな劇団の脚本家をやっている。と言っても本当に小さな劇団で知名度はないに等しく、ほとんど趣味でやってるサークルの延長みたいな感じのものらしい。学生時代から友達とずっと続けている劇団のようで、副業のはずなのに本業そっちのけでレンタルビデオ店の営業時間内も暇さえあれば脚本の執筆をしている。  今は新しい脚本を書いていて、さっきみたいに劇団の人たちと打ち合わせするために店を閉めた後に家を出て行って、朝になってから帰るなんてことはしょっちゅうだ。劇団に所属している人たちも叔父さんのように普段は働いているから、打ち合わせに充てられる時間がどうしても深夜になってしまうらしい。  当然、こんな生活を一人で続けていたら身体がもたない。嫁さんがいればどうにかなったかもしれないけど、あのちゃらんぽらんで計画性のない叔父さんと添い遂げようなどと考える奇特な女性がいるはずもなく、そんな時ちょうど春に仕事を辞めたばかりで今まで住んでいたところよりも家賃の安い部屋を探していた俺の話を聞きつけた叔父さんが、家事をすることを条件に店の二階に空いている部屋を格安で貸すけどどうか、と誘ってくれたのだ。  深く考えずに転がり込んではみたものの、俺と入れ替わるようにそれまで店にいたバイトの子がバックレてしまい、家事だけでなくたまに店の手伝いもさせられる羽目になっている。でもそれに目を瞑れば、叔父さんはここのところ劇団の人との打ち合わせでほとんど部屋には戻らないから事実上は俺の一人暮らし状態だし、特に耐えられないような不満があるというほどではない。 (仕事、早く探さないとなあ……)  スマートフォンをいじりながら、またため息が出てしまう。求人情報サイトをチェックしてはいるものの見ているだけで、まだ応募は一度もしていない。仕事を辞めてもう三ヶ月、まさかここまで無職期間が長引くとは思っていなかった。仕事が決まらないことよりも、一度も面接どころか応募すらしていない自分自身に自分で戸惑っているのだ。  新卒で入社してから春までいた会社を辞めた理由は、さほど大した理由ではない。強いて言うなら、何だか疲れてしまった、それだけだった。自己都合で退職してしまったから失業給付金を受給するためには待期期間があり、その期間が終わっても月に一度は求人に応募して仕事を探していることを職業安定所に証明しなければ給付金はもらえない。それを会社の人事部にいた友達に教えてもらった時、何だかもう面倒くさくなってしまって結局手続きをしないままここまできてしまった。  どうせすぐに働く気がないのだから、何をしても意味がないような気がしている。今まで特に何の目的もなく貯めてきた貯金を切り崩すこの生活にも最初は不安しか覚えていなかったけど、一度慣れてしまうと危機感など微塵も感じなくなってしまっている。もう俺は一生働けないんじゃないか、最近はそんな気がする。  しかし、叔父さんも叔父さんだ。いくら甥とは言え、もうすぐ三十路へのカウントダウンが始まろうとしている年で将来の展望もなく無職になるような事故物件みたいな男をよく拾ってくれたものだと、感謝しつつもそのあまりに考えなしの生き方に一抹の不安を覚えずにはいられない。  親から聞いた話だと叔父さんは若い頃から計画性に乏しく、思いつきで仕事を辞めたかと思えばいきなり新しい事業を興したりしてきたらしく、今も親戚たちから白い目で見られている。実の姉であるはずの母さんですら、事あるごとに『叔父さんみたいになりたくなかったら、ちゃんと勉強しないとダメよ』と口を酸っぱくして俺に言い聞かせていた。  でも俺は、そんな叔父さんの生き方に密かに憧れている。世間の目なんて気にせずに、思うままに自分の気が向いたことを片っ端からやってみる叔父さんは、生活がどんなに困窮してもいつもキラキラしていて楽しそうだったから。世の中ではダメ人間の典型みたいな生き方かもしれないけど、社会の歯車から外れてしまった今の俺には叔父さんの生き様はあまりに眩しく、羨ましかった。  俺はやりたいことのひとつも成し遂げることができないまま、ここまで生きてきてしまったから。  *  髪を乾かしてから、店の外に出た。今日も昼間は雨が降っていたけど今はやんでいて、生温い湿った空気があたりに満ちている。  この時間に店の前で待ってると伝えてあるけど、まだ絢斗は来ていないみたいだ。  成仏の手助けをすると言った手前、何もしないでいるわけにはいかない。どうせ部屋にいてもゴロゴロしてるだけだし、何か俺にできることがあるなら何でもよかった。とは言うものの、具体的に何をするかは全く考えていない。とりあえずまずは絢斗からいろいろ話を聞いて、そこから成仏に繋がる何らかのヒントが得られたらと思っているけど、無計画であることに変わりはない。  まあ、そんなに焦らなくても、時間をかけてゆっくり考えていけばいいか。  もう日付はとっくに変わっていて、あたりはしんと静まり返り人の気配が全く感じられない。ただ、遥か向こう、坂道の下から微かに波の音が聞こえてくる。  俺はここに来る前までは都内の狭いアパートに一人で住んでいて、そこは徒歩一分でコンビニに行けるようなところだった。治安が悪いとか道が汚いとかそういうことはなかったし、生活する上で不便を感じたことはなかったけど、自然と呼べるものは本当に少ないところだったと、俺はここに来てから初めて知った。  波の音なんて聞くのは何年ぶりだろう。最初はこんな寂れた町でどうやって生活するのかと少し不安だった。夏になれば海辺は観光地らしく賑わうみたいだけどそれ以外には本当に何もなく、いちばん近いスーパーまで行くのも徒歩で二十分くらいかかるし、カラオケもファミレスもコンビニも駅前にしかなく、しかもその駅まではここからだと車がないと行けない。でも、不便な生活も慣れてしまえば日常になってしまうもので、今や俺の生活圏はこのレンタルビデオ店から徒歩で行ける範囲だけになっている。  今まで必要だと思っていたものが実はそれほど必要なものではなかったということを、俺はこの町に来ていくつも見つけてきた。この町での暮らしは至ってシンプルで、今までずっと必要ないのに背負ってきたものを毎日少しずつ肩から降ろしているような、上手く言えないけどそんな日々を過ごしている。 (……遅いな、何やってんだあいつ)  部屋で待ってた方が良かったかもしれないと後悔したけど、また戻るのも面倒だ。仕方なく壁に寄りかかって、ケツのポケットからスマートフォンを引っ張り出した。サーフィンはできないけど、ネットサーフィンでもして時間を潰すか。  見慣れたホーム画面の隅で、赤い通知バッジが出ているアイコンがあった。ツイッターのアプリだ。  アイコンをタップして通知の内容を確認すると、俺のツイートに誰かがリプライを送っていた。 「……あ」  KENだ。 『タッキーのイラストいつもマジ神! 100万回保存しました! 夏の海みたいな色で超キレイ!』  相変わらずのテンションに、つい口元が緩んでしまう。  リプライを送ってくれたのはKENというフォロワーで、俺とKENは相互にフォローし合っている仲だ。  俺は高校生の頃から趣味でイラストを描いていて、今はツイッターで『タッキー』というハンドルネームを名乗ってたまに自分が描いた絵をアップしている。ちょうど去年の今くらいの季節、俺がアップしたイラストにKENが感想を送ってくれたのが知り合ったきっかけで、それ以来いつもKENだけが俺のイラストにこうやってコメントをくれる。  他にもフォロワーはいるけど俺がイラストを上げても大抵イイねがつくだけで、わざわざ文字に起こした感想をくれるのはいつもKENだけだった。  きっとKENは、あれをきっかに俺のイラストを知ったんだろう。  去年に『Painters』という日本最大級のイラスト投稿サイトで、大きなイラストコンテストが開催された。そのコンテストの最優秀賞の受賞者は大手ゲームメーカーの新作にメインキャラクターデザイナーとして参加できるという趣旨のもので、当時はゲームやアニメの業界を超えてメディアを大いに賑わせた。国内だけではなく海外にも多くのファンを抱えているゲームメーカーの完全新作ということもあり、企画の発表直後はちょっとしたお祭り騒ぎ状態だったのをよく覚えている。  俺はそのコンテストに応募するため、毎日仕事が終わった後の時間はほとんどイラストの制作に充てて、文字通り寝る間も惜しんで取り組んでいた。絵は完全に独学だったから、途中で何度も壁にぶち当たった。その度にネットや書籍で新しい技術や表現の方法を調べ、夢中になって描いた。あの時の俺は自分でも引くほど、とにかく夢中だった。  そして完成した作品は、渾身の出来だった。もうこれ以上の作品は二度と描けないと確信するほど、今までの人生で最高のものが描けた。最優秀賞を受賞できなかったとしても何かしらの賞は絶対に受賞できる、もしそれがダメでもきっと国内外のデザインに携わる人の目には留まるはずだと、完成した日の夜は高まる期待で興奮して眠れないほどだったのをよく覚えている。  それなのに、コンテストの結果は散々なものだった。応募作品の選考はゲームメーカーや関係会社の人たちが行うことにはなっていたけど、その選考の場に持ち込まれる前にPaintersのユーザーたちから一定以上の評価ポイントを獲得できていないと足切りされるという不文律があり、俺のイラストはそこであっさり切り落とされたのだ。  ネットのコンテストだけがチャンスの場でないことは分かっていたけど、その時に俺の中で何かがぽっきりと折れてしまったんだと思う。俺は逃げるように投稿サイト内でのアカウントを削除し、それから転がり落ちるように何に対しても無気力になってしまい、ついには翌年の春に仕事を辞めた。  イラストを描くこと自体は今も続けているが、あの頃より丁寧には描いていないのを自覚している。どうせどんなに心を込めて丁寧に描いたところで、俺の作ったものに下される評価などたかが知れているからだ。 (夏の海みたいな色、か)  KENはリプライだけではなく、しっかりイイねもつけてくれて、リツイートまでしている。ここまで反応してくれるのはKENだけで、正直言うとKENがいなかったら俺はとっくの昔に絵を描くのをやめていたと思う。  俺が今回アップしたイラストはワンピースを着た女の子のイラストで、そのワンピースの裾の部分の色に少しだけ拘って描いた。KENに言われるまで自分でも気付かなかったけど、確かに俺はこの町から見えるあの海に着想を得てこの色を塗っていたのかもしれない。そう言えば、この町に来てからイラストを描いたのはこれが初めてだったっけ。 『ありがとう。KENに気に入ってもらえると嬉しいよ』  本当はこんな言葉だけじゃ伝えきれないほど、KENには感謝している。俺が絵を描き続けられるのはKENのおかげだ。もう今の俺はKENだけのために絵を描いているようなものだった。  こんなこと一度もKENには話したことないけど、KENがくれる感想だけが俺の原動力になっている。  この一年でKENとはイラストに関することだけではなく、お互いの生活についてもいろいろ話をした。  KENは都内の高校に通っている男子高校生で、趣味はゲームと漫画とアニメ鑑賞、最近友達にカラオケで歌を褒められたのをきっかけに、歌うことにも興味が出てきたらしい。好きな食べ物は豚骨ラーメンとお好み焼き、あと学校の友達には恥ずかしくて隠してるけど甘いものも大好物だと教えてくれた。  学校の成績はあまり良くないようで、ちょっと語彙力のないツイートが多いのが気にはなるけど、今時の高校生なんてこんなものだろう。俺も高校生の頃はこんな感じだったし。そんなことより、人を不快にさせるようなことは一切ツイートしないKENの人柄に対して俺は好感を持っていた。  KENのツイートは普段の生活の中で思ったことや楽しかったこと、主に友達とカラオケに行っただとか、学校の宿題が多過ぎて疲れただとか、最近買った漫画や昨夜見たバラエティ番組の感想だとか、そんな他愛のない話題ばかりだけど、そんな何気ない呟きを読みながら彼がどんな子でどんな生活を送っているのか想像するのは結構楽しかったりする。  人生の中でほんの数年しかない短い青春を全身で謳歌しているKENの姿は、きっとキラキラ輝いているんだろう。仕事もせず夢からも逃げ出して一日中部屋でゴロゴロしているだけの俺なんかにはきっと直視できないほどに眩しいその姿は、想像する度に俺の胸の奥を少しだけ痛くする。それは小さな擦り傷を負った足を海水に浸した時の感覚とよく似ていて、俺はいつもその夢のような幻に目を閉じて、なるべく真っ直ぐに見ないようにしていた。  俺が今の絵を丁寧に描いていないことをもしKENが知ったら、KENは俺を軽蔑するだろうか。  そう思うと、胸の奥がひりひりと痛む。だからKENがくれる感想はいつも嬉しくて、いつも少しだけ苦しい。 「おっ待たせー、おにーさん!」  不意に道路の向こう側からでかい声が響いてきて、思わずスマートフォンを落としそうになった。  顔を上げると、いつの間にか向こう側のガードレールの上に絢斗が立っている。 「遅い」 「えへへ、ごめんて。何見てんの?」  ふわりとその身体が宙に浮かび、こっちに向かって泳いでくる。細い指が俺の肩に止まり、あわててスマートフォンを隠したけどわずかに遅かったようだ。 「あれ、もしかしてツイッター? オレもやってたよ」  ツイッターを見ていたのはバレたけど、どうやら内容までは見られていないらしい。 「へえ、そうなのか」 「うん。フォロワーに気になってる人がいるんだよね、どんな人なのかなあって」 「その人は絢斗が死んだこと、知ってるのか?」 「え?」  何の気なしに聞いて、しまったと思った。絢斗は俺から手を離して、すとんと地面に下りる。肩のすぐ横で茶色い髪が風に揺れて、絢斗の大きな瞳を俺から隠してしまう。 「あ、いや……えっと、どうだろ? 知らないと思うよ。リアルで会ったことねーし」 「そうか」  まあ、そりゃそうか。SNSだけの付き合いなんて今時の高校生なら普通だろうし、どちらかがやめてしまえばそれっきりの関係であることを最初から分かった上でみんな利用しているのだから。  分かってはいるけど、絢斗の身の上を知った今では素直にそう思えない。 「それは……寂しいな」  言うつもりなんてなかったのに、ぽつりと呟いていた。 「……うん」  どうせまた絢斗はからかって笑うんだろうと思ったけど、返ってきた言葉はそれだけだった。
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